book and bread mania

-中途半端なサウスポーによる日々読んだ本の記録 + 雑記 + パンについて-

ピポポテピックの中毒性に見るドーキンス。

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まごうことなきクソアニメ。

それが今期に始まったアニメ『ピポポテピック』。

しかしこれが意外と、というかとても感じる中毒性。

 

そこで、この癖の強い中毒性についてを考察。

まず思いつくのが、『利己的な遺伝子』で有名なドーキンスが唱えた

ミーム

といった概念。

日本語に訳せば”模範子”と表され、

これは”遺伝子”に対して、生得的ではなく後天的に備わるものとしての意味を示している。より平易に言えば「流行に感化される」といったところか。

 

 

そこで本題に立ち返る。

ではどうしてピポポテピックは一部でカルト的な人気を得ているのか?

その要因こそが”ミーム”にあると思えるのだ。

ピポポテピックにおけるミーム的概念を、便宜上的にもネットスラングとしての概念に焦点を合わせて述べれば、まさに「ネットスラングを共有しての内輪話」に他ならない。

それはこの作品としての、作品性を見れば関連さは明白。

要するに、ピポポテピックその作品は、おおよそがパロディーによって成り立っている。

つまり、一部の人たちは「ああ、あのネタか」と内輪ネタ的にも爆笑するのだが、

その「あのネタ」、パロディとしての概念こそが、ミームに他ならないのだ。

 

一般的な世間では疎まれるマニアックなネタ、カルト的表現、ネットスラングな表現を、

”アニメ”

といった作品内において共有できることによって、それは世間に向けて隠蔽している自己としてのひとつの避難所を提供しており、簡略化して言えば、ニコニコユーザーがコメントしあう言葉を映像化したようなもの。

 

「パロディに笑う」

という行為は、

「パロディを理解する」

としたアイデンティティを共有することによっての、共有認識としての安堵感を、笑いという形に昇華しているのでは?と思う。

 

これに似た考察が、またドーキンスによる『神は妄想である』でも語られており、ピポポテピックとドーキンスとの親和性!が高いなとつい思う。

このドーキンス署である『神は妄想である』という本。

そこでは宗教についての存在意義を考察し、その一部では簡易に換言してこのように言っている。

「アメリカにおいて宗教が重要視される理由とは、他民族からなるアメリカでは、同胞として信頼できる他人が少なく、よって他者との信頼感のあるつながりを持ちたいが故に、その媒体として宗教を利用する」

 

これは多民族国家ではない日本人にはあまり理解しにくい概念であり、

そして

「宗教といったものを通じて、お互いを家族のように思えるコミュニティを作ることで、多民族国家の中でも孤立しない居場所を獲得しようとしているのだ」

と述べる。

 

そうした意見と照らし合わせながら、ピポポテピックの中毒性を語ろうと思う。

推測としてまとめると、

ピポポテピックの中毒性の理由、

それは上記の、宗教を媒介としてコミュニティを作ることに利用するのと同様に、

おたく同士が互いのスラング的知識を共有し安堵する場所として、ピポポテピックを媒介物として活用しているため。

 

このように思える。

マニアックなパロディネタに「このネタ知ってる!」とする視聴者群は、そうした感情を共有することによって、己を一種のコミュニティに所属させんとする行為に重んずる。

 

ピポポテピックの人気の中毒性の原因、

それは、ミームによる共感性と、

共感性において生じるつながり、共同体を求める意識にあるのではないのか?

 

 

 

ピポポテピックとはつまり、そんなくそアニメ。

一種の宗教性があって、内容として「あるあるネタ」「パロディネタ」が満載でありそれが主なので、その意味内容としての柔軟性には欠ける印象。

だからこそ視聴側における認識の自由度は狭められ、芸術性として低いと思われる。

 

そう思えながらも、そんな一般の パロディネタ作品に比べると実際は一線を画しており、それは一部の作品において示されている、高濃度の自由さがもたらすためと思われる。

 

なので、実際におけるこの作品の評価として真に評価されるべきは、そのような点ではないか?と「さてはアンチだなオメー」の反論としても結論付けとしてもここに思う。