昨今気付いたこととして、読書における三重性が挙げられる。
読み方としてたとえば小説の場合、綴られる視線に従い実直、素直に読むのが普通の読み方。
それに加え、メタ的な読み方。つまり作者の目線や構成に目を向けながら読む行為、これが読書における「二重性」。
ところが最近、これよりも上の読み方があることに、はっと気がついた。
それこそが読み方の「三重性」であり、従来の普遍的な読み方、メタ的な観点からの読みに加え、「現実世界と接合した」読み方、これが「三重」の読み方といえよう。
具体的にはどのようなことかといえば、いたってシンプルである。
つまりそれは生活実利に直接関与、加味し得る読み方であり、ある種虚構とフィクションの垣根を超越させた、ひとつの実践的・体験的読書のことである。
それはフィクションがもたらす影響力を現実世界へと呼び寄せ、添付する行為であり、読書によってもたらされる内面的革命を、外面へと突出させる行為である。
するとここにおいて読書という個人的な行為はその範疇を広げ、己へと穿たれた影響力は瞬く間に散布する。
散布したそれはその影響により世界の見方を変貌させ、変貌させた意識はすなわち自己へと還元される。
そのとき個人の意識へ浸透し表象する意識こそ、読書との共同作業によって培われた新たなる具現化した自己でありこれによってようやく読者はその世界構造がもたらした影響を好意的に知るのである。
と、哲学書風に述べればこんなふう。(多分
しかしまあ実際に言いたいこととは実にシンプルで、要は「本は読んで終わりではなく、本を読んで意識が変わったと思うのならば、それを行動に!」ってことだけ。
でもこれ、実にシンプルながら実行するのはとても難しい。
たとえば、心優しい青年の物語を読み終え心は穏やかに「ああ面白かった」と読了感も清々しく本をテーブルに静かにそっと、生き物を扱うごとく丁重に置き窓の外から肌をなでる微かな隙間風にさえ友愛の気持ちを抱いてさっそうと椅子から立ち上がれば、そのとき不注意にもテーブルに膝をぶつけ卓上のコップが床に落下し買ったばかりのカーペットを壮大に汚す。思わず「畜生っ!」と叫んでしまうのは人間の性で(別に実体験とかではないですけど)、先ほどの読書の余韻は何処へやら。
そんな風には当然、書物の中の世界と現実の世界とは一線を画しており与えられた影響が延々と響きそれが自己を改革するというのは難しい。
さらに歳を下手に食うと、妙に背負うものも大きく重くなって心も体も自由に身動き難しくもなる(これこそ実体験的ではある)。
でもまあ多分、人は人を、自分を変えたいと思うからこそ読書するのであり(それは人格や性格に基づくのみならず「より知識をつけた自分になりたい!」とする知的好奇心を充足させる意味合いの読書も含め)、だからこそ現実の周りや、今の自分の意識や立場を加味しつつ読書することも大切なのかなと。
梃子でも意識を変えない!という人はつまり、自分の意識を変える勇気がないというよりも、変えるきっかけがないだけであると思う。
だが本を読むという行為には、それだけのきっかけとなる力がある。
本を読むというのは、まさに”今の自分”を読む行為なのだから。