book and bread mania

-中途半端なサウスポーによる日々読んだ本の記録 + 雑記 + パンについて-

1月に読んだ本からのおすすめ10

1月に読み終えた本は33冊。

その中からおすすめの10冊を紹介!

 追記。

間違えて11冊の紹介になってしまっていたものの、

8位の二冊は甲乙つけ難いので、そのまま記載。

 

 

弟10位。

11人いる!

11人いる! (小学館文庫)

11人いる! (小学館文庫)

 

本書はSFであり、同時にサスペンス。

まず表題作『11人いる!』は10人のはずの所に11人いるというサスペンスで、その犯人探しなどなかなか読み応えあり。

舞台は宇宙船であり、設定の骨組みがしっかりしているので、SF要素も濃厚。

SF好きも、サスペンス好きも楽しめる作品。

 そして中島らもによる、あとがきが秀逸という印象。

そこでの意見が的を得ており、読むとまさにその通り。

この作品は前記のように、SFサスペンスが主でありながらも、作品の魅力はヒロインへと帰結される。

このヒロインがまたとても個性的で、一概にヒロインと呼べない微妙な設定。

そこで垣間見せる性の可能性。

フロルなる彼であり彼女が不思議な魅力を醸し出していて、実に魅力的!

この作品の特徴とも呼べる存在で、この設定と発想力は当時において、だいぶ前衛的であったのでは?とつい思う。

この存在が、他の作品との差異を示して感じた。

あとストーリーとしても、『11人いる!』のあとには王国間の陰謀を交えての戦争危機を描いた政治的物語があり、その出来も良くて全体的にクオリティが高い。

『SF+サスペンス+奇妙な恋愛』とのジャンルを絡ませた複合的な作品。

 

  

弟9位。

 『そして誰もいなくなった

そして誰もいなくなった (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

そして誰もいなくなった (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

 

 古典的名作であり、超有名作品。

ようやく一読。

感想として端的に述べれば「○○の元ネタはこれだったのか!」となること請け合い。

それほどまでには類似性を持つ作品が多く、一読すれば脳裏によぎる類似作品が、少なくともひとつは浮かぶはず。

それほど後世に影響を与えたのであろう本書は、今に読んでも躍動感ある内容。

ハラハラ感が満載!

恐怖の煽り方が巧みで、情緒を揺さ振られては楽しめた。

 

 

弟8位。

 『アリストテレスの哲学

アリストテレス「哲学のすすめ」 (講談社学術文庫)

アリストテレス「哲学のすすめ」 (講談社学術文庫)

 

 内容には

“人はなぜ働くべきなのか?”

という人間誰しもが抱くであろうこの問いに、明確な答えを簡潔に述べる。

それは、

”より善く生きるため”

であり、「仕事をするのはすなわち(活動的な)生であって、もう一つの(可能性の)生よりも一段階上だからである」と唱えていたのが印象的。

そして

「(活動的な)生こそが、真理の追究すなわち幸福の追求であり、働くという好意の意味に対する帰結は、すなわち幸福の追求という事に他ならない。つまり、人は幸福のために働き、そして働かなければ、積極的に幸福は得られないという事である」

等というのは一応に説得力がある。

内容として他には”エピクロス派”と”ストア派”についての解説も。

本書は「哲学をすべき!」と広く民に訴えかける内容で、三段論法などを用い、また弁証法も使用して巧みに、そして分かり易く“哲学の優位性”を説いた一冊。

あとはアリストテレスらしく、彼の有する自然と秩序に対する畏怖と尊敬の念を感じられる一冊。読んで損はない一冊である。

 

 

弟8位。

 『すべてのまぼろしはキンタナ・ローの海に消えた』

 『たったひとつの冴えたやりかた』で有名なジェイムズ・ティプトリー・ジュニアによる一冊。

内容としては著者が作中に登場し、史実を思わせる構成ぶり。

三つの短編から成り、どれもがキンタナ・ローという場所で起こった摩訶不思議な出来事を体験者が語る、という展開。

どれもがSFサスペンスホラー的な要素を含む話で興味深く、実際に体験したこと?その人物は実在?と思えてしまうほどには、リアリティに富む描写!

