「樽の底」といったジョークに見える人生の機転とは
気づけば年の瀬であり、
一年をじっくり振り返ようとする前には翌年が訪れようとする12月末。
今年についてを思うと良いことだってあれば、悪いこともあった。
そんな最中に思うのは、
「たとえ悪いことであっても、時間が過ぎれば良い思い出に…」
とした思惟でありそれは恣意的であって欺瞞的。
けれど実際、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」というように、つらい思い出とて四六時中つきまとうわけじゃない。
すると思うのは、
「じゃあ悪い出来事って何だ?」
とした疑問。
当然、それは人間関係においてであったり、病気や怪我など。
要約すれば、”不快な状態になる”、ということになるだろう。
だがそうした状態を解消する、万能な応急処理を今年には発見。
「そんな薬があるものか!」
と言われようとも実際に存在する。
それがジョークだ。
つらい思いも、それを転換して見つめれば、なんとまあ滑稽さが目立つだろうか。
人生にとってつらいことは当然存在する。
そうした節目において、逆にそれを利用してやろう!
ぐらいの意気込みが、人生を生きる上での度胸としてちょうどよい。
逆境をジョークに。
そんな万能薬の効用の例して、「樽の底」というジョークを紹介!
プロテスタントの牧師が話しあっていた。
ひとりは、既婚者で、もうひとりは独身だった。
独身の牧師が、女はみな性悪だから結婚はしないと言った。
「いや、そうじゃない」と妻帯している方が言った。
「なにからなにまで悪いわけじゃないんだ。つまり、女というのは、蜂蜜と糞が半分ずつ詰った樽みたいなものなんだ。結婚した当初は蜜をたくさんなめられるさ。ずいぶんたてば、糞にぶつかるってわけだ」
隣でそれを聞いていた男が言った。
「牧師さん、どうやら、わしは樽を逆さまに開けちまったらしい。うちの女房と来た日には、初めっから糞ばかりだもんな」
このジョークには爆笑したw
ヤマザキの『チーズリングパン』
やたらとチーズチーズごり押しだったので購入。
チーズ好きなので。
外観。
1個の重さは103g。
そのままで食べてみると、表面全体にあるチーズの味が濃い。
生地のなかにもチーズ。そのチーズの味も濃い目。
生地自体としてはふんわりとして軽く、普通の菓子パン生地といった印象。
だがチーズ具合にはなかなかのボリュームを感じ、なかに入ってるチーズは、一般に売られているスライス状のとろけるチーズのような味。
表面のチーズは少し甘みがあって、菓子パンや惣菜パンなどのトッピングでよく使われているマヨ交じりチーズのような、チープでジャンクな味。
しかしそのトッピングのチーズと、なかのチーズを合わせれば総合的にもチーズは結構たっぷりで、
「チープでジャンクなピザ」
として過言でないほどのチーズ味わえる感。
生地とチーズの比重は「同じぐらいなのでは?」と思えるぐらいにはチーズたっぷりで、なるほど確かにチーズ好きには捗る菓子パン。
チーズ好きならお勧め。
カロリーも”1個305 kcal”と高すぎないのも良い点だと思う。
一回で満喫
田舎のプレイボーイのジェイクが、町の女朗屋に行った。
「なにか変わったヤツが欲しいだ」とジェイクはマダムに言った。
「変ったヤツねえ」とマダムは田舎者を値踏みして言った。
「いいわ、ドロシー、このハンサムちゃんに六十九をしておやり」
ドロシーは、ジェイクを二階に連れて行った。二人とも素っ裸になり、ドロシーはジェイクの上に逆に馬乗りになり、まさに始めようとしたとき、ついうっかり、ブーッと洩らしてしまった。
顔にまともにこいつを喰ったジェイクは、飛び上った。そしてベッドから転がり降りた。
「どうしたの?」とドロシーがたずねた。
「おら変ったヤツを頼んだが、こりゃ一度で十分だ。後六十八回もとてもガマンできねえ」
一番とは如何に、としても面白かったアニメは『アニメガタリズ』。
「今年、どの作品が一番に面白かったか?」
と問われようとも、正確に答えようがない。
のっけからとんでもない事を述べているようであっても、ちゃんとした理由がある。
それは、たとえある作品を視聴しとても感動をしたとしても、日が経てばその感動は当初より薄れていくからである。
けれどそれは仕方がないことであって、人間の精神としての恒常性とでも言えばわかりやすいと思う。例えて言えば、カレー大好きなやつでも「毎日3食カレー!」が数週間と続けば食傷気味になるようなもの。
だからこそ、
「とっても面白かった!」
と感情の起伏を激しく催す作品であっても、それは見終えた時がピークであって、その後は「ああ、面白かったね」、「面白かったよ」、「名作だね」、「…(言わずに語る)」と評論家のごとく冷静淡々とした意見が先行して感情の火山は鎮火する。
だからこそ「これが一番に面白かった!!」というのは難しく、
要はその時々によって「一番だろこれは!!」となる作品は異なるからであって、自分が「面白い!」と思った作品を見終えたときの数だけ自分がいれば、各々が直前まで視聴した作品を挙げるだろう。
だから、
「今年視聴した中で、一番面白かった作品とは何か?」
は漂流して3日間何も食わずの人がココイチ帰りの人に救助されて、
「好きな食べ物は?」
と問われることに等しい。
換言すればその場の一時的な感情に過ぎないのであり、
換言しないのであれば嗅覚を刺激するその芳香の奴隷となっては「カレーを食わせろ!」と答えるようなもの。
無駄な前置きこれぐらいにして、
「じゃあ何が面白かったの?」
と問われて、今の自分が挙げるのだとすれば、
それは表題にあるアニメ。
ただいま絶賛放送中である、この作品。
その名も…
『アニメガタリズ』!!!
