book and bread mania

-中途半端なサウスポーによる日々読んだ本の記録 + 雑記 + パンについて-

7月に読んだ本からおすすめ10冊を紹介。

7月に読み終えた本は31冊。

その中からおすすめの10冊を紹介!

 

 

 

第10位

『鉄砲を捨てた日本人―日本史に学ぶ軍縮

鉄砲を捨てた日本人―日本史に学ぶ軍縮 (中公文庫)

鉄砲を捨てた日本人―日本史に学ぶ軍縮 (中公文庫)

 

 軍備縮小した国は稀。

そんな稀な例の格好な的というのが日本であり、どうして銃の存在を一時捨てることができたのか?を簡潔にまとめた本。

外国人が書いたということもあって、異国の目から捉えた「日本らしさ」や「日本国としてのすばらしい面」が強調されており、ある程度の説得力を持つ。

本書は「日本ってすごい!」とする昨今のメディア風潮ような、日本人が自国に対してアイデンティティを抱きそれを賞賛と言う名の愛撫することによって日本人を悦ばせるような一過性のものではない。

読むと、日本人と刀の関係について、その深遠な関係の一端を感じ取れることができる。それに関連して本書の目的である、「どうして日本人は鉄砲を捨てたのか」という疑問についても明確かつ鮮明な答えを用意してあり、その理由としては5つほどを挙げて解説。すんなりと読める一冊なので、日本と軍備について興味あれば一読を。 

 

 

第9位

ヒロシマ

ヒロシマ

ヒロシマ

 

 ガルシア・マルケスが本書をノンフィクションの一冊として絶賛しており、それで読んでみる事にした本。

そこまでページ数こそないが、内容として圧倒された。

ヒロシマ原爆が落ちた当時の状況を無機質ながらじっくりと繊細に描いており、当時の状況が繊細に伝わってくる。本書はその場に居合わせた5人(実際には6人)にスポットを当て、彼らにインタヴューなどを決行して紡いだ内容であり、その奇跡的に助かった5人によって語られ示される実情。彼らは、または周りはどのような状態にあり、どのような行動をとったのか?

原発少女」「ケロイド乙女」といった言葉の印象はとくに強烈。これが実際に使われていた表現とは!

あと思うのは、こうした本に対しての先入観的なイメージこそ「とても悲惨な状況を」「思わず目を背けたくなる」ことばかりに思われようが、実際にはそこにある希望的な側面、人間らしいたくましさや図太さ、そういったものこそ人間の本質として描いていることであって、生死に混合する楽観性もまた真理であるのでは?と思わせる実情こそ人間味を肌身に感じさせてくれる。

ノンフィクションとしてお手本のような作品でもあるので、目を通して損はない一冊。

 

 

 

第8位

『ものはなぜ見えるのか―マルブランシュの自然的判断理論』

ものはなぜ見えるのか―マルブランシュの自然的判断理論 (中公新書)

ものはなぜ見えるのか―マルブランシュの自然的判断理論 (中公新書)

 

 なかなか難解な一冊であり、ページ数と読了に用いる時間が半比例するが如く、厚みの割にはじっくりと理解して読むには時間を要する一冊。だがその内容として、「ものが見える」理由をどこに求めるのか?を解説しており、それは抽象的な思考法でありまた”神”といった存在に必然性を容認するあたり「なんだ、また神学的なものか」と思わせながらも、実際には便宜上として以上の意味を孕ませているのだと知ることになる。

なるほどこうした原理や思考は「単なる抽象的な思考に過ぎないのだから、それが現実にどう立つ?」とされがちだが、本書は読み解けばそうした疑問からは一線を画し、むしろ生化学的知見を用いて「見る」という行為を理解する以上に、「見る」事に関して「見える」ものを多くしてくれるのだから、これは皮肉的というよりは寧ろ人間意識を賛美するべきであると思う。そんな一冊。

 

 

第7位

『十蘭レトリカ』

十蘭レトリカ (河出文庫)

十蘭レトリカ (河出文庫)

 

 久生十蘭氏の作品は本書によりはじめて読んだ。

幾分も時代を思わせる描写が目立ちながらも、なかなかどうして面白い!

