book and bread mania

-中途半端なサウスポーによる日々読んだ本の記録 + 雑記 + パンについて-

すっごい久しぶりにエヴァ新劇場版Qを観たけど

やっぱり面白いじゃん!!

そして当時に観賞したときと受ける印象は異なって感じ、当時視聴していたときには「アスカってやっぱツンデレでシンジのこと好きじゃん!」と、なんだかんだで助ける姿から思って観ていたのだけど、今にして注視するとそうした思惑はめっぽう違うようにも思われた。

 

そもそもQの舞台は、シンジが目覚めると14年後の世界。

他の人間はみな歳を取っているというこの設定に潜む多様性がよく分かってなかったと思う。

 

アスカはエヴァの呪いやらで見た目には歳を取らない(むしろガイナックスの呪いに思えたりも)とかいって、ってことはだ。見た目は若いが中身は三十路に近い。

そう考えて見れるようになるとアスカの行動原理も見方が変わってくる。

尤も、作中においてもシンジに対して「ガキ」を連発している時点で「ああ、なるほど」となるのが正しいのだろうけど(見方によっては自分に対する戒めだろ!っていう意見もありそうではある)。

けれどまあ、そうやってアスカ姉さん目線で観るとシンジにかまけるのは恋愛感情よりかは年配者としての心配や配慮としての心使いが案外、そのベクトルとしての割合を増しているんじゃないかな?ってな風にも見て取れる。

たぶん、だけどこの関係性を14年前の自分と加持さんとの関係性として己の中で対比させているのだとすればなかなか思うところもあるじゃないかなと、久々に視聴したQにおいては感慨深く思えたわけです。

 

あとこのタイトル「Q」の意味はたぶん、みんなのリアクションのことであって、するとここまで題名を伏線として最後に回収した作品とは他に類を見ないのでは?何てことも思えたり。

 

 

 

のび太がしずかちゃんと結婚してもセワシ君が生まれる理由について…

ドラえもんには有名なパラドクスがある。

それが「セワシ君問題」と呼ばれるもので、概要は以下*1

 

 もともと、セワシのび太ジャイ子の間に産まれた子供子孫である。 つまり、セワシがおせっかいにも20世紀に来て未来を変えてしまったために、セワシの存在自体に矛盾が生じる。また、未来を変えることで現代にドラえもんが存在していること自体に矛盾が生じ、ドラえもん世界自体が存在しなくなる。

 

要は「セワシ君は元々ジャイ子のび太の子孫として」存在しているのに、過去を変えたセワシ君が、どうしてのび太ジャイ子じゃなくてしずかちゃんと結婚した場合にも存在しているのか?という疑問でありパラドクス。

 

このパラドクス回避の解釈として述べられている説の一つには

一番わかりやすい可能性は、のび太と静香が結婚した場合の息子である野比ノビスケジャイ子の娘と結婚する

といったものもあり、

 

この理論を用いると、生物学的、遺伝学的見地からの推測が可能となる。すなわち、「元々のジャイ子のび太の子孫としてのセワシ」には、「ジャイ子の遺伝子が1/16入っている」ことになる。となれば、どんな形でも良いから、ジャイ子の遺伝子が1/16混ざればセワシになる可能性があるということである。この見地に基づけば、セワシの世代までの間に、のび太の子孫と、ジャイ子の子孫が1度交配すれば、セワシが生まれてくることになる。

 

これを読んで「なるほど」と思ったながらも、より簡潔にセワシ君が生まれる方法がふと思いついたので綴っているのがこの記事。

 

その方法とは実に簡単。

でも、ちょっと言い難いのは当然のことであって、単に答えを引っ張ってるわけでもなければ、「えっ…」と思われるだろうから。

 

そんなわけで少し心の準備を持って、このパラドクスを回避する方法を読んでほしい。

 

その答えとは…

 

 

ジャイ子のび太の子どもを生めばいい」

ということ。

 

