book and bread mania

-中途半端なサウスポーによる日々読んだ本の記録 + 雑記 + パンについて-

11月に読んだ本からおすすめ10

11月に読み終えた本は30冊。

その中からおすすめを紹介!

 

 

第10位

『IFの世界』

IFの世界 (1978年)

IFの世界 (1978年)

 

 SF愛に溢れた内容!

内容としては「SFとは何ぞや?」とした、SF初心者に向けてその諸概念を解説する。要するに「SFとしてのあるあるネタ」を、解説と同時に紹介するもの。

なのでSF小説のガイド本としても優秀な一冊であり、そこらの『SF入門』を謡う本なんかよりよほど優れたSF入門書!

発売年である1978年、その当時におけるSFとしてのジャンルがどのような状況・立ち位置であったのかも伝わってくる。

また、SFの解説本なのでアンドロイドの語源や、宇宙人を指すのが「べム」といった略語などであることなど、SFトリビアの勉強にも。

あとは本書を読み、スペースオペラが西部劇からの造語と初めて知ったりなど。

「”IF”の世界を描いたSF作品について」の解説では、

”火星に降り立った第一人者が米ソではなく実は日本人だった!”

というフランス人作家によるSFが大変面白い。

その日本人が火星到着に一着なり得た理由がまた秀逸。

「日本人は特攻精神で、帰りのことを考慮せずに飛び出したから」

とするのが妙に納得できては滑稽で、しかもその作品では火星上で最後にその日本人は帰る足がないので切腹という、なんともステレオタイプの日本人。

ユーモラスな発想で実に面白い。

 

 

第9位

SFマガジン700【国内篇】 (創刊700号記念アンソロジー)』

 SFMに記載されたが単行本には未収録の作品を集めた一冊、とのこと。

収録作としては古今東西に思え、古いものもあれば、新しいものも。

古い作品などは今にして読むと多少古臭くも感じ、平井和正の「虎は暗闇より」などは当時のフロイトブームを思わせる内容。

もろ時代背景が感じ取れ、SFながら古臭いとはこれ如何に。

トップをはった手塚治虫「緑の果て」などは異星の植物が人の思弁を読み取り変性する話で、既視感あり。確かフレドリック・ブラウンの短編で同様の作品を読んだ記憶が…。

「上下左右」は文庫本収録は初!となる筒井康隆の実験作。マンションを舞台にした作品で、そこに住む人たちにおけるドタバタ劇。これだけならば何の変哲もない、普通の作品だが、その異端性はページ開けば一目でわかる。このアイデアは今にしても前提的であって、凄いなと思う。ただ内容の面白さに関しては二の次かな。

貴志祐介の作品もあったのが印象的で、その作品「夜の記憶」は短編ながら、なかなか濃い内容。

「幽かな効能、機能、効果、検出」神林長平はコメディ。会話のテンポも物語のテンポも良かったが、オチがさびしいような気も。もうひと捻りほしくて、物足りなかった。

素数の呼び声」野尻抱介は短編ながら小刻みよくまとまっており、コメディタッチで読みやすいながらも、後に残るものが希薄。読了感としての感想が、記憶に残らない…。まとまりすぎていて逆に微妙。

「海原の用心棒」秋山瑞人は本書で一番長い作品で、中篇に思えるほどの枚数。最初、面白いのかと懐疑的に読むが、最終的に思うは面白い。潜水艦が意思を持った独特の設定で、しかし既知感ある設定でもある。そこでこの作者が、以前のSFアンソロジーで読んだ、ミサイルに意思を持たせた作品の人と知って納得。本作もそうした無機物へ人間的意思を持たせ、そのあとに主観を鯨に渡して激戦の様子を語らせる。悪くなかった。これは唯一の感動策であって、ほかの作品に比べページの比重を多く受け取っていのだけれど、その期待に反していない作品だ!

桜坂洋の「さいたまチェーンソー少女」はラノベ的作品であり作品銘そのままの内容。しかし思いのほか面白かった。その爽快なテンポと分かり易い比喩は秀逸で、読んでいて飽きず。バトルシーンの描写も丁寧で、光景も浮かべ易かった。アニメ化しそうな雰囲気ある作品だった。

むしろ、園子音監督などが実写化しそうな作品とでもいえば適切かな?

最後は円城塔による作品「Four Seasons 3.25」。

内容としては、メタ+タイムリープもの。

故に、”メタイムリープ”とでも呼ぶのが的確で、新ジャンルとして確立してもよさそうな内容。

メタ観点からによるタイムリープを試みる作品で、行間というか、隙間産業に希望を見出し、そうした細かい点においてはさむ事によって過去を変える、といった試みは新規的であり面白い。そしてこんがらがるような内容もいつもどおり。だがそれが良い。

 

 

第8位

『スイッチ!』

スイッチ!

スイッチ!

 

日頃の生活を「より良いと思えるものに変化させるためには?」を綴った意識改善プログラム的内容の一冊。

平易な啓発本の類であって、しかし感情論の重要さをあえて訴えており、そこが重要なポイント。何故なら、たとえいくら科学的知見によって「こうするべきである!」とした明確なデータが示されようと、そうした促しは大きな見落としがあり、それこそ統計データの誤りや論理的誤謬でもなく、一番重要な事である

それを実行するのは人間

ということに他ならない!

つまり人間は無機質なる存在ではなく(有機物だからといって、「じゃあテフロンは?」としたことは置いておいて)、つまり「人間とは、感情論抜きでは個人の真理を持ち得ない」とした事を実際に訴え、それはまた事実として受け取るべきである(死刑制度反対論者に、実際にその意見を吟味させるには、賛成派と同じ状況にならなければ成しえないように)。

本書はそうしたことを様々なスタディケースと共に示し、像と像使いを例えに使用して巧みに人間の感情論についてとそのコントロールの仕方を解説。

目標の小分け化、フットインザドアテクニックなど、有名な事柄もいくつかあったが、勉強になった点も多い。しかし各々の成功例については端的過ぎるようにも感じ、成功したから語れるだけであって、同じ手法で失敗した大勢をおざなりにしている感も否めない。

それでも、感情と理性の違いについての解説はためになり、人間は機械でなく感情が実はとても重要、とした事はやはり有益であり、今だからこそ見直す価値のある知識であると思う。

 

 

第7位

バカボンのパパと読む「老子」』

老子って名前は聞いたことがあるけど、なんだか難しそう…」

そう思っていても大丈夫。

本書はまさにうってつけの一冊であり、かなり簡略な意訳してあるので読みやすく、老子の思想を平易に学ぶことができる!

するとまず思うのは、古典的な西洋哲学との類似であり、双方の描く賢人の姿というのは実によく似ているので驚くべきこと。しかしそれが実際、人間としての単純性を描き、要は「人類みな兄弟!」としての思想もまた感ずる限り。

どんなに、大人になあっても、ぼくらは、ミトコンドリアの子供さ~、

なんて歌あっておかしくないかな?と思えるような、仏教ともキリスト教ともまたある種において似た言葉の数々。

つまり人間という存在として、根源的に『善』と思う対象は同じかもしれない。

尤もそれは、昨今においても尚こうした言葉たちが生き、古臭さを感じさせないという点が何よりも雄弁に物語っているといえば言える。

なのでこの老子の思想もまた、

「賢人たるものは何か?」

を雄弁に語っているように思え、それは形而上学的な思想。

目に見えぬ“タオ”たる概念を持ち出し、それはそこにあってそこにない。見えないぞんざいであり存在する存在。それ自体が禅問答のような存在で、内側にこそ生じ、認識できる重要なものであるとは思わせた。

そして老子の思想としては、その時代背景の影響を受け入れているのが特徴的。

ただ「民を知恵つけさせると政治はうまくいかない」などといった愚民政策を持ち出すなど、功利主義に反する事を言ったりしているのは意外。

それでもおおよそは説法のようなありがたいお言葉の数々であり、「いいこと言っていんな」と思える発言は多い。

なかでも「過度な技術の発展は、人々の心に戸惑いをもたらす」といった言葉は昨今においても、いやむしろ昨今にこそ当てはめることであり、先見の明もさることながら人間の普遍性を見抜いたことこそ一番の明といえるだろうと思える。

「ものを溜め込んでも、あることに満足せねば決して満足は得られない」とする金言はどこか聞いたことのある気もするが至極もっともであり、省みる必要性に駆られる人は多いだろう。

ものを溜め込んでも、盗まれるリスク、または喪失感を広げる機会を増やすだけ。そうした言葉は真理であって、鋭利となって胸に突き刺さりそうになったほど。

 

また謙虚さの重要性も語り、なぜそれが重要なのか?の説明はまさに目から鱗。それは二項対立的な概念で、つまり「高みに行けば下に行く可能性、または他者から下に引っ張られる。ゆえに賢人は、自分から下に行く。さすれば下げられる心配はないからだ」とするのは納得。自ら引くことで、最悪を免れ、平穏を守る。

それこそ平穏たる者の真意であって真理。何よりこの頃の人物ながら、“二項対立”の概念を理解していたのだから素直にすごいと思う。

含蓄深い言葉の数々で、しかし原文では一見して難解。というか、そのままでは読めすらできないほどで、するとこのバカボンによる超訳は実にわかりやすくて秀逸。それでいながらしっかりその思想の意は伝わるので、まさに訳者の功績。

 

ただ、「真実を語るはぶっきらぼうな言葉になり、美しい言葉での教授こそ嘘の供述になる」なんてことをいっていたが。ならば老子の一部も「虚無か?」と思えるブーメラン性。まるでウィトゲンシュタインのかの有名な発言のようだ。

しかしそうした齟齬もまた面白い。

「無敵とは、強さで相手を打ち負かすことではなく、周りに敵が居ないこと」との言葉にはハッとした。

 

 

第6位

残像に口紅を

残像に口紅を (中公文庫)

残像に口紅を (中公文庫)

 

『残像に口紅を』に思う”0”の概念 - book and bread mania

記事にもした一冊。

「 言葉って何で存在するの?」

こうした重要な疑問を抱いたのならば、一読する価値はあるかと。

 

 

第5位

死に至る病

死に至る病 (岩波文庫)

死に至る病 (岩波文庫)

 

 本書を読めば、こういったことがよくわかる。

それは、

「自殺すら絶望における行為ではなく、むしろ絶望の本質とは自殺さえも超越するものである」

といったことだ。

端的に言い表せば、このようなことを述べている本。

厭世染みた警句に溢れ、そして批判的ながらも敬虔なキリスト教徒であることが容易に読み取れる内容。

印象的だったのは

「罪は連続性のものである」として、

「罪を負っていると自覚しながらいることもまた、大きな罪のひとつである」

としてその連続性を唱えたこと。

それと、「善と知りつつそれを行動として起こさぬは、無知である。ゆえに、すべてを理解した!と声高々に叫ぶものこそもまた無知なのである」とするのにも納得。

ただ、著者は幾分も潔癖の癖が見て取れ、それも厳粛な。

あと、本人は幾度か「ドグマ」という言葉を、物事を示す上で平易なものとして使用しているが、全体的な思想体系としての、己の「ドグマ」には気がついていない様子。

なので、自身の思想もまた、色濃く「ドグマ」に染まってしまっていることに気付いていないよう思えた。要するに完璧主義者であり、頑固者にも感じられる。

しかしそこの部分を否定さえすればすべてが瓦解してしまう内容ではあり、それは異教徒に向ける偏見の眼差しからも然り。一目瞭然である。

人生を空費する人間とは「自己自身を精神ないし自己として意識せず過ごす人」とするのが印象的で、そこでは自己と肉体、結び付けるの関係としての第三者である自己自身、それら関係性によるものと思え、それは同時に魂を自己とせず、関係性に自己を見出し、その関係関係こそ、自己自身とするのは古来の哲学的であり、なので理解しやすかった。

 

本書は中盤にかけては難解さを感じさせながらも、意外と例えがうまいので、その適切かつ思い浮かべやすい例によって理解を捗らせてくれた。おおおよの人は、内面に向かわず、たとえ向かったとしても、すぐさま道をそれては快楽のほうへと移行してしまう。才あるものは凶器と紙一重。といったことも語っており、それは昨今においてもまったく変わらず、先見の明があるというよりは人に変化がないというほうが適切。だからこそ、古典である本書の主張さえも今において説得力を持ちえるのであり、そういった意味ではそれをひとえに批判もできぬこと。しかしそれらの言葉は印象的。また、絶望に苛まれた時における空想についても物語っており、これは一種の代行といえそうであり、誰もが妄想したことで実感なることに思える。そしてこれは今で言う昇華であり、フロイトの提唱をどう思うのか?今にいれば聞いてみたいものである。

本書を読めば、真の絶望こそ、自殺さえを超越した絶望と知り、このタイトルが単純に「絶望が自殺を促す」といったことでないことに気づく。

それは注目に値することではあるが、それこそ単純すぎて拍子抜け。

絶望とは常に付きまとい誰しもが持ちえるものであり、それを拡散させ自由になるためには、神といった存在が必要不可欠であり、敬虔となることでようやくその糸口が照らさせる。そうした結論はやはりキリスト教的。

そして、絶望の身近さを示した点においては、当時において画期的であったのでは?と思わせた。あとはやはり”自己”と”自己自身”における関係性の考察が面白く、読み応えあり。しかしこの部分ゆえ、読み難さがあったのも事実。ただ誤解されやすいようにも感じた。そして、キルケゴールは「弁証法」という言葉を多様、むしろ乱用しており、その言葉の定義における現代との齟齬感も否めない。

それは単に「弁証法」という言葉の多義性であり、このため難読させる機会を作っている様にさえ思えた。

ゆえに、「“弁証法”とは喩えに似ている。それは何にだって応用できるのだから」という、カフカの掌編をもじった言葉さえ思い浮かんだほど。

それでも絶望の解説書としては刺激的で、なかなか面白い一冊だった。

 

 

第4位

量子コンピュータとは何か』

量子コンピュータとは何か (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)

量子コンピュータとは何か (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)

 

 内容としては、量子コンピュータについて、その概要と仕組みを平易に解説。

もっと砕けて表現すれば、

はえ~、量子コンピュータってすご」

ってなる本。

なるほど確かに解説は一般向けだけあって分かりやすい。と同時に、難解に思える部分とのコントラストが激しい、とも感じた。

しかし基本的な概念、その仕組みについては理解しやすくかかれ、スピンの性質を利用し、どのようにしてそのミクロ的状況、いわゆる量子状態としての場を作り、それを応用するのか?また、応用してどのような技術に発展するのか?

それはある種SF的であって、可能性の広さはロマンへの情熱!

 

読んでいて胸が熱くなり、楽しくなってくる内容。

それこそ、こうして平易にそして楽しく読めたのは、サイエンスライターとしての腕のよさであり、また翻訳の妙さによる賜物。少なくとも、本書を読むことによって、量子コンピュータそれ自体の存在がより親身に感じられるようになったのは間違いない。

本書は、量子コンピュータにおけるアーキテクスチャを解説するものであり、それを実用化、