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book and bread mania

-日々読んだ本の書評 + メモ集 + パンについて-

人間であるということは、潜在的にばかということだ。

本(社会) 本(健康)

 

笑いの治癒力

笑いの治癒力

 

 このような女性を、あなたは世話したいと思うだろうか?

その女性は言葉を話すことも、理解することもできない。

ときどき何時間もわけのわからないことをブツブツとしゃべりつづける。人、場所、時間の見当識はないが、自分の名前には反応をしめす。

私がその女性の視察をはじめてから六ヶ月になるが、いまだに自分の身なりに無関心で、みずから身の回りのことをしようという努力は見られない。

食事、入浴、着がえ、すべて人の手に頼っている。歯がなく、食物は裏ごしして与えなければならない。

絶えず流れ出るよだれのために衣服はつねにべたべたになっている。

歩くことができず、睡眠は不規則。真夜中に目覚め、泣き叫んで他人を起こすこともしばしばである。たいていは機嫌よく愛想がいいが、日に何度かはさした理由もなくいらだち、泣き叫ぶので、誰かがなだめに行かなければならない。 

 

これを読み上げたあと学生たちに、この人の世話をしてみたいかとたずねると、おおかたの学生がとてもそんな気にはなれないと答えた。

 

 

しかしこれが生後6ヶ月の赤ちゃんと告げると、誰もが意見を一変させた。 

 

ユーモアとは見方を変化させたものであり、同じことも別の角度から眺めることで、気付けることは多くある。それは人生も同じ。

だから困った問題が起きたとしても、そこから何かユーモアを見つけられれば、問題はそこまで深刻には思えなくなる。

何故ユーモアにそれでほどの魅力が?

曰く、

 視野を小さく限っていた額縁をユーモアがぐんと広げてくれて、問題が大きな構図の中でながめられるようになるからだ。 

 とのこと。

 

本書はユーモアが持つ力の素晴らしさを説く本であり、ユーモアの可能性も説く内容。

ユーモアとは、恐怖や怒り、不安や悲しみまでも中和させる役割を持ち、その即効性はどんな薬よりも勝る。

恐怖やストレス、さらに死にもすら対抗できる、唯一絶対の武器。

本書のユーモアに対する概念には、ハッとさせられる事が多くあり、ユーモアを通して人生の処世術を教えてくれる。例えば、これ。

 一度も顔を上げずに草を食みつづけていれば、羊だって迷子になる。私たちもそれと同じで、一歩身を引いて全体をながめることを忘れていると、自分や自分の問題しか目に入らず、迷子になってしまうだろう。

私たちの現実に一段高い視点 -ある作家の言葉を借りれば「神の目」-を与えてくれるもの、それがユーモア感覚なのだ。 

 

また、本文には数多くのユーモアたっぷりな話が記述してあり、秀逸で笑える話が多く、大いに楽しませてくれる!

そして著者自身が、深い悲しみに包まれた時、救い出してくれたのがユーモアであると、体験談として語る。

著者は妻を病気で亡くし、悲しみに暮れていた。しかし思い返すと、悲しむ彼を支えていたのは、病床にいる妻のユーモアだった。

励ますつもりで見舞いをしていたのだけれど、励まされいたのはいつも著者のほう。

彼女は気丈なユーモアでいつも著者を楽しませ、見舞い訪問者の悲しみを紛らわせる。

彼女が亡くなり、夫である著者は喪心してしまう。

その状態を救ったのも、やはりユーモア。著者は妻を思い出し、悲劇的状況を少しでも喜劇的な状況に見せ笑わせてくれた妻のことを思い出し、彼女の行なったユーモアを振り返り思わず笑ってしまう。するとその笑いのなかには、抱いていたはずの悲しみがない。あるのは頬が緩み笑う自分のみ。

 

メメント・モリ

死の裏にあるのはユーモアなのかもしれない。

ユーモアは心の防衛線。

無ければ幾許もの人々が発狂し、狂乱していただろう。

誰もが人生、万事上手くはいかない。

けれど、その状況を”悲劇”と捉えるか、”喜劇”と捉えるかの、選択権は誰もが持っている!

 

対人コミュニケーションを少しでも向上させようとして、これまでに自己啓発系の本や、心理学の本を何冊も読んできた。そこで学んだ事。

それは対人コミュニケーションを改善したくば、コミュニケーションについて本を読むより、心理学の本を読むより、そして自己啓発の本を読むより、

笑いやユーモアについて学ぶ方が、よっぽど実践的であり有効という事!

うれししいときには泣きたくなる。だけど悲しいときには笑いたくならない。だからあたしはうれしいほうがいいと思う。一つ分の値段で二つのことができるんだから。

…エディス・アンことリリー。トムソン

 

予期せぬ事態は誰にでも訪れるもの。

突如として訪れた悲劇はあなたをひどく落ち込ませる。

誰しもが漫画に登場するような屈強な人間ならば、体を鍛え、精神を鍛え、無事にその悲劇を乗り越えるだろう。

けれど現実の世界においては、それほど屈強な人はそうそう居ない。

しかし折りしも、現実世界では漫画と違って、そう無理をして限界突破をしなくたっていい。そのまま落ちこぼれて下の下までいって這いつくばれ。

…そうならずに済むのは、前にそびえ立つ大きな障害を無理に乗り越えなくとも、別の抜け道をスッと見つける技術を、誰しもが持っているからだ。

ハードル高すぎるなら、くぐって通ればいい。

人間には”ユーモア”という古来からの、悲劇という名の障害を別の形に変形させしまう魔法を持っているのだから! 

 

例えばこんな話も載せてある。

ノーマン・カインズという人が居り、彼は病人の側にもユーモアを生み出す義務があると考えていた。病院では誰もが大変な思いをしている。そんなとき周囲の人々を笑わせて元気を出せることができれば、自分も元気になれることが多いのだから。そこで入院中のこんな話を披露。

 朝食をとっているときに看護婦が検尿用の試験管を持ってきた。

私は彼女の目を盗んでテーブルのりんごジュースを試験管に注ぎ入れ、なにくわぬ顔で彼女に手渡した。

彼女はそれを見て、『あら、今日は少し濁っていますね』と言う。

そこで私は『ほんとだ。よし、もう一回通してみよう』と言いながら、看護婦の手から試験管を奪い、ぐいと一気に飲み干した。

この話を読むと、昔ラジオかなにかで聞いた話を思い出す。

 キッコーマンの醤油ボトルに麦茶を入れて、「喉が渇きますねぇ」と言って相手の前でグビグビと飲み干す。

 

また、夫の小言を黙られるユーモアもウィットに富み、感心するとともに笑った。

 省略

たとえば私が仕事から疲れて帰り、がんばって手のこんだ夕食をつくる。

そしてやっとキッチンがきれいに片付いたというときに、夫が愚かにも「そろそろ明日の弁当の支度にかかったほうがいいよ」などと言う。

そこでわっと泣き出して、「私がどれほど長く台所に立っていたかわからないの!」と抗議することもできるでしょうが、私はたいてい別の手を使います。

たとえば「エイコーラ、エイコーラ」と「ボルガの舟歌」を歌いながら、背中をまるめて舟を漕ぐかっこうで歩きまわる。

そして「旦那さん、あっしは奴隷でござんしょうか?」

この手に出ればほぼまちがいなく、相手はうれしい反応をしめします。①笑う、②素直に謝る、③手伝ってくれる、うまくいけばこの三つとも。

昨今の日本では、「私がどれほど長く台所に立っていたかわからないの!」と怒鳴り嘆いてしまう方が多いのでは?このような愉快な返しが出来れば、怒鳴って意見を言い合うような喧嘩も減ると思う。

 

いくら技術が発達し、生活が豊かになったと言えども、現代人は精神的ゆとりが乏しい。しかしユーモアの欠如は国民性のものであるのでは?

恥を最大限に嫌うという、日本文化に根付く根源的な事柄が原因の一因だと思う。

恥や失敗を恐れるあまり、馬鹿にされる様な事は協力避け、他人と同調し、同じことに安心感を抱く。英語の授業などいい例で、ネイティブのまねした英語を口走れば、たちまち辺りで笑い声が漏れる。

馬鹿にされたと思って頬を赤らめ、もう決してこのような過ちは犯さない。

よって今後は、カタコト機械的な英語を事務的に口から出す。

「ディス、イズ、ペン‥」。

しかし英語ネイティブの外国人から見たら、こちらのほうがよっぽど滑稽だろう。

見方変えれば”面白い事”は変わり、つまりそれは恥も失敗も同じこと。

恥も失敗も、見方を変える勇気を持てば、そのときから恥も失敗も消える。

ユーモアはその見方を変えるための道具であり、この道具の万能性は異常。

なにせ、恐怖も悲しみも変換できるのだから!

つまり本書が述べている事は至極シンプル。

もっとユーモアを意識し、ユーモアを考え、ユーモアを愛そう!そうすれば自分も他人もより楽しめる。

要は、それだけのことなのだ。

 

人生は万事上手くはいかないもの。

そんな中、折れそうになる心を支えてくれるのがユーモアであり、ユーモアがあれば「なんとかなるさ」と思えてくる。

例え株で大損しても「私は賢いよ。悩みの種をこうしてなくして見せたのだからね」と言えば心は軽くなる。

 人生とは本質的にうまくいかないもの

だからこそ限りないユーモアの温床である。

…ゲイアン・ウィルソン

 

 本書にはストレス解消としてのユーモアな方法も載せてあり、どれも実践するためのハードルが低い中、思わず笑ってしまったストレス解消法がこれ。

 ・アタマに来た人間の名前を一週間トイレットペーパーに書きつらねていき、週末に使用する。

 

 そしてユーモアは時に真理を突く。

中に、こんな逸話がある。

 長年イギリス仏教会の会員だというまじめそうな婦人が高名な瞑想の師アカーン・チャーのもとをおとずれ、瞑想とダルマとよばれる仏の教えについてさまざまな難しい質問をした。

そこで師が、瞑想そのものは十分かと婦人にたずねたところ、修行などしていないと返事。ダルマを勉強するのに忙しすぎて、とても瞑想どころではないのだという。

アカーン・チャーは婦人の顔をまじまじと見てこう言った。

「ご婦人、それではまるで庭で飼っているニワトリの卵を拾わず、糞を拾ってまわっているようなものですな」

本当の意味を見失い、頭でっかちになる。特に現代、ネット環境が整い、情報過多な時代では尚更なこと。

 

ユーモアは意識次第でいくらでも抱え込むことが出来るもの。難しいことではなく、負債を抱えるよりかはずっと簡単で気も軽い。

そんなわけで、心に残った言葉を最後に一つ。

「人間であるということは、潜在的にばかということだ。私たちに選べるのは、ばかを実践するかしないかだけである」

 

 

人はもっとユーモアであるべき。

そして、ユーモアの力をより信じて良いと思う。

少なくても、ユーモアの方からは逃げないはずだ。

あなたがばかになる覚悟と、はなメガネを持っている限りは。 

  

 

面白アクションはなメガネ

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