読了後を一言で表せば、化かされた様な不思議な気持ちになる。

ページ数は決して多くないが、相反するように濃厚な内容。

どの話も冷静となって聞くように読めば「あり得ない!嘘だ!」となるかもしれないが、一読してそうは思わせない。妖艶な語り部のような魅力を持った作品。

この作品自体もまた、その不思議の一つに数えられそうな存在。

そんな作品だった。

 

  

弟7位。

 『国民クイズ

 ネットで知った話題作。

内容としては、ディストピアに近いもの。

クイズが政権を握る日本の姿を描き、資本主義の更に一歩先として描いた世界。

つまり資本主義社会とは他人を出し抜く世界であり、そうした強欲をより進め、それでいて争いを生まない政権を確立。

それが

国民クイズ

であり、なるほどある意味では合理的。

しかし当然漫画であってそこは大げさに表現。

”クイズに勝ち抜いた者の願いは何でも叶える”という設定で、

アメリカにまで攻め入ったりとむちゃくちゃ。こうしたイデオロギーに当然反発するものも出ては、その闘争を描く展開。

絵は上手いほうでないものの、話の魅力でぐいぐいと引き込み、読み応えあった。

 終盤の流れは怒涛であり、話のオチも印象的。

あと印象的なのは、あとがきに述べていた事。

本作品はマキャベリが述べていた人間性論を描いており、それによると人間は近眼的利己主義者であって性悪説である、とのこと。この主張をそのまま描いたとさえいえる最後は、人間の醜さを端的に表現しては迫力があった。

クイズを主題とする珍しさとそこに存在する利己的な欲求とのバランス具合が絶妙で、尽き果てない欲望の姿と資本主義の限界、崩壊を描いた作品。

資本主義経済と利己主義、社会主義経済と利他主義、どちらにも問題があり、その一歩先を見据えた社会体制、それは実に意外な方法。

シナリオがしっかりしていたので、小説化しても面白そうな作品ではあった。

 

 

弟6位。

 『タモリタモリにとって「タモリ」とは何か?』

タモリ学 タモリにとって「タモリ」とは何か?

タモリ学 タモリにとって「タモリ」とは何か?

 

 内容としては、タモリの語録を集めてそこから意思を読み取る形で、

一読して思うのはタモリが哲学家だということ。

”言葉”こそが知識であり思考を象るもの。

よって理知を養う上では重要なものかと思っていたが、いきなりそこを全否定!

タモリ曰く「言葉を壊してやろうと思ってきた」との発言には驚かされた。

同時に、フッサール現象学を否定するように、「言葉が重要ではなく、言葉を恐しそこから解き放たれて得られる自由こそ、重要」とするその言葉は金言に思えた。

本書はタモリが考える『生』についてや、『エロ』についての概念が述べられ、予想以上に深い内容。

そして思うのは、タモリの思想の根源には厭世主義者的なものが感じられ、ショーペンハウエルにも似た思考を感じた。けれどそこからも数歩横に逸れ、深遠かつ独自な哲学を持っているのには間違いなく、それを読み取れる内容。

人生の無意味さに幼少期から気付いたその鋭さは、素直に凄いと思った。

あとは本人があまり語らず、ベールに包まれた家庭事情の複雑さについても知れたりと、タモリの意外な面が知れる一冊。

「5歳が頭の良さのピークだった」という発言には笑う。

さすがタモリ

そして、無意味さの謳歌を主張し、生きる事の重荷を多少軽くしてくれる内容。

人生はもっと気軽に生きていいよ言ってくれる一冊。

ある意味、アドラー心理学的でもあった。

 

 

弟5位。

 『烏有此譚

烏有此譚

烏有此譚

 

 円城塔ファンなので、多少贔屓目の評価と感想。

読んでみるとこれまた癖のある内容。

然しそれをある意味では求めているのであって期待通り。

内容としては、穴。

摩訶不思議で、端的に言えば、わけ分からん。

その摩訶不思議さは一読のみでは理解し難いが、読み終え反芻するように思えば多少なりともその全体像を掴み始め、

すると理解の範疇からこぼれていた概念は、手に取った砂のように最初、ぎゅっと握りしめても零れ落ちてしまっていたが、徐々に砂は固まりこぼれなくなる感覚。

だんだんと理解できるようになってくれば、そこに浮かぶ概念は、真新しい。

あと構成も特徴的で、本文と平行して脚注が進む内容。この脚注がやたらと多く、作品の醍醐味でもあった。

 

 

弟4位。

『歴史は「べき乗則」で動く』

歴史は「べき乗則」で動く――種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学 (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)

歴史は「べき乗則」で動く――種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学 (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)

 

 マトリョーシカ的現象を思わせるのが、この「べき乗則」!

