このスレを読んで気づいたこと。
内容としては、平易に言って「うそつきに対する痛烈な批判」。
しかしここでふと疑問に思ったのは、どうしてこうも「そのうそつきに対して痛烈な批判的態度をとるのか?」ということ。
そんなことは自明で、「うそつきことは悪だから。そしてこの場合、うそをついて周りの人を傷つけて、信用を裏切っている」。
という主張があるかもしれない。
確かにその主張は尤もとで、しかしここで一歩立ち止まり、考えてみてほしい。
ではどうして、我々はうそつきを批判するのか?
倫理的な理由、道徳的な問題、その他にも数多の意見はあると思う。
そんな中での確実なことのひとつとして挙げられるのは、
「うそをつかれることで、それを信じた自分が損をする」
ということがあるように思える。
『囚人のジレンマゲーム』的に考えれば、自分が他人にうそをつき、他人からうそをつかれない、というする状態がいちばんに利益を得られるかもしれない。
しかしこの戦略がうまくいかないのは自明で、簡易にいって持続性がないからだ。相手がうそをつかれることを学んだ場合、次に相手はこちらを信用しなくなる。
だがそうして疑心暗鬼の状態が蔓延れば、生活する上でいろいろと厄介になってしまい、わかりやすく言えば”お金”だって信用の上に成り立っているからである。
よって『囚人のジレンマゲーム』のような、いわゆる「騙すか騙されるかゲーム」を行った場合、おおよそ結果として「相手がうそをつけばこちらもうそをつく、相手がうそをつかなければ、こちらもうそをつかない」とした報復態度に帰着する。
といっても現実社会でうそつきが蔓延らないのは単に、こうした相手からのうそを恐れるからではなく、寧ろ、うそをつきそれが露呈することによっての社会的地位の損失を恐れるからという理由のほうが大きいように感じる。
では仮に、「社会的地位のない人間ならば、社会的地位のある人間よりもうそつきか?」とした場合、結果的には真になることのほうが多いと思う。
もちろんこれは推測で、直感的なもの。ヒューリスティックであることも否定は仕切れない。けれど私たちは、こういった直感的なものを信じる傾向にある。おおよその人が、路地裏にいるやさぐれたホームレスより、新人議員のほうがうそつきであるとは思わないだろう*1。
つまり通常、人は何かしらの社会的地位がある場合において、うそを忌避する。
よって人は、忌避する「うそ」それを発する人間を非難する。
「うそ」はいけないものであるから。
そう考えたとき、ふっと浮かんだひとつの考え。
それが表題のこと。
要するに、人がうそを忌避するような強固な姿勢こそ、実は『悪徳へのルサンチマン』なんじゃないのか?ということだ。
『ルサンチマン』、ニーチェが作り出したこの用語の基本的な意味としては、
恨み(の念)。強者に対し仕返しを欲して鬱結(うっけつ)した、弱者の心。
基本的には、社会的立場における弱者が、社会的立場の強者にむけて抱く感情とされている。
「では、悪徳へのルサンチマンとは逆では?」
と疑問にとらわれようが、それこそまったくの真逆。
つまり、「うそをつけない社会において、うそをつくという本来は許されない行為をとる者こそ”悪徳的社会立場の強者”であり、うそをつきたくても状況が許されない”悪徳的社会立場の弱者”が、その鬱憤をぶつけるというかたちで、うそつきを非難しているのではないか?」ということである。
本来、我々はよりうそつきであり、うそをつきたい衝動に駆られる。しかしそうした衝動を咎めるのは社会的地位であったり、論理的な思惟によるものに他ならない。
だがそうした概念は社会的・人為的に作られたものであり、自ら課しているルールを破る者がいれば、それを排除することこそが、ルールを保つためのルールになる*2。
話を戻す。
クロちゃんのうそをつく行為が、こうも批判にさらされる理由。
つまりそれは、「俺はうそをついていないのに、こいつは好き勝手にうそをついている!だから屑だ!」として、自己の叶わない行為(うそをつくこと)を鬱結した念としてぶつけているのではないのか。
人は幼いころから「うそをついては駄目だ」と教えられる。
それは社会に適応して生きるためのルールだからであり、同時に、人が社会的生物としての役割があるからである。
社会的地位が高い者への妬みが生ずるのは、社会的地位が高いことによって得られるものを欲するからであり、だからこそ、うそをつくことで得られるものを欲することも当然存在する事象。しかしうそにまとわりつくリスクは「ルールを破る」ことであり、それは社会的地位の高いものが持つ「信用」を失う行為へと直結する。
だが成功したうそは逆に「信用」を向上させる。
そのうそがうそであるとバレない限りは。
この、「ルールを破る=信用の高い地位にある」という本来ならば≠になるはずの状態の存在性を、何よりも否定するのではないか。それは「信用の高い位置にある」ということへの信用の存在を崩壊させるからに他ならず、「ルールを破る」というのは換言すれば「ズルをする」ということに他ならない。ある一定の人々が、まったく苦もせず条件もなしに、給料を与えられているとすれば憤りを感じるだろう。それは働くことの苦労を知っているからであり、それさえも給料の一部と認識しているからだ。
「ズルをする」のを忌避するのは、その行為が反社会的だからであり、だがこの「ズルをする」の一部事象が社会的に容認されれば、それは「ズルをする」ではなくなる。
すると誰もが、その「元ズルをする」行為に対して鬱結した念を向けることはない。
なぜなら、それは既に誰でも容易に行えることになったことで「社会的価値」が損失し、そこにぶつける鬱結した念が存在しないのは、ぶつけるべくして存在した「高低差」がなくなっているからである。
つまり『ルサンチマン』なる概念は、たとえそれが一般的な論理においての悪徳であろうと、それが結果的に高低差を生み出す行為もしくは得ようとしても得られない(この場合、行動として)事象に対して生ずる情動なのでは?と思うのだ。
だからこそクロちゃんは批判されるべき存在であり、批判されなくては、強固に築かれたルールの一端が崩壊する危険性がある。
そのように考えれば、うそつきが激しく非難されるのも納得であるが、それは同時に、築かれたルールを再認識するだけのことにも他ならない。
ホッブスは自然権の存在を訴え、それは人としての凶暴性について目を向けていたからでもあった。しかし昨今においては流石に、ヒト本来の性分として「ルールが存在しなければ激しく凶暴かつ利己的に尽くす」と考える者は少ないだろう。
それでいながらも、「うそをついてはいけない」というものは倫理的なルールとして強固にそして妄信的にも信じられ続けている。それは相手を裏切らないためでもあり、相手からも裏切られないための、よりよい相互関係を求めてのルール。
しかし、そこで「うそをついている」者を批判する行為は、正確には「うそをついていること」を批判しているのではなく、「ルールを破っている」ことを批判していることを自覚するべきであり、「ルールを破っている」ことを単純に批判することは、「ルールを破りたいけれど破れない」ことに対する鬱結の念である可能性を考えなければならない。
なぜなら、それこそ「悪徳への憧れ」から「悪徳の実行」への萌芽させる因子になり得るからであり、故に重要なのは、それが「悪徳」と定めるルールの本意を理解しようとする事だ。
さもなくば、「うそつき」を「うそをついているから」という理由のみで批判し続ける限りは、同じ穴の狢ということになるのだろうから。