映画のレビューで「よく分からない」を理由に低評価をつける人
これってさ、ちょっと面白いなと気付いたのでここに書く。
例えば、テストで答えが分からず白紙で出せば0点だ。
当たり前のことだけど、これが実は映画を観て内容が理解できない場合に低評価をすることと関係あるんじゃないか?って思ったわけ。
だって、「よく分からない」ってことは正解が分からないってことで、正解が分からないと低評価を受ける社会を生きてきたからこそ「よく分からない」作品に対しても同等の評価基準を抱いてしまうんじゃないかなと。*1
そう考えると「分からない」ことに対する否定的な見方は根強くて、だからこそ「分からない」ことの楽しさと面白さを別に勉強しておくと人生は案外豊かになるんじゃないかなって思ったりした。*2
園子温『地獄でなぜ悪い』を観た。
以前から少し気になっていた映画『地獄でなぜ悪い』を最近視聴。
以下にその感想を載せるもちょっとネタバレを含むので、気になる方はお控えを。
まず終盤までは単純に面白かった。
テンポは良いし、物語の構造としても非常に分かりやすい。
シリアスな局面を滑稽に描く展開などは三谷幸喜的な脚本に思えたほど。
ただ終盤がいけない。…と、そのように感じる人も多いと思う。
だが終盤においては、さまざまな仕掛けが施されているのだ。
終盤の映画の撮影では実際の殺し合いを始める。
相手組も撮影することを許諾しているので、撮影であり組同士の戦争。
そこでは映画の撮影である殺陣と実際の殺人が混合され、虚構と現実が混じり合った幻覚的状況を演出する。さらにコカインでトリップする星野源の役ともリンクされ、”現実でありながら現実ではない”場所を描こうとする工夫が随所に感じられるものの描写をじっくり見れば虚構さが勝るのは容易に分かる。
簡単に言えば安っぽいのだ。しかしこの安っぽさもまた狙い通りであり、何故ならこれは映画を作る様を撮っている映画の映画なのだから。
だからこそ本来であればFUCK BOMBERSの面々は決して殺されないはずなのだ。
理由は単純。彼らは社会に組み込まれていない存在だからだ。FUCK BOMBERSの面々は社会からあぶれた存在であることを序盤に描き、だからこそ彼らは映画を作る。
あくまで<社会>の外にいる存在であり、<社会>に含まれず<世界>に属しているからこそ彼らとしてのやり方(映画を作る)で<社会>に接触できるのだと。
だからこそ<社会>の外に居る彼らはあくまで<世界>側の存在であり、当然映画の<外側>に居る存在だ。
だからこそ殺されないはずのFUCK BOMBERSのメンバーが実際には次々と死んでいく。
なぜか。
それはこの映画が、”映画の制作を描く映画”のアンチテーゼ的な側面を抱いているからだろう。従来の”映画の制作を描く映画”であれば、映画の外に居るFUCK BOMBERSのような人間はあくまで外側に構え、彼らは世界を撮りつつ<世界>に含まれない。そのような虚構性、フィクション性をあえて打ち破るためにFUCK BOMBERSの面々は殺される。突入してくる警察はまさに彼らを映画の中から<世界>に引き戻し、そして<社会>の中に組み入れるための媒介であり、同時に彼らこそが世界にとっての<社会>であり、映画の世界の外側に存在している存在として描かれる。そう、ここで警察とFUCK BOMBERSの立ち位置が逆転されるのだ。ここにこの映画のリアリズム性がある。殺戮シーンの安っぽさと対比的だ。このような構造性によって終盤も実は見応えがあり、単なる殺戮シーンやラブシーンとして眺めるだけでは安易過ぎる。
映画の最後、長谷川博己演じる平田だけが生き残り、これで最高の映画が作れると歓喜する。その様子を見て観客は彼に狂気を感じるが、実は違う。
ここで描かれる狂気は、観客の狂気なのだ。
平田は血を流しながらも喜び、妄想する。
ヤクザ同士の殺し合いの映像を映画化し、それが大ヒットし賞賛される様子を。
ポイントは、殺戮映像によって映画がヒットするという平田の思い込みにある。
どういうことか?
平田には分かっているのだ。観客が映画に求める映像というものを。
そう、やくざの殺し合いによる残虐なシーンの数々こそまさに観客が求める映像であり、残虐なシーンを観客が求めているからこそ平田は笑うのだ。
平田が笑うのは、求めていた映像が手に入ったから。
求めていた映像とは、観客が求めている映像だ。
観客が求めている映像とは、残虐な映像だ。
ここまでいえば分かるだろう。
最後、狂人のように笑う平田の笑みこそ実は観客に共感した笑いであり、平田は同時にこの映画を鑑賞する観客でもあるのだと。
そのような視点で眺めれば本作品はなかなかユーモアのある映画であって、単に「暴力映画」とはいえない内装を構築する。拙い場面も多いような気はするが(例えば<世界>の構造の変化を示すための警察による突入、残党の射殺などはあからさま過ぎる)、それでも一応は整っている作品だと思えるし、実際面白かった。
最後に、堤真一演じるヤクザの親分の台詞で印象的なものがあったので紹介。
「俺たちはリアリズム、奴らはファンタスティック。リアリズムじゃ負ける」
この映画の本質は、この台詞に全てが含まれている。
昨日の地震
昨夜の地震は結構揺れた。
さらに昨夜はお腹を壊しており居間とトイレを行ったり来たり。
そんな最中にあれほどの揺れに襲われたのだから「収まってくれ…!」と願いながらもどちらに対する願いなのか分からないような状況。だから揺れが本当に酷ければ死んでたんじゃないかなと思う。
亡くなった方や怪我された方も居るので、今回の地震に対して「被害が少なくて良かったよね」とは声を大にして言えないけれど、それでも3.11と心の中で比べ、安堵している方も多いと思う。
それほど、震災とは理不尽だ。
突然な理不尽に対して、少しだけ死を思ったし考えもした。
考えるべきことはごまんとある。
考えるべきでないことはごまんとある。
そんな中で何を考え、何を思うのか。
すごく重要で大切なことだけど、選別する大切さを忘れてしまうのは時間の期限を忘れてしまうから。
たまに遭遇する理不尽は、時間の期限を思い出させる。
<社会>で生活していると忘れがちになってしまう<世界>に対する認識を、理不尽は呼び覚ます。理不尽は理不尽であるが故に<社会>に包摂されず、そこに存在価値が生まれる。だからそこで色々なことを考える。色々なことを思う。
考えるべきことはごまんとある。
考えるべきでないことはごまんとある。
だから、色々なことを考え”続ける”のだと思う。
今日はツイてなかった…
図書館に行って『ピープルズ・チョイス』を借りるつもりだったんだけどなかった…。
”貸し出し中”とかじゃなくて、本自体が図書館からなくなってた。去年末に検索してあって「あっ、図書館にあるんだ!」ってテンション上がってたのにこの数週間で除籍されるとか、どんなタイミングっ!?
うわーまじかーってなるよ、そりゃ。もう本当にショックだった。
『孤独なボウリング』は予定通り借りられたけど、ピープル・チョイスも一読してみたかったな……。
『彼女系生命進化論パーフェクト☆ガール』!!
あけまして、おめでとうございます!!
気づけばもう1月も18日。
なんとまあ時が過ぎるのはあっという間で歳をとると時間が等加速運動をしなくなってしまって困ったものです。「時間は相対的なものじゃない」なんていうアインシュタインの言葉を思い出したりする今日この頃。皆さんはどうお過ごしですか?
とまあ、新年の挨拶ならびに枕言葉はこの辺として、今回こうして記事を書いているのは面白いゲームに出会えたからで、それもフリーゲーム!
タイトルは『彼女系生命進化論パーフェクト☆ガール』!!
彼女系生命進化論パーフェクト☆ガール【ブラウザ版】:無料ゲーム配信中! [ふりーむ!] (freem.ne.jp)
形式はノベルゲーム。
ジャンルはホラー+SF。
内容は…と書くとネタばれ云々よりも実際なにも知らずにプレイしたほうが楽しめると思うので、ここにはこれ以上詳しく書きません!
なので下記にネタばれ含む感想を。
少しでも興味が沸いた方はぜひとも遊んでみよう(タダだし)!
ただちょっとホラー要素を含むので、そういった系が苦手な方はご注意を。
それでも本作品はとっても面白いエレベーターゲームでもあるので、食わず嫌いをするのには実にもったいない作品であると断言できるので、ここで再度オススメをしておきます!
~ここから先はネタばれを含む感想なのでご注意を~
感想として、クリアしてまず思ったことは「メタいな」と。
フラットランドかよってつい思うよね。
あとは演出の秀逸さが特に光る作品で、ノベルゲームの演出としては有償ゲームにも引けをとらない素晴らしいものを感じられた。
このゲームでは作中作の中の主人公、その作品をプレイする主人公、そして作中作の作品をプレイする主人公を操作する僕、そしてそれらを俯瞰し、ゲームとしてこれをプレイする私たちといった4層構造になっており、このうち3層までの構造に関して言えばビジュアルとして的確に表現できていたところは実に巧みで、凝った演出によってその臨場感を見事に表現できていたこともまた大変好印象。
こうした演出こそある種ゲーム的であり、映像を含ませた媒体の強みと言える。
おそらくこれを文章のみで表現した場合、そこで脱落してしまう人も多いのでは? と思ってしまったほどにはメタの複雑性があり、それに伴い映像と演出によってもたらされる感嘆の部分も非常に大きかった。
同時にノベルゲームでノベルゲームを批判することはある種の二律背反性を感じさせ、笑顔の豚さんが描かれたトンカツ屋の看板を目にしたときのような違和感を我々に与えてくる。だがその違和感を希望という形に変容させ、恣意的な意思を恣意ならぬ意思的なものに変えて見せるシナリオこそ本作の魅力と呼ぶべきだろう。
それでもこのゲームの真の面白さとはまさに4層構造の4層目の存在にあると思え、作中作をプレイする主人公を操作し観賞(干渉)して遊んでいる僕(つまりこのゲーム内では”観測者”のこと)、この観測者は概して私たち”プレイヤー”の代理人として描かれているわけだが(それ故、後半になってこの人物の存在が露呈されるとプレイヤーは最初の”主人公”からこの”観測者”に対して自己投影を行うわけだ)、この”観測者”に対してもまた一線を画して、あくまで”私たち(プレイヤーのこと)”自身に焦点を当て、ゲーム内の登場人物にあえて自己投影を行わずにプレイすることにこそ本ゲームの醍醐味があるように感じられたのだ。
それは作品としての構造をより深く理解するという意味において。
何故なら”作品”の存在それ自体が現実性を抱き、意思や感情を揺さぶるような影響力を発揮させるためには現実との関連性が不可欠だからで、自己投影の先を見失い続けたままでのプレイでは真の感動が味わえないからだ(だからって「引き篭もりになれ!」と言ってるわけじゃないよ。そりゃ極論だから)。
故にその点に関しては惜しい作品にも感じられた。
本作品はまず普通のノベルゲームと思ってプレイし、その”普通のゲーム”が実は虚構で、虚構が虚構と判明した時点において私たちは作中作と気付いた主人公と同じ立場、つまり意識を取り戻し宇宙船の中にいる主人公――彼と同じ層に立つわけだ。しかしその後、観測者が登場することでまた虚構があることを知らされると私たちは層をひとつ上がり、今度はその観測者と同じ層に立つ。
だが当然、私たちはゲーム中にて示された観測者その人ではない。
あくまでスクリーン越しにもその観測者をまた眺めているのだから層は再度上昇し、エレベーターのごとく私たちプレイヤーはどんどんと階層を昇っていくわけだ。
4層目となったところで私たちはようやく止まり、今度はどっしりと腰を下ろし全体を眺めることになる。何故なら終盤のメタ発言がゲーム内の彼らにとってのメタ存在である”観測者”に対してだと理解したからであり、我々に直接向けられているものではないのだと知るからである。
そのためこのゲーム最大の魅力であり最高の演出であったメタ存在(観測者)の表現と介入はこの作品の魅力を高めると同時に、プレイヤーにとってこのゲームに対する一種の魅力を減少させてしまっている、まさに諸刃の剣なのだ。
よって、この作品においてよりホラー味とメタさを追求するならば、最後に観測者がまさに4層目に居る我々に対して何かメッセージを残すべきであったと言えるのかもしれない…。
とはいっても本作品はフリーのノベルゲームとしては突出した傑作であることは間違いないであろうし、クリアすると正直そこらの映画よりも感動した。
有償クオリティの作品といっても過言ではなく、無料でやるのが申し訳なく思えたほど。素直に良くできたゲームだなと、ただただ感心してしまった。
ただ長編ノベル化すれば、もっと面白くなりそうだなとも思う。
だって、生命進化としての選択のチョイスがあまりに恣意的であって(それは観測者のせいでもあるだろうけれど)、ノイズというか多様性を全く不要とする文明の態度にも疑問があって(だったら疫病ですぐ全滅するよねって話)、けれど「そうした論理性だからこそ世界が滅びた」とすれば整合性もつくので長編化するのであれば使えるんじゃないかと思えたりも。
最後に一言、
このゲームは、名作です!!