しかしここは本書内のこの言葉

 

 私の式辞は手短に終えたいと思います。

しかし世界で一番手短な挨拶をした、サルヴァドール・ダリにはかないません。彼は、

「短くしたいのでここで終わりになります」

とだけ言って、席に着いたのです。

 

E・O・ウィルソン

ペンシルベニア州立大学の卒業式での式辞 

 に習い、ここで述べるはこの程度に止める。

 感想の詳細は

歴史は「べき乗則」で動く - book and bread mania

記事にしたのでこちらに。

 

 

弟3位

『P≠NP予想とはなんだろう ゴールデンチケットは見つかるか?』

P≠NP予想とはなんだろう  ゴールデンチケットは見つかるか?

P≠NP予想とはなんだろう ゴールデンチケットは見つかるか?

 

 現在、賞金の賭けられている『P≠NP予想』についての概要が理解できる一冊。

ほぼ数式を使用せず解説する本書は、分かり易く万人向けといった印象。

そして、この概念に関与した人物たちのエピソードも面白く、ロシア人数学家三人の話は興味深かった。加えてスターリン共産主義から、確率論を守った話なども。

もしもP=NPならば、すべての問題が最適化でき、結果的に文化的水準は大幅に向上。するとその後の世界はどうなるか?

『P=NP』の未来像を描く章では、変容する世界の様子をSF小説の如く描き、ワクワクする内容であり面白い。

『P≠NP予想』に込められた希望も失望も味わえる一冊。

おすすめ。

 

 

弟2位。

『ゼロの博物誌』

ゼロの博物誌 (KAWADE NEW SCIENCE)

ゼロの博物誌 (KAWADE NEW SCIENCE)

 

 とても面白く、読んでいて時間を忘れ、興奮したほどの一冊!

内容としては、題名どおりに“セロ”の概念がまずどのように生まれたか、いや、正確には「導き出されたか?」を入念に語り、その発見が容易ではなく、そしてすぐには受け入れられなかった事実が鮮明に浮かび上がるほどには実にこと細かく解説。

内容はゼロ出生の秘密のみならず、ゼロという摩訶不思議なこの存在について、さまざまな観点から視察。

中には“0の0乗が1”である理由なども明確に解説し、その分かり易さに驚いたほど。

終盤は“ゼロ”という概念について、今度は哲学的な概念からも語る。

そこではサルトルの実在主義についても引き合いに出し、存在するからあるのではなく、あるから存在する、といった思想にもゼロの概念は深く関わりを持つと説く。

最後には形式主義者の立場についての陳述もあり、

「数学とは抽象的な概念を形式化する」

とした言葉が印象的。

 

「無がある」

一見して矛盾のあるこの言葉。

しかし「0がある」とすれば、そこに整合性を感じる不思議。

ゼロは今でこそ当たり間の存在に感じ、身近に接しているように感じるが、

その存在の神秘さに気づかず、気づいていないことにさえも気づかない。

ゼロの不思議さ、美しさを知れる一冊。読んで損はなし!

 

 

弟1位。

『ファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか?』

ファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
 

 記事にした一冊。

ファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか? - book and bread mania

新書などによく見られる自己啓発、そこにある成功話は無駄だ!とする論拠もまた説得力があり、成功話は与太話、とするのは笑ってしまった。

俗に言う「何を言うかではなく、誰が言うか」は説得力を得る上で重要だが、

その概念すらも覆す内容の一冊。

本書を読み、修正して言うならば、こうだろう。

「何を言うかではなく、誰が言うかでもなく、その発言を鵜呑みにするな!」

 

皮肉を端的に表現する『骨折の法則』などは初めて知り、大いに活躍しそうな法則!