どんなアニメか?
あらすじとしては、以下のとおり。
"阿佐ヶ谷未乃愛(みのあ)は春から高校一年生。楽しい高校生活を謳歌するはずが、ひょんな事からアニメ研究部を発足させることに。ところが集まったメンバーは一癖も二癖もあるアニメ好きばかり。振り回されながらも仲間に触発され、未乃愛はアニメにのめり込んでいく。しかし、いつの間にか世界を滅ぼす展開に巻き込まれてしまう!?*1
正直いって世間でどのぐらい知名度あるか?露知らず、
どちらかといえばマイナーなのでは?と思える立ち位置の作品。
しかしこれが実に面白いのだ。
「どこが面白いの?」
と訊かれれば、シンプルにこう答える。
それは、
「実に、メタっているから!!」
本作品は、アニメのなかで、「アニメとは何ぞや」と語り、思索する作品であって、
それがアニメの中で行われているのだから合わせ鏡的。
たとえば、
「EDで走るアニメは名作!」
なんて語り合いながらも、このアニメのEDでは走らない!としたアイロニー感。
アニメを語るだけあって、さまざまなアニメのパロディー演出があるのはもちろんのこと、ときにはアニメの名も出すのだけれど流石にそのままは使えない。
そこで微妙に異なる名前で代替。
すぐに「ああ、あのアニメか」とわかるぎりぎりのネーミングセンスの巧みさよ!
例を少し挙げると、
『泣き虫サドル』
『スラッシュダンク』
等。ほかにも色々と。
あとは、ギレンの演説そのままパロっていたのには普通に笑ったし、アニメで全裸における恥部を隠す謎の光についてを語ったりなどメタ部分多し。
物語る者たちが物語を、物語っているものとして考察する。
これはまさにアニメを見るアニメの登場人物を見る、とした俯瞰する俯瞰の立場を視聴者が取れる作品であって、二重メタ的であり複合的な俯瞰視点を抱ける。
だからこそ「筒井康隆が好きそうなアニメだな」なんて思える作品。
特に最新11話目には驚愕させられ、同時に大いに笑わせてもらえておなかいっぱいの内容。この11話目は全体的にメタ全開であって、この回だけでも「この内容のテーマを広げれば、面白い映画にさえ出来るのでは?」と思えるほどで、現象学における独我論的見方もできるようであってそうした観点から見ても面白いのでは?となる内容。
単純に言い直せば、11話目の凄まじさはこういったことになる。
「アニメが嫌い、っていう噂が流れて私は嫌われた」
アニメの中の世界において。
本作品の特徴は題名どおり、
「アニメの中の住人がアニメを考え語り合う」
ということにある。
この一見トートロジー的な状況は特殊に思えるが、冷静に考えればそうでもない。
むしろそれは普遍的な思惟であって、
なぜならアニメの住人がアニメを考えるということはすなわち、自分の住む世界について考察することにほかならず、それは現実の私たちが「現実のこの世界とは何か?」と問うことに等しいからだ。
それでも、このアニメの特殊な状況としては、それは登場人物の彼らがその存在する世界を「アニメの中」と認識していない点であり、だからこそ、彼らは「アニメとは何か?」と語り得るわけである。
しかしそれが11話には…
最終回まであとわずかだ思うので、最終回が実に楽しみな本作品。
こんな特殊で哲学的な作品を知らず存ぜぬで済ますのはもったいない!
今からでも最終回には間に合うので、「ふーん」と少しでも興味を持ったなら、すぐにでも視聴をおすすめするアニメ作品。
それが『アニメガタリズ』だ!!
*1:公式HPより
あたらしい哲学入門 なぜ人間は八本足か?