「えっ?」と思われたなら、その「えっ?」にどの程度の意味が込められているかは分からないけれど、説明を加えるならば、あとは一言で十分。

 

 

 

「浮気」

 

 

 

 

*1:引用はアンサイクロぺディアから

コロナ関連のことでちょっと思うこと

 

「コロナ感染拡大を防ぐために三密を避けてください」という政府からの指示のもと、

「じゃあ三密でなければいいのか」と捉えて不必要な外出をしたりレジャーに出たりとする人が居るけれど、これが「良くない!」や「間違っている!」とする理由はシンプルで、一言でいって手段と目的を履き違えているから

 

「三密を避ける」というのは感染拡大を防ぐための「手段」であって目的ではない。

政府の掲げる「目的」とはあくまで「感染拡大を防ぐ」ということに他ならない。

にも関わらず、巷ではこうした誤解をしている人が一定数は居るように思われる。

よって「三密にならないことが重要!!」と考え、人との間にスペースを空けることや換気を十分に機能させることで「これで三密じゃないから良し!」とする考えは大きな誤りであり手段と目的を取り違えた典型的な例。

目的は感染拡大を防ぐことであって、三密を成立させなければそれで良いというわけではないのだから。 

 

でもまあ徹底的な外出規制や営業の自粛は経済に与えるダメージも大きいので、「すべて閉鎖!」とはひとえに言い切れないのが難儀なところ。

たぶん、こうしたコロナ対策における難度の高さを示す理由は「コロナから人を守るのと街を守ることは別」という排中律的な性質にあって、人間を治すのが医者であるのなら経済を治すのは誰なのか?といったことにその根幹があるようにも思えてくる。

 

別に政府批判をする気は毛頭ない。今回の件においてはトレードオフとして扱うべき案件が多すぎるように思えるし、どういった政策をとれば正解だったのか?が今の現状においては分かるはずもなく、その結果がようやく分かるのは幾分もの時間を隔てたあとというのは間違いない。しかしだからこそ責任をすべて政府に向けるのではなく、誰もが己の行動に責任を背負う覚悟が必要であり、自分の行動が今後に与える影響を十分に加味した上で生活するべきだと思う。

 

 

最後に一つ小話を。

ある高名な物理学者が以前にこう言った。

「短期的な予想不可能性は、長期的な厳密さと完璧に両立するのである」

この言葉はざっくばらんに言って量子力学における存在確立に対して述べたものである。この言説がマクロの世界においても正しいものになるとするならば、その可能性は一人ひとりの人間によって左右されるだろう。

そして、逆を言えばその可能性を一人ひとりの人間が抱いているということである。

コロナによって今後の世界の有様がどうなるのかは、一人ひとりの人間が大きく関わっているというのをこの話から知ってもらえたら幸いである。

 

 

『未来人の服装』

ほろ酔い状態にふとした思い付きあり。

勢いそのままにショート・ショート化してみた。

 

 

『未来人の服装』

コロナの収束は政府の想定どおりには進まず、自粛や規制を強制しようとも人類の完全なる勝利には未だ時間が必要なように思われた。

だがそうなるとより深刻な影響を受けるのは経済情勢であり、このままでは財政破綻は免れない。

こうしたトレードオフの状況下において、コペルニクス的転回的とさえ言えるひとつのアイデアが提示された。

 

「他人との完全なる断絶が不可能ならば、逆に接触しても良い環境を作ればいいのではないか?」

 

このアイデアを元に推し進められたのは他人との接触を考慮した、人々の変革である。

そしてこのアイデアがこれまでのものと大きく異なるのは、人々の意識を変革させようとしたのではなくまさに物理的な点にあったといえる。

 

科学者たちはコロナ対策として新たな服を作った。

服の材質には殺菌作用を持たせ、無論ウイルスに対抗するためには素材自体に付着しないことも必須であり特殊な人工繊維によって作られたその服にはたとえ飛沫して迫ろうともウイルスを引き離す作用が備えられた。

服は隙間なく全身に着込まれ、顔の部分だけが開けられるとそこには視界をクリアに保つため透明なフィルムが顔全体を覆うように宛がわれた。

 

そうして人々はこの服を着ることにより、ようやく感染の恐れをなくして自由に外へ出ることが可能となった。

経済活動は少しずつ回復し、環境産業も従来の賑わいを見せるほどに復興を見せた。

人類はコロナの収束を焦らず、じっくりとその脅威を減らしていく選択を選び、彼らはコロナとの一時的な共存を選んだのだった。

 

 

そしてこれが、「銀色の全身タイツを着た未来人」が蔓延った本当の理由である。

A=B?

 

【画像あり】彡(-)(-)「ネッコおらんようなった…探しにいかな…」 彡(^)(^)「おった!見つけたわ!帰るか」 : 暇人\(^o^)/速報 - ライブドアブログ

昨今見かけたこの記事ほんと好きw

 

あと「一匹の猫が実は複数の人に飼われている……」っていう設定の小説は確かに存在していて、

 

 この本がまさにそれ。

あらすじとしては一人ぼっちになってしまった若輩者の小娘猫に、人生経験豊かな先輩猫が生きていくための知恵を、自らの行動を手本に見せながら説いていく話。

”子ども文学”とあるが大人が読んでも普通に面白いので猫好きにはお勧めの一冊なのはもちろんのこと、意外とメッセージ性もある内容なので老若男女にお勧めできる良書。

それこそ多くの大人に読んでほしいな、とそう思えるほどには。

 

 

ふとした日常の中で気づいた小さくて大きなこと

備忘録メモ的にも残そうと思う。

 

食パン二枚を食べる際にふと重さを量ってみた。

 

キッチンスケールにパンの一枚の乗せると47g。

もう一枚を載せると表示は91g。

ということは、当然あとに乗せたほうの食パンの重さは44gである。

 

当たり前すぎるのだが、そのときなんとなく一枚目に乗せた食パンをどかしてみた。

すると二枚目の食パンの重さとして表示されたのは43g!

 

なんてことはない、事の顛末は実に些細でありおそらくは小数点以下同士の加算によって結果的に91gになったのであり、うちのデジタルスケールは小数点以下は表示されないため気づかなかっただけに過ぎない。

 

しかしこの気づきに含まれる一種の慧眼的示唆にも同時に気づき、思わずハッとした。

それが備忘録として書き残しておこうと思った理由であり、有意なる発見に繋がるための知見として役立つ事態であると感じたからである。

 

なるほど、短絡的に見れば「先入観を疑え!」とも取れるだろうが、ここで思うのはそれだけのとどまらず、こうした盲目的な事態に対する気づきこそ多種多様の事項に対してアナロジー化できるものだなと思えたからであり、少し哲学的に言えば「数学における完全性が現実の世界において完全に反映されていない理由」こそ、ここにあるのだなということにある。

砕いて分かりやすく言えば「人間がなぜ”絶対的”な理論的思考を取れないのか?それは人が1+1を2と理解しているばかりではなく、それを2以外の数字を答えとしての考えられることにある」といった具合であり、人の論理的思考に混じることで論理的思考を遮らんとするその変数的な存在そのものが「実は数字ではない」という風に、異なる次元(事象としたほうがいいかもしれないが)の可能性を臭わせることを『気づかせる』または『勘ぐらせる』というこのメタ的な気づきに対する気づきことが重要なのでは?と思ったわけだ。

 

 

概要をもっと砕いて分かり易く示せば「一人の人間と一人の人間を足したところで、その答えは”2”以外の可能性を持つ」といったこと。

 

総括すれば「隠れた数字によって大きく異なった結果を導き出す可能性がある!」と言うことよりかは寧ろ「隠れた数字それ自体を別の事象として捉え直すことの重要性」を訴えているように感じられたということだ。

 

 

 乱文ながら備忘録としてのメモなので一応ここまでに。

2020年の冬アニメとして最高だった『ID: INVADED イド:インヴェイデッド』と、ふしぎな魅力を醸した『ネコぱら』の話

2020年冬アニメもこの時期となるとほぼ最終回を迎えた。

そのうちではそれなりの数を観ていたのだけど、ずば抜けて面白く、そして完成度が高かった作品が『ID: INVADED イド:インヴェイデッド』。

これはもうおそらく今年一の作品と言って過言ではなく、これを超える作品は出てこないであろうと断言して言えるほどには素晴らしい内容と出来栄えだった。

プロット、演出、BGM、効果音までも秀でており、まさに文句のつけようのない作品。

さらにSF要素も満載で個人的にはかなりツボな内容で、老若男女すべての人にお勧めできる作品ではないものの(「難しくてよく分からん」や「ややこしい」といった声などもいくらか聞いたため)、映画のインセプションやパプリカの世界観が好きな人、ミステリーもしくはSF好きであって考察好きと来ればまさにうってつけ!の作品ではあり、とにかく面白くてお勧めしたい。普段、アニメのDVDなどには興味がないけれどこれに関しては「欲しい…」なんてつい思ってしまえるほどの作品だった。

(あと観る際には出来るだけ作品情報を調べずに視聴することをお勧めする。ネタバレなしで見ることでより楽しめるのはもちろんのこと、初見でも分かりやすく丁寧に作られているのも本作品の特徴であり良さの一つ。しかし一回の視聴で全て理解するのは難しく、そこで解説を眺めてハッとすると言う楽しみ方が乙である)。

 

 

対して『ネコぱら』と言うアニメについてちょっと語る。

こちらアニメ作品はイドとは打って変わってその内容、あらすじは至極単純であり擬人化したように見える猫が人の姿として日常生活を謳歌、お店を手伝ったりなどしてその様子を描写!したに過ぎない内容であって、その内容とはあってないようなもの。

所謂、一種の「日常系アニメ」と言われる作品らしく、あまりなじみのないものだから「これほど中身のないアニメとは!」という一種の驚きと「意図がないのが意図?」なんて怪訝な思いも少なからず含有しながらも気付けばあれよあれよと言う間に全話を観てしまっていた。

そこで気付いたのはまさに「中身のないアニメの重要性」なんてことであり、それは実に単純なことで情緒的かつ夢想的なこと。

仕事を終えて、疲れて帰ってきて、さあアニメでも少し見ようかな。

そんな状況において未だ疲労に頭がぼぉーっとしている時分にネコぱらを観る。

するとかわいらしいキャラクターたちが無邪気に悪意もなくじゃれあい、楽しそうに過ごしている。そこでは喧嘩があろうが誰もが相手を思いやり、そして大切に思い、敬い相手のことを心から大事にしている悪意ゼロの空間。

そんな醜さの一切ない澄み切った世界などが現実には当然存在しない(けれどまあ、そうした汚さなや利己的、混沌さを含む世界を全否定するわけではないけれど)。

そんな折に垣間見せる「ネコぱら」の世界観とはつまり、桃源郷的でありまるで夢の中の世界であると言えるだろう。

 

そこでこのアニメをつい見てしまうという真理性に気付いてハッとした。

つまり疲れている時分においては、自分は起きながらにして夢を見たいのだ!

 

とすればなるほど、こうした「日常系」と呼ばれるアニメ作品が蔓延る理由も合点がつき、誰しもが完全平和な理想郷としての世界を夢見るのではなく、まさに夢を見るかのごとくしてその作品を見ているのだ。

起きながらにして夢を見る。

そんな矛盾的な状態を醸し、作り出すこの「日常系アニメ」というジャンルの特筆さと作品としての確固たるスタンスを、このアニメは教えてくれた気がする。

(と言っても別段「特別にお勧め!」というわけではないのであしからず。ネコぱらを観るなら先にイドを観ろ!ってぐらいにはイドを勧めておく)。*1

 

 

 

*1:おそらく「この二つの作品はわたしも観ていたよ」といった読者ならば、今回の記事の裏タイトルが『夢』であることには気付いていたと思う。