あとは近い将来、夫婦が離婚するかどうかを予測する式が提示され、

それが

“セックスの数-ケンカの数”。

これもユーモラスで面白く、しかし結果はマイナスになる場合が大半では?とする点も含めて面白い。話題用に覚えておけば、少なくとも参考書に載る公式よりは、交流の場での活躍が多そうだ。

ユーモアも真面目も含め、色々な意味で随分とためになる一冊。

 

ファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか?

 

ファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
 

ヒューリスティックと、それに伴うバイアスを解説する一冊。

身近な例を挙げて述べるので、内容は分かり易い。

けれど随分と読み応えあるので、十分に租借し反芻しなければ、喉に詰まるような濃厚な内容。

 

 主な内容としては、認識の錯誤について。

物事の結果を知ってから「予想できており知っていた」、

つまり「ああ、それならそうなるだろうと前々から知ってたよ」

と偉ぶる鼻をへし折るであろう、後知恵による結果を既知する錯覚を解説。

よくある事故が起きてから「なぜ、対策をしていなかった!?」

との批判の無意味さをしっかり述べる。

こうした“結果の錯覚”などはごく身近に存在するバイアスであり、それら認識錯誤の原因を端に「見栄と傲慢による糞便」とはせず、メカニズムを簡潔かつ鋭く解説!

 

 

それから妥当性の錯覚などは、脳の過大評価もしくは知能の自信過剰な結果。

脳が如何に楽な判断、つまり一見して合理的な帰結に持ち込もうとしているのか、よく分かる。

甘党でもある脳は、基本的には怠け者。

随分と短絡的であり、何にだって合理性や因果律を求めてやまない、うつけもの。

合理性、つまり一貫したストーリーを想定し、それを真実と呈する方が脳にとっては都合がよく、だから「なるほど、だから彼はこうしたのか!」と思い込みを一方的に信じる。それは脳にとって効率的でもあるが、決して真実とは限らない。

 

寧ろ実際には錯誤が多く、バイアスばかり。

本書によって、愛おしくも脳のぽんこつ具合を改めて教えられた。

 

あと重要なのが“平均回帰”という概念。

端的に言えば、良いときもあれば、悪いときも当然あるさ、と言った当たり前のこと。

けれど人は誤解し、例えば何かの競技でコーチが叱咤し、それで成績が上がると

「お!叱咤した効果か!」

とつい思ってしまう。

そして次に褒め、それで成績が下がると

「甘やかしては駄目だ!」

と定義する。

これが誤解だとするのが、“平均回帰”。

つまり最初の好成績はあくまで偶然的であり、コーチが叱った事は関係ない。

同時に、二度目の成績が下がったのは甘やかしたせいでもなければ、それは単なる統計的な事象。

最初が稀な成績であり、二度目は通常的な成績に帰結したに過ぎない。

つまり一度目は「運が良かった!」のであり、二度目は通常通り、平均的な成績へと戻ったに過ぎない。にも拘らず、人はこのような場合には大概、

「しかることが成績向上につながる!甘やかしては駄目だ!」

としてしまう。

このような“平均回帰”の現象はいたるところにあり、自分も巻き込まれているのではないか?と気付かせてくれる。

そしてある種、運の要素の重要さも物語る。

 

 

後は終盤、投資専門家を例にした未来予測性のバイアスについてはおおよそ辛辣気味であり、その結果として

専門的スキルが投資成功の要因にはならない!

といった検証結果には驚愕。

そして、そこで述べられる比喩

 

特定の分野を日頃から多大な時間を使って研究し、それで食べている評論家たちは、ダーツを投げるサルよりもお粗末だった。 

 

これには思わず爆笑。

いいセンスだ。

 

そこでは専門家による未来予想の誤謬性も説き、シンプルなアルゴリズム計算のほうが精度が良い、というのも予想はできるが衝撃的ではある。

そして、こうした結果を衝撃的であると思え、否定的と思えることこそが、人間脳らしさ、ということなのだろう。

それでも結論として、

直感は頼りすぎるべきではない。然し、一切無視すべきでもない。

としたのが印象的。

 

 