うーん、正直、期待はずれだった一冊…。
というか、内容が中高生向けで、端的にいえば浅かった。
本書では、
「生きる意味とは?」
という問いに対しての、哲学として捉えた際の回答として
「その答えは個人的感想の言い合いにしか成りえない」
とする。
そして本書において問題なのは、そうした言葉のブーメラン性。
要するに、本書における著者の主張もおおよそがこの「個人的感想」の域を出ておらず、「空はどうして青いの?」とした問いに対する答えも同様。
子供がそう訊ねてきた時、それは本質的な答えを欲しているのではなく、疑問として呈すことを欲しているのだ、と主張する。
ここではなにも、「そんなことはない!子供はその原理としての真理を知るたがっている!」と言いたいのではなく、こうした反論が間違いであることは容易に述べられている。
ここで言いたいのはそうしたことではなく、
誤謬なのは、そうした答えを、つまり「本質的な答えを欲しているのではなく、疑問として呈すことを欲しているのだ」という意見を、いかにもそれ以外にはありえない、として考えることであり、こうした一面性な答えこそないとするのが哲学であり、同時に「本質を問い詰めることは無意味である」とまでする姿勢は、まさに哲学者としてはその本質を問われるのでは?と思わずにはいられなかった。
一番の問題として本書に問われる原因とはつまり、形而上学的な問いに対する逃亡に他ならない。
なぜそうなっているのか?
なぜそうなのか?
普遍的な疑問に対して言語的な解明すら用いず、それは「ウィトゲンシュタインの前期思想をかじっただけ?」と思わせるような浅くて逃げ腰の回答ばかり。
「そうした疑問は、○○した理由から無意味である」
との解説はわかりやすい。
同時に独我的であり、自信のないところは「…のように思われるのです」などといい、
変なところで自信あって、「つまり○○なので、○○はありえません」として、
独我論を通して客観性を語る以前に、主観による意見が多すぎる!
疑問性を抱かせ同時に一番面白いのは、著者の自分自身における主観的意見に対しての、その主観性に気づいていないところであり、そのため、自分の言葉がそのまま事象の説明とに対する矛盾につながっているということ。
例えるなら、天下った議員がぼったくりバーを非難しているような。
読んでいて感じた違和は結局、哲学としての物の見方を解説しているにもかかわらず、一面的な見方でしか解説していないことであり、それをさも当然といった風にしていることにある。
これでは視野を広げようが、実は閉ざされておりトゥルーマンショーのように限られた空間を示すのみ。
結局視野は制限されており、具合が悪いのはそれをトゥルーマンショーの舞台であり、建屋内であるとは言わないことであって、欺瞞的。
初心者向けの哲学本として、多少ふざけて書いてる?
なんてことさえ思える一冊。
感情論でしか答えられない問題には意味がない、
と断言しておきながら、本書では著者の意見がおおよそ感情論という滑稽性。
ユーモアをテーマにしているのであれば、納得の一冊だった。
なぜ人間は八本足か?
表題にある言葉。
これは言語としての構築から導き出される、
「意味のない質問」としての例。
事実としての前提がない質問は答えようがなく、したがって無意味。
「なぜ人間は八本足か?」
こうした問いは無意味なのです。
などと語っているが、それこそ訊かれた事がないからだろう。
よってこれは訊かれた事があるならば当然無意味な質問などではなく、
答えるべき答えも存在する。無意味な質問などないのだから。
じゃあこれには、なんて答えるの?
ときかれれば、こう答えるべき。
「そりゃあ、お前さんが三杯もウォッカを飲んだからさ」
反哲学的断章
内容としては箴言集、というよりメモ集といったほうが適切に思える。
色々と含蓄ある『言葉』が綴られているが、
なかでも印象的だった一節がこれ。
ソクラテスの対話を読むと、こんな気持におそわれる。
なんとおそるべき時間のむだ!
なにも証明せず、なにも明らかにしない、これらの議論は、なんの役にたつのか?
これには笑ったw
まさに「お前が言うな*1」だったのでは?というのは想像に難しくないw
けれど、こういった言葉であってもヴィトゲンシュタインの発言となると一種の説得感を持ちえて感じ、これこそ、いわば
「何を言うかではなく、誰が言うかが重要」
とした事象を如実に表していると思う。
それでも、こうした言葉の真意は決して伝わらない、とでもすれば、それは両義的にもこの綴られた『言葉』としてのメッセージを受け取れているのだとは感じるけど。
*1:前期の著書による、最後のどんでん返しを思えば当然である。
Melon de melonのプレーンメロンパン。
見た目としては、ゴツゴツとした格子模様が大きめ。
そして高さは3センチぐらいで、平べったい。
気泡は皆無で密度の高い生地。
・ビスケット生地が大きめ。
「メロンパン丸々一個って、甘過ぎるし、ちょっと重い気がする…」
全体的には少々の上品さすら感じさせるバランスの良さ(ビス生地の面積広くほどよい薄さに、全体的に甘みがでしゃばらない)で、つまりはカロリーモンスターとしての魅力+凶悪さをより特化させた、何個でもばくばく食べてしまいたくなる悪魔的メロンパンだった!