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純文学の欠点と星新一の凄さについて。

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爆笑問題の太田さんが星新一氏のエピソードを語る上で、純文学に対する退屈さとその原因について普及しており、星新一氏の話にハッとし同時に納得。

長年の疑問が解けてはスッと腑に落ち、自分が数学者ならば「ユリイカ!」と叫んでたのでは?と思えたほど。

 

  

純文学の特徴といえば自らの信念や理念を文字に託しては心情やら辺りの光景を彩り豊かに描写し、その表現さこそ可憐で詩的であり確かに美しい。

然しこと比喩や暗喩調の表現ばかりが散文的に散らかるとそれはもうただ惰性で長々と辺りの描写に勤めては作者の自己満足に過ぎず、漫画ならば1コマで息を飲ませてハッとするようなものを、数ページにわたり表現しては、湾曲した表現に溢れて何も残らない。

一概にすべての純文学がすべてこう!とは言わないが、それでも長々と表現を描いた暁に、その事象を単語一つで現せるとなると、あれ?と思える表現も少なくない。そして史実や意思を尊重して描くが故に、そこに読者の主観が入り込むのを嫌う傾向がある。

 

 

それに対し、星新一なるSF作家の巨匠は、登場人物をS氏やY氏と表しては人物その人の模写はごく最低限に留める。

そう、これこそが重要であり、人物の模写を最低限に留める事で読者へその人物が”こういった人物”と想像させる余白を残し、読者に対し発想力の自由を遺憾なく許しているのだ!

 

これが純文学の場合、例えば罪と罰における主人公”ラスコーリニコフ”は陰鬱と悩ましい自己内部の告白によって感情移入をしやすいが、同時にその個性は強すぎるが故に、”このじんぶつはこうだ!と決め切った視点で想起させることを強制、頭へ描かなければならない。

そこに読者の思い描く人物像のイメージを入れ込む余白はなく、”ラスコーリニコフってこういう人物だよね!”と自己解釈した人物像をあげれば頭の堅い解説厨から「違うよ大馬鹿者!彼はこのような理念をもってああした行動を…」と能書き垂れるのが請け合いで、故に凝り固まった設定は読者の肩も十分に凝らしては「ああなんと自由のない小説だろうか…」と嘆かせる。

 

此処に純文学の取っ付き難さを呈し、なるほど確かに重厚な世界観にそうした見事な心理描写は人間真理を思わせ身震いするほど物語へ没入する鍵を受授し読み終え共感すれば「ああなんとすばらしい物語!」と感嘆するだろう。

こういった意見も一理あるが、ならばと、発想の自由を提供し想像による歓喜を齎してくれるSFというものも、純文学と同様、はたまたそれ以上に価値のあるジャンルであると言って、拒否される事はないのだと思う。

 

 

 

文学って言うのは想像力を欠如させるジャンルなのか!

だから俺、文学嫌いになったのか。

 

 爆笑問題の太田さんが星新一氏の言葉を端的に言った上記のことは、

確かに純文学の塞ぎがちな世界観を呈し、純文学の息苦しさとは、読者の意識介入の拒否と共に発想させる自由を窄める事にあるのだと思う。

緻密濃厚に描き、暗喩や比喩も含めて描けば、描く人間世界はそれだけ深淵なものとなって人物の理解は捗り感情移入しやすい。

けれど、その行為こそが、読者に対する自由を奪う閉鎖的な表現であり、自己満足な空白を埋める文字郡を生み出す因子になるのだとすれば、何たる皮肉かな。

 

 

とまあ書き連ねたところで、これも散文的な文章じゃん、と野卑されればそれだけなのだけれど。