あとは、

最初の印象が良ければ、その後の印象、相手の人間性を良く思ってしまうという錯誤 “ハロー効果” について等も述べており、人間脳の機能として回避困難な存在を解説。

得てしてこうした脳機能は根付いているものであり一概に排除は難しい。

ならばとうまく付き合う方法を伝習してくれる。

 

つまり、端的にいえば、

「良い異性と付き合いたければ、まずは自分の脳と良く付き合いな!」

ということである。

 

 

専門家による未来予想が単純なアルゴリズムに劣る理由。

それもまた単純で、

「専門家は専門知識を無為に詰め込み複雑にするので、かえって当たり難い」

という理由のみ。

 

私たちは自分の事を誰よりも知った心地で居る。

然しそれは思い違いであり、私たちは想像以上に自分自身のことについて知らない。

誰だって自分は他よりも頭が切れると思い、

ぼんくら共とは違うぞ、と思う。

だがそれは脳の思い込みでもあり、私たちは気付かぬだけで、想像以上に脳は間抜けなのだ。

本書は、自分が持つ”自分”と言う専門知識を、洗い流して改めて眺める機会を与えてくれる良書。

 

 

 

然し面白くもあり難しいのは、

「ああ、なるほど!そういうことか!納得!自分は考え方に間違いがあった!」

と読了後にするのは正しいが、それ自体、その単純性もまた脳の錯誤であり、

影響を大いに受けて単純に信じて行動かえれば、

“プライミング効果”

の一種と捉えられるかもしれない。

 

人間脳の認識とバイアスに橋かけるこうしたトートロジー的な要素もまた、

人間脳らしいと言うことだろうか。

結果、「懐疑主義万歳!」

とでも結論付ければ、ショーペンハウエル大先生は喜びそうだ。

けれどそこにも、短絡脳の欠陥が潜んでいるのだろうけど…。

 

 

延命に見る ”+” と ”-” と ”ゼロ”


こういった延命関連の記事を見て、ふと思ったことであり、

酩酊状態のようにして綴った内容であるので、あしからず。

 

確かに、上記の技術が確立されれば延命につながり、

人の寿命はさらに延びると思う。

 

けれど、有史以来、人類は医療技術を発展させ続け、

結果的には寿命を延ばすことに成功している。

 

しかしそれは一方的な寿命の延長であって、つまりは”+”の概念。

年を重ねる、つまり長く年を取れるようにする研究は進んでいるものの、

逆の概念、”-(マイナス)”の概念に対する生物的な知見の進歩は乏しい。

 

 

つまりは寿命の反対、

”死”に対する研究の進展、進歩のなさは著しく、

もしこの系統に対しての進歩があったのだとすれば、それは”数学”上にあるのみで*1

生化学的な方面では、この”-(マイナス)”方面に対する研究は進んでいないのでは?

と、ふと思ってしまった。

 

一般に、”死”や”死後の世界の研究”などと言えば、

トンデモ科学に思われ、超心理学などはエセ科学とする節があると、感じてしまう。

けれど不思議なのは、

「死ぬとはどういうこと?」

と誰もが疑問に思いながらも、深く追究しようとするのはごく一部という事実。

そして、”+”的な延命には力を注ぐのに、”-”的な解明(延命?)には力を注がないこと。 

”-(マイナス)”方面に対する研究が、結果的に現状の言うところの”延命”概念に繋がる可能性もあるのでは?

 

”ゼロ”、という存在と概念が長い時間をかけて理解され、受け入れられたように、

”死”や、”死後の世界”に対する、パラダイムシフトも訪れるのかも?

 

「無がある」、”there is nothing(”無い”がある)”

これら言葉には矛盾を感じるのに対し、

「ゼロがある」

というのは、理にかなって思える不思議。

そこにゼロと言う形容の難しい存在があり、

ゼロが死を意味するのかは微妙なところ。

そして、ゼロの先、”-(マイナス)”の先にも、ある種の形を呈した命があるのか今は分からない。

 

 

関連して印象的な言葉が、

数学者ロバート・カプランによる、

この言葉。

 

 

 

空想と事実の違いは、

空想は自分の好きなようにしていいのに対し、

事実は宇宙が満足するようになっているという点です。

 

 

 

こうして思うと宇宙にも一定の意思と、生命性があるように感じ、

そして、その生命性が今、”+”の方に動いているのか、

”-”の方に動いているのかは分からない。

延命として”+”の方ばかりに注目する中、

”-”のほうにも注目する価値はあるのでは?

なんて上記のリンク記事、

首切りして他の体に繋ぐトンデモ延命方法を読んでは思うのみ。

 

 

あとはこの記事、徹頭徹尾に整合性があまりなく、

どうやらこの記事自体は、結合手術に失敗した模様。

実際の「頭部移植手術」の方は、成功してもらいたい。

 

粋な言葉

 最近触れた、粋な言葉。

 

昭和元禄落語心中の2期目、

その三話目、印象的だった粋な台詞。

それは、

相手に込み入った事情があり、

そこに踏み込んでほしくない、と相手がした時、主人公が返した言葉。

まず、「ならもう話してくれなくていいや」と言い、

続けて言った、この言葉。

 

 

世の中には言葉にしねぇ方がいいこともある。

隠し事のねぇ人間なんて色気がねぇ。

 

 

 

もうひとつは、

論理学者ウィラード・ヴァン・オーマン・クワインによるこの話。

 あるピアニストがモーツァルトを弾いて、鍵盤を打ち間違えたことをわびたとき、 

クワインが慰めるために言った、この言葉。

 

  

気にすることはない、

別の曲を完璧に弾いただけだ。

 

 

どちらも「粋な言葉だなぁ」と、思わず感嘆した。

 

パンの祖の祭りに行って来た!

 

韮山で毎年、行われているパンのイベント。

それが”パンの祖の祭り

 

日本で初めてパンを作ったとされるのが、

韮山代官・江川太郎左衛門という人物。

その業績を讃え、

所縁であるこの地において行われるパンの一大イベント!

 

 

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会場は韮山駅に隣接する施設内。

パンの即売会も行われ、出品は東京からの有名店も!

店舗の数こそ、そこまで多くないものの、東京からは『ルヴァン』などがパンを出していたのが印象的。それらの販売は生徒さんで、あとは『ベーカリー&テーブル 東府や』というお店は大々的に出店していて、店の人が販売を行い、そして行列を作っていたのが印象的。

 

 

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祭りでは、パン食いゲーム、パン当てゲームと企画も充実しており、

中でも最大の目玉は、”全国高校生パンコンテスト”!

その模様を拝見してきた。

 

端的に言って、高校生のパンはどれもがアイデアに優れ、

展示されるその出来栄えを見ては「凄いな!」と思うことが多々。

言葉通り「甲乙つけ難い」逸品ばかりであり、

見た目の良さも然ることながら、内層の美しさもなかなか。

素材と生地のコントラストが素晴らしかった!

 

あとはこの選手権において少し印象的なのは、男女比率で、圧倒的女子感。

女子が大半で、男子の数はごく僅か。

同時に、審査員に女性が一人も居なかったという事実をあわせると、より印象的。

 

高校生パンコンテストに話を戻すと、本当にどのパンも良い出来で、アイデアも秀逸。

形と色合いに、特に力が入っているように感じた。

色合い鮮やかなパンが豊富であり、ツォップの様な編み目状の成形は見事。

バゲット基調のパンも綺麗な焼成具合で、レベルの高さを窺わせた。

他にも素材同士の意外な組み合わせなど、所々に工夫が見られ、

「日本のパン業界の未来は明るいな!」

そう思わせてくれるイベントであった!!

 

 

あと、後日談のような雑記。

伊豆という、この界隈に来たのは初めてであり、顕著な田舎具合が妙に新鮮。

帰りには、用事で一駅となりにある ”原木駅” に降りると無人駅で改札もなし。

煙草入れのような容器に、ここに切符を入れてください、とあって、改札もなく人も居ないので少し驚く。

その後、用事を済ませると日は暮れて夜になりながらも原木駅に戻り、無人の駅でひとり電車を待つので、ふと空を見る。

辺りは閑散とした田畑で、眩い光に乏しく、そうして見上げるその夜空。

ステレオタイプ的発想ならば、期待するのは

「星空が眼前いっぱいに広がっていた!」

となるだろうけれど、実際に目に入った光景。

それは、曇り模様である空に一切の星は見えず、ただ濁ったような暗やみばかりが空を覆っていた。

しかしそれはどこか、田舎というイメージに対する齟齬のようなものに感じて、寧ろユニークで面白い。

 

「星空を見せない田舎に何の価値がある?」

等と、田舎を描く作品に対しての反骨精神のようであり、

田舎の夜空は星空ならぬ、アンチテーゼを空模様として一面に見せてくれた。

 

  

興味深いな、と思ったこと。

 

因果の誤謬について。

 

例えば、テーブル上に白い箱と黒い箱の二つがある。

そこで白い箱を、黒い箱に接近させる。

そのとき、黒い箱が離れるようにスッと動くと、人は

「あっ、白い箱の影響で、黒い箱は動いたのだな」

とつい思ってしまう。

しかしこれは間違いで、

この実験では、白い箱は黒い箱には触れず、黒い箱が動いた原因ではない。

 

にもかかわらず、人はこれを「白い箱による影響」

と思い込む。

そうして因果を成立させた方が納得いくからであり、

端的に言えば、納得できないと気持ちが悪いからである。

 

なので何事にも人は因果を求め、整合性を求める。

破綻したストーリーを好まず、ちょっとしたことも「複線!?」

とするのは、脳が因果律中毒だからとのこと。

 

興味深いな、と思うと同時、

人間の存在自体もそんな物なのかも、とつい思う。

病気時の混沌

 

しんどい。

 

それでも少々体調よくなって動けるようになれば、

気付くは、喰う物なし。

食物なくして栄養得られず。

身体はまだしんどく、源平討魔伝で言えば蝋燭1本しかないんじゃないか?

と思える体調。

風前の灯火ながらも奮起し、近所のスーパーへなんとか買出しに。

 

するとすれ違った、小綺麗な格好をした若い女性。

俯き加減に歩き、その手に鞄はなく、スーパーの袋にも入っていない、パッケージそのまま裸状態の生理用品を握っていた。

その時のなんとも言えぬ感情、筆舌に尽くし難い。

 

端的に推測すれば、女性が持っていたのはそれ一つだったので、薬局でそれだけ購入。

すると店員が「テープのみでよろしいですか?」として頷いてしまったのでは?と思う。とすれば、薬局の店員なかなか鬼畜だな、とつい思う。

 

でもこうした気恥ずかしさと共に違和感にも似た感情を覚えるのは何故だろう?

性差から女性の心境を明確に察するは不可能だし、すると思うのは、その気恥ずかしさはなんとなくで分かるのだけれど、それはおそらく違うであろうとも分かってる。

つまり、理解している齟齬こそが、この妙な気持ち悪さを思わせ、

齟齬を理解しながらもそれを決して正せない点に、このもどかしさがあるのでは。

吉良吉影風に言うと、ずれて履いてる靴下を決して直せない状況というか、少し違うけれど、気持ち悪さに関しては似たようなものがあると思う。そのもどかしさとか。

 

というか、そうすると齟齬について「じゃあ何が齟齬として捕らえて感じる?」と妄想のように思い、そこではつまり食い違いの概念があって、では人間はどうして食い違いをダメとし、合致したものをよしとするのか?

 

そこで次に、シンメトリーの溢れる自然が候補に挙がり、美しさを求めるが故であり、イケメン・美女=正義のような、または優美なるものが遺伝的に優れているとする遺伝子があって、それで美しい物、つまりシンメトリー性に惹かれるのでは、とつい思う。

でもシンメトリーに人は惹かれながらも、ちょっと待て。

そうした根源となるDNA,この二重らせんの細部はよくよく考えるとシンメトリーにはなっておらず、塩基の相補性として同じ塩素がくっ付く事はない。

そこにシンメトリーはなくて、安定性を求めて結合した結果が今の状態。

ではどうして、物質は安定性をシンメトリーとして持たせないのだろうか?

 

そうした変な疑問ばかりがふつふつと頭から沸き出て、

ならば風邪も一緒に蒸発させてほしいなと思う限り。

 

はあしんどい。