「俺、この残業が終わったらケーキ食うんだ…」
脂肪フラグ
「恋に落ちる」という表現の妙
「落ちる」のだから体は落下するのにも関わらず、「恋」によって気持ちは高揚し心は浮上する。
体は下に心は上に、といったようなこの心体のアンバランスさこそが恋に患う状態を的確に表現しているように思え、恋によって 我を見失うのは身体と心の解離によるものだと、「恋に落ちる」という言葉がその言葉の意味にこれらを含有しているのであれば、これは深い言葉だなと思う。
落ちることができる程度には。
二掛ける二は百になる
最近聞いてちょっと感心した話。
それが表題のことで、正確には「結婚生活において、二掛ける二は百になる」という話。どんな話かと言えば、それは夫婦喧嘩のときに見られるひとつの方程式について。
夫婦喧嘩においては お互いに自分のことが98パーセント正しいと思っている。
でもそこで自分でも認める2パーセントの欠点を自ら提示し、進んで互いに謝り合えば喧嘩は100パーセント収まるそうだ。
つまりそこでは二掛ける二が百になるというわけ。
頓知めいた話だけど、妙に納得してしまった。
そして大事なことかなとも思う。
”伏線”のお話
昔と比べれば、アニメやドラマを観ていて先の展開を予想することが減った。
それは雑多な多忙さにも原因があると言えばそうかもしれないし、単に先を予想するのに飽きたからとも言えるかもしれない。
しかし、先の展開を予想するのをやめた最大の理由はおそらく……
そもそも”先の展開を予想する”とはどういうことか?を少し考えてみた。
たとえばエヴァなんかは先の読めない作品として有名で、新劇場版ではQの急展開にびっくらこいた。そこで思うのは「じゃあ作品において先の展開を予想するのに必要なものとは?」ってことで、次に思い浮かんだのが「伏線」の存在。
人間は合理性を求めるが故に(整合性も含めて)、物語では展開として以前の情報を加味していなければ破綻して感じる。*1
そこで視聴者は未知なる今後の展開を考える上では当然、それまでの展開や演出を考慮して考えるわけで、これを論理学的な表現で示せば
前提に「先の展開にはそれまでの内容が関与する」
というものがある。
つまり、”伏線”として表現される概念の枠を拡大して考えれば作中の登場人物ばかりではなくそれまでに演出されたすべてのものが「伏線」に成り得るわけだ。
よって上記の前提を元に先の展開を予想するわけなのだけど、ここで重要なのはその前提が必ずしも正しいわけではないと言うこと。
なぜなら作品によっては唐突な展開が可能だからで、「急に登場する新キャラ」*2なんかはその好例と言えるだろう。
そして、その新キャラが軸になって新たな急展開を示す場合、視聴者がその展開を予想できないのは当然で、なぜって前提に含まれていなかった要素によりもたらされたものだから。
論理学の基本には「前提が誤りならば結論は何とでも言える」というものがあるけど、創作物の場合、そもそも前提自体が不確定であるので結論どころか前提自体も覆せる可能性を常に抱いているために、ある種の作品では”先の展開を予測する”ことは無為に成り易く、そのため「先の展開をいくら予想したって、作者による鶴の一声でどうにでもなってしまうんじゃないの?」とつい思ってしまうわけだ。
もちろん、すべての作品がこうした呈を成しているわけじゃないし、むしろおおよその作品は先ほど述べた前提をちゃんと前提にしている場合が多いと思う(シリアスな作品ほど唐突な場面が組み込まれているとそこでポカーンとしてしまい、冷めてしまうだろうから)。それでも「先の読めない展開が売りのひとつ!」みたいな作品だと、上記の前提を覆しがち。
だから「先の展開を予想することをあんまりしなくなった」とも言えるし、というか最近はむしろ「あえて先を予想しないことで、繰り広げられる展開をじっくり楽しむ」という心持のほうが大きいかもしれないけど。
この雑記駄文の締めの言葉を考える際、”伏線”を関連させようと思うのなら、示した前提とその後に続く文脈の中身を加味して、最初のほうに述べた
”しかし、先の展開を予測するのをやめた最大の理由はおそらく……”
という文の続きとしては、こう示せばいいのだと感じる次第である。
メロンパンが美味しいから。
フジパン『メロンパン ハッピーターン味』
珍しいメロンパンを発見。
気になったので買ってみた。
袋を開けるとまず甘いにおいがあふれ出てくる。
食べてみると、ビス生地が意外にしっかりチーズ風味。
でもスナック菓子のチーズ味みたいなジャンクなチーズ味。
フィリングにハッピーターン味のクリーム入りで、確かに再現度ある味。
そして甘い。
甘いのが苦手な人にはきついのでは?と思えるほどの濃さで、喉が渇いて感じるほどの甘さ。
しかしそのハッピーターンクリームの甘さが塩気のあるチーズ風味のビス生地と相性良くて、まさに甘じょっぱさの化身!
なかなか美味しかったけれど、個人的には味が濃すぎるように感じたりも。
ただその割には1個のカロリーは334と低めだし、菓子パンでここまで甘じょっぱさを感じさせるパンも稀有であると思うので、気になったら一度食べてみる価値はあるように感じられた。
菓子パンって基本、甘いばかりでしょっぱさは控えめ。あとで食塩相当量を見て「これほどの塩分が!?」と二重の意味で驚くこともしばしば。*1
なので嵌る人は本当に嵌るであろう菓子パンで、もう一度ぐらい食べることもあるかも。
*1:といっても菓子パン系は惣菜パンと比べれば、基本的には塩分控えめ。このパンも塩分は0.48でそれほど多くなく、しかしこの塩分量でこの甘じょっぱさを感じさせるのは凄いことなのかもしれない!!
『最後にして最初の人類』
いつか読みたいなぁとずっと思っていた小説で、この度ようやく手に取る事ができて目を通し、そしてついに読み終えられた一冊。
本作品、一言で言ってしまえばあまりに壮大、壮大なのである。
ひとりの人間にスポットを当てた小説というのは数多ある。
それこそ数え切れないほどに。
ひとつの家族にスポットを当てた作品も数多く存在する。
そして、ひとつの国家にスポットを当てた作品も、まあ”膨大に”とは言わないまでも多数存在するだろう。
しかし本書、この『最後にして最初の人類』がスポットを当てるのは「人類」そのものである。
さらになんと、本書では人類史が20億年分綴られている。
20億年分!!というなんとも途方もない年数が一冊にまとめられており、ここまでの年数を記録した小説を読むのはもちろん初めてで、ここまでマクロな観点からの小説を読むのも初めてだと思う。
内容としてはまさにタイトルどおり。
人類の最初から最後までを描き切っており、登場する人類は繁栄と衰退を繰り返し、シーソーゲームのような状態を幾度となく経験しながらも着実に歩みを続ける。
根幹に描かれているのは人間の持つ意志の強さと、美に対する感受性、そして慈しみを尊く感じる心の在り様などで、人間の進化がどのように行われ、どのようにヒトの形態や形式が変化していったのか?
その様を眺めるように読むことができ、 多種多様に存在していた人間文化はそれぞれ一つ一つが独立した作品になっていてもおかしくない世界観を見せるのだから作中の奥行きは半端なく、本作品がその後の作品に対し如何に多くの影響や示唆を与えたのかが容易に分かるほどのダイナミックさを呈している。
荘厳にして壮大、これはもやは小説であって小説ではない。
そんな風情さえも感じさせる一冊で、本書のあとがきによって著者オラフ・ステープルドンは哲学者でもあったと知り、思わず納得。
故に本書は「とっても面白いよ!!」と気軽に賞賛できる作品ではなく、むしろ哲学書めいた思想を綴った書であることを根底に置きじっくりと嗜むように読んでみてほしい本だと紹介した方が適切だと感じる。
その上でSFらしさも濃厚で、火星人の襲来やら水中に住む金星人なども登場し、これだけ聞けばパルプ誌に載ってそうなSF小説を想起しようとも、その実この本に登場する彼らは一味違う。
それはおそらく彼らの姿をきめ細く描写するのではなく、彼らとしての種の特性、それに対して細やかな描写をしているからであって、ここでも目をつけるのは固体別の存在性についてではなく全体性について。だからこそより彼らの意思や思考、思慮や意識の在り方を知ることができ、そこに一種の生物学的かつ社会学的なリアリティさを感じることができるのだと思う。
本書は特殊な小説で、しかし個人的にはとても印象深い作品であるのは間違いない。
だから仮に
もし明日、世界が終わるとしたら
そんな状況に陥っても尚、僕はきっとこの小説を読んでいたと思う。
それで後悔しない。
この小説は、そんな一冊だ。
映画版『聲の形』について
金曜ロードショーでやっていたので思わず見てしまった。
気付けば見入っていた。
一言で言えば面白かった。二言目に言うなら作画が綺麗。
あと予想通りの重さでもあって、なんだかもう見ていてドキドキしたのはもちろんのこと、幾十にも重ねられた切なさに違う意味でもドキドキしっぱなし。
なんだろうねこれ。
下手な例えで言うなら、20キロ位の重りを背負った状態で心がぴょんぴょんしたような気分。
正直、手話に対する啓蒙はまったくと言っていいほどないので手話で何を言っていたのかは言葉で説明してもらわなかったらぜんぜん分からなかった。
けれど微細な表情の変化や間の取り方、景色の見え方等の様々な演出によって彼ら彼女の言わんとすることは表現されていて、その辺のクオリティもまた凄いなと。
そう思うのと同時に、そこで受け取るメッセージ性が実際には発話的な言語に還元して意味を受け取っていたと思うと、この映画はより深みを感じられてくる。
そしてヒロインによる「過去に酷い苛めをしてきた相手を好きになる」という心理(この映画版での)に対する見方は、その心にはある種の厭世的な趣もあったんじゃないのか?って思ってる。
少し強引にも簡易的にヒロインが主人公を好きになった心境を考察すると「友達が少ない中、積極的に手話を学んできてくれて、さらに優しく接してくれるようになったから」とも考えられると思う。
でも本当はその心の中に破滅的な願望があって(そのためにあの時の行動はあったのだと思うし)、自分を苛めた相手を好きになるという一般的に考えればイレギュラー的な行為は、一般的ではないことをあえて行う事によって自分の中にも構築され培われてきた『一般常識』『共通概念』的なものを壊そうとする一つの破滅的願望の成就、それの一環の可能性もあるんじゃないのかな?ってつい観ていて思ってしまった。
まあ何はともあれ大変面白かった。
観ていて苦しいくらいにしんどかくも感じたのは”苛め”、”差別”、”障害”と、重くなる要素てんこもりであったからだとは思うけど、それらに対してちゃんと向き合って、それがどんなことなのか?をこうもしっかりと描いた上でそれをさらに娯楽作品!に仕上げるなんてことは筆舌に尽くしがたいほど困難なことだ。
けれどまあ、だからこそ言葉以外のもので表現したと言うのなら納得できる。
そしてこの映画を観ていてとても心が動かされたのは多分、この映画の聲は心に形を作るからだと思う。