内容として、短編、中篇と収録されており、なかでも『モンテカルロの下着』『フランス感れたり』『心理の谷』などは特に面白い。

特徴としてはリズミカルな文体。

純文学としての気品を感じさせながらも、ジャズピアノのような爽快さを思わせ、すっと情景が明確に浮かび上がってはなお、ハイカラなストーリーを展開させる。

モンテカルロの下着』ではフランス留学中の日本人娘二人の様子が生き生きと描かれ、『フランス感れたり』ではチャップリン映画のような滑稽さが提示されている。

そして何よりも一番に面白かったのが『心理の谷』という作品!

「これは典型的ラノベ展開の先駆けか!?」とも評せるような、美人お嬢様とツンヤンデレの娘との合間にゆれる主人公を描いた作品。そのツンデレ具合といえば、昨今の作品の読んでいるようであった。けだしその文章力は桁違いで、なるほどラノベに代表される昨今の小説ほどには決して読みやすくはない。だが、そこがむしろ良い点であって、巧みかつ鮮明な表現や描写はアニメ画のような映像を脳裏に想起させ、ひとつの映像作品のような躍動感と、登場人物の溌剌とした姿を読ませるのではなく、見せ付ける!そして所々に見られる著者のセンスは昨今において通ずる粋さで、お嬢様がおほほほと笑うのはレトリックとして「地獄に落ちろ」の意味である、との説明には笑った。

これなどは今にしてそのままアニメ化しても十分に面白い作品になるのでは?と思えたほど。

ただ『花賊魚』や『ブゥレ=シャノアル事件』といった作品はちょっとした史実的なものであり、作風がガラッと変わるのも印象的。この辺は好みが別れそうだなとは思えた。

純文学の名手、と呼ばれるだけあり、入り組んだ構造をしていながら、その細部となる各部品、すなわち文章それらはどれも艶やかで芳醇な文字としての色彩を持ち、まるで画家が絵の具で色彩豊かな絵を描くように、著者は言葉という絵の具を使って、空白の空間へ文字を用いて二次的な作法により読者の頭の中でその絵画を鑑賞させる、といった趣を感じたのは確か。あと『ブゥレ=シャノアル事件』は、フレドリック・ブラウンによる『さあきちがいになりなさい』に似たところを感じたりもした。

 

 

第6位

『S‐Fマガジン・セレクション〈1987〉』

 国内作家による1987年度のSFマガジンによる傑作選。

13編を収録しながらも、柾悟郎氏による『邪眼』の圧倒的完成度!

これには正直言って度肝を抜かれた!

そんな作品であって、この作品だけに限っては別格。

どのような作品化と平易に言えば攻殻機動隊的な「スチームパンク」作品。

すると誰しもが「ニューロマンサーに影響を?」と思うところだが、実際にはジェイムズ・ティプトリー・Jr.の小説『接続された女』とのことで少々意外。

そしてこの作品『邪眼』だが、意識を借物に入れることを可能とした近未来での、ハードボイルド的な作品。この短編だけでも随分と濃厚。豊富な知識を散りばめウィットで下品な会話はイギリス的ユーモア性に富み、読んでいてテンポもよい。

当時、これで早川社が騒然としたというのも納得の出来栄えで、これだけ別レベル。

古典的な「魂とは?」を扱う形而上学的な作品ながらも、「テクノロジーによって意識が取り出せるのだとすれば、自意識と他意識の境界線は?」との問題を取り上げており、読み応えあり。

この作品のためだけにも読む価値のあったといえる短編集。

 

 

第5位

『トリフィド時代―食人植物の恐怖』

トリフィド時代―食人植物の恐怖 (創元SF文庫)

トリフィド時代―食人植物の恐怖 (創元SF文庫)

 

 古典的パニックホラーの名作をようやくにして読む。

その内容としては、正直なことを言えば実際想像していた物とはだいぶ違っていた。

というのも想定していた内容としては、“トリフィド”なる未知の肉食植物が人間を容赦なく襲い掛かるパニックものと思いこんでいたため。

けれど実際には、そうした植物の行動より、人間としてのあり方にスポットを当てた、どちらかと言えばサバイバル的であり、ポストアポカリプスな世界での生き残りを鮮明に描く内容だった。

けれどまあ、だからといってつまらない等と言ったことは一切なく、普通に面白い。

だが本書は古典的名著だけあり巷に感想は溢れ、なのでここではあえて簡潔に。

「便利だからと言って、それをむやみやたらと活用すれば、あとで痛いしっぺ返しを食らうでしょう」

こんな箴言めいた作品と言えよう。

あとは「科学が発展するには“暇”が必要」といった言葉には、含蓄があり示唆するものは多いように感じた。

 

 

 

第4位

プラトンとかものはし、バーに寄り道 ジョークで理解する哲学』

プラトンとかものはし、バーに寄り道 ジョークで理解する哲学

プラトンとかものはし、バーに寄り道 ジョークで理解する哲学

 

 記事にもした一冊。

帰納と演繹の違いについてを説明するならば - book and bread mania

要するに、ジョークと哲学の親和性は深く、 寄り添いあうようなものであって相性がとても良いということである。

言うなれば”笑い”とは少なからず哲学的素養を持つ存在であり、哲学的に言えば「笑いとは意識的な現象である」といったところか。

本書は哲学の諸概念を、ジョークを通じて学ばせてくれる良書。

そして「ジョークを哲学のアナロジーとして」示すのであれば、では「そのジョークは何のアナロジーを?」として考えていくのもまた面白い一冊で、そこには文化人類学的要素も詰まっており、俯瞰的視野を鍛える上でも良い作品。

 

 

 

第3位

『メディシン・クエスト―新薬発見のあくなき探求』

メディシン・クエスト―新薬発見のあくなき探求

メディシン・クエスト―新薬発見のあくなき探求

 

「ヴェノムは棘や針、牙などから注入される動物性の毒である」

この毒をさて有効利用してやろうじゃないか!という経歴などを解説、紹介するノンフィクションとしての内容。

 

想像以上に面白かった!

これを読めば「毒」に対する見方は変容し、毒の存在・概念はまさに言葉通りの「毒」ではないのだなと痛感する。まさにファルマコンであるのだと!

要は、「ものは使いよう」という古来からの金言をそのまま現実に転化したような事例を盛りだくさんにも紹介する。

本書を読めば、一攫千金のチャンスとはまさに「野生」にあるのであって、寧ろ実際にはそこらへんに転がっているのだと知ることができる。それも物理的な意味で!

簡単にその真意を言うのならば、

「動物や植物などの毒素をはじめ、各々の生物に見られる独自の因習が、うまく利用することによって人間に対し実に好意的な作用をもたらす」

ということに他ならない。

すると「シャーマン」なる森の権力者もひとえに時代錯誤とは呼べず、彼らの存在意義は実際、神話的ではなく寧ろ実用的、現実に即していた存在であり合理的なものであったのだと知ることができる!

 

またヴェノムは神経インパルスの伝達経路についての解明にも一役買うそうで、毒といってもその効用は表面的なものならず、こうした諸原理の解明にもつながるというのは奥深い。特定の箇所が反応することでマッピングにも役立つというのも、ヴェノムは特定のレセプタにしか作用しないからとのこと。すると毒とはその名に反する如く、有益であることが見えてくる。

毒に限らず独特な生物の特徴について、たとえば胃の中で消化させずに胎児を育てるカエル!など紹介されており、生き物の不思議さに触れることのできる一冊。これはもう老若男女にお勧めの本で、興味深い事例は盛りだくさんであって読了後には世界の見え方が変わってくる素晴らしい本!

 

 

第2位

『本能はどこまで本能か―ヒトと動物の行動の起源』

本能はどこまで本能か―ヒトと動物の行動の起源

本能はどこまで本能か―ヒトと動物の行動の起源

 

 単なる平凡なポピュラーサイエンス。

なんて思って読むと、これがなかなか侮れない内容。

その主張として「なんでかんでも本能って、それは違うんじゃない?」と疑問を呈すもの。

たとえば定説としてよく言われる「生まれてすぐの鳥は、最初に見た大きな生き物を親と思う」という、刷り込み。

これが実際には誤りだとしたら!

そして実際、本書では「それは違う」と提唱し、その原理には驚かされる。コペルニクス的転回、とまで言えば大袈裟かもしれないが、それに近い衝撃をもたらすことは確かである。

つまりは昨今の常識としての知識を、「それって実は先入観」と気づかせてくれる。

学校で教わること等はさも当然として「それが常識」とみなしてしまって思考停止状態に陥りがちな現状(まさにそうした自体こそもまた「刷り込み」的と言える!)に対し、実際には未知数であることの可能性を示唆する。

視野を広げさせてくれる本としては秀でており、「地球は平たい」と同様のことを我々が言っている可能性を気づかせてくる。

懐疑主義者には好ましい一冊。

そして本書を読み何より得たと思えることこそ

「本当の“本能”とは存在するのだろうか?」

といった具体的さを疑問視できるようになったことに他ならず、“本能”という概念に対して新たなノードを構築できたことにあるのでないかと。

お勧めの一冊。

 

 

 

第1位

『声の文化と文字の文化』

声の文化と文字の文化

声の文化と文字の文化

 

世の中には、読む前と、読んだ後によって、世界の見方がガラリと変わる、もしくは変えてくれる本というのはいくつもある。

それは創作物であったり、またはノンフィクション、学術本、専門書など数多の可能性もまた然り。

けだし小説や漫画などにおける創作的な物語における、意識変革の中軸と言えば、その物語が示す一種のメッセージ性(ここでテクスト論を用いると長くなるので便宜上にも省略)を受け取ることでの自己意識における変革、つまりは価値観の新たな創出であり、物語から読み取った価値観が己の血肉となることによって自身の意識を一新する。

そうした場合においての、物事の見方の変容とは物事が変容したことを意識するのであって、それを齎した事物そのもの、つまりここでは言葉自体(シニフィアンシニフィエに意識を向けたとしても)に対する注目こそ意識しようとも、その言葉が書かれた行為自体に注目することは甚だ珍しい。いいや寧ろ、それは意識的に行うが、あまり意味を持ち得ないことが多い。それは「言葉」に対して「意識」が向くからであり、その「意味」に「意識」が向くからに他ならない。

 

本書の主目的はまさにここにあり、要するに「文字」としての存在その物の効果を問おうとする内容なのである。

故に、本書における「世の中には、読む前と、読んだ後によって、世界の見方がガラリと変わる」というのはメタ的な知識としての認識であり、それがさらに斬新と思えたのは、言語学的といえる、いわゆる「言語体系としての意味」をさらに上から捉え、言語学さえも俯瞰して捉える点にあると言えよう。

 よって本書はソシュールロラン・バルトをはじめ、言語学の基本的体系に対する諸問題を呈する側面もあり、言語学として「書かれた言葉」に注目しようが「書く行為自体」に対しては、言語学の解釈における拡張不足を痛感させるのである。

 

すると本書はレヴィ・ストロースよろしく構造主義に対する考察にも深く関わりを持ち、すなわち構造主義としての思考に欠けているものを指摘し、「構造主義が構造の原理を解体しようとも、構造を”構造”として成し得る過程においての影響力を疎外視している」との、いわゆる構造における「材料」に対しての考察不足を指摘するのではなく、構造における「構造以前に存在するもの」についてを指摘する。 

 

本書を読む上では、構造主義言語学に対するある程度の教養があれば楽しめることは間違いなく、「ああなるほど!」と声の文化と文字の文化が実際にはどれほど事物の生成に重要であり、そして構造主義的思考が一過性かつ傾向的であるかを気づかせてくれる、すごい本。

人生において、一度は読んでおいて損のない一冊であり、同時に読んでないともったいない本でもある。