蝶々はなぜ菜の葉に止まるのか
植物と人間とは、深く係わりあって暮らす生き物である。
そうした事を教えてくれる一冊。
旬な話で言えば、正月には門松を飾る。
此処で面白いのは、「なぜ門松を飾る?」ということのみでなく、「門松と言うのに、飾っているのに竹が多いのはなぜ?」という方にも疑問を呈す事であり、その理由がとても面白い。
それは
タケを使った門松が飾られるようになったのは戦国時代以降である。
その由来については、嘘か実か、こんな逸話が伝えられている。
新年の挨拶に武田方から「松枯れて竹たぐひなきあしたかな」という句が徳川方へ届けられたという。
つまり、松平家(徳川家康の旧姓)のマツが枯れ、武田家のタケが栄えるというのである。これを徳川の家臣・酒井忠次が機転をきかせて濁点のつけかたを変え、「松枯れで(松は枯れず)竹だくびなき(武田首なし)あしたかな」と読み上げた。
そして、武田家への戦勝祈願をこめて、頭を切り落としたタケをマツで包囲して、門松として飾ったという。
「知っているのか、雷電!」
とでもして、語りだしそうなエピソード。
なるほどと納得、 この時期ならではの知識であり、戦国武将と門松に深い関係があるのは意外。それも大元辿れば、言葉遊びなのが面白い!
明日にも使える旬なトリビア。
他にも植物と人間との拘わりを多数挙げ、特に興味深かったのは米関連。
赤飯は祝い時などに用意する特別な物。
そういった印象があり、しかし実際に真逆。
昔は赤い色素を持った米を常食しており、現代の白米、それはなんと今で言うアルビノであったというので驚いた。
その後、突然変異の白米を優先して栽培した結果、今のような状態になったという。この事実は多少なりとも衝撃的で、他の色素を持った米もあったらしいが、一番人気になったのが白色の米、というのが興味深い。
パンにしても然りであり、白い物が好まれる傾向が、人間の本能にはあるのかもしれない。
米関連の知見は興味深い物が多く、
稲は、胚乳に蓄えられた炭水化物を酸素呼吸により、発芽のためのエネルギーに変換。
その種子を我ら人間は食べ、そうして得た炭水化物を酸素呼吸により、身体のためのエネルギーに変換。
つまり稲と人間は全く同じようにしてエネルギーを得て、同じように成長しているのだから感慨深い。
とすれば、稲も生き物であることを実感でき、人間との共通性を見ては、さらに白米への愛着が沸く。
そしてよく知られているように、玄米であれば栄養はとても豊富。
そこで唯一足りたない栄養が必須アミノ酸のリジン。
偶然にも、この栄養素を十分に持つ食べ物が、”大豆” 。
つまり日本食はとても理にかなった栄養食であり、日本食が健康によいとされる理由の一端はここにある。
偶然とはいえ、その合理性にすごいなと思うと同時、昔ながらの日本食を摂る日本人の減少を嘆くのも無理はない事。
そこで出る意見、「肉食中心の、欧米的食事によって、豊富にたんぱく質が取れるようになった」
なるほどそうだな、と端的にも納得してしまう意見。
しかしそこで述べられていた、意外な知見。
「植物食を続けていると腸内細菌が豊かになり、ついにはたんぱく質を生産する腸内菌まで登場する」という研究結果!
ひな祭りには桃の花が飾られるけど、その時期に桃の花が旬でないのはなぜ?
といったことも学べ、
唱歌「ちょうちょう」の歌詞では、なぜ菜の花でなく、菜の葉にとまれなのか?
その理由には科学的知見も、そして隠された政治的示唆もあっては面白い。
あとジーンズを始め、植物が染料に使われているのには合理的な理由が。
紫などは、植物ムラサキから成る染色によって名付けられた色などとは初耳。
おっ!と思い、面白いwと思えたのは、バニラについて。
バニラがバニリンという独自の甘い香料を持つのは有名だが、このバニリンは動物の母乳にも含まれる成分とのこと!
つまり老若男女、ソフトアイスクリームが好まれるのは…。
日本人はもちろんの事、ヒト全体にとって植物とは切っても切り離せない関係であり、食生活はもちろん、祝い事においても、常に係わりあってきた存在。
この本は、植物の知見のみを述べる内容でなく、植物と人間との関係を綴る社会学的な内容の一冊でもある。
読めば植物への畏敬の念が深まることは間違いなく、
読んで損はない内容だった!
「いずれあやめか、かきつばた」
いつか使ってみたい言葉。
一読すれば、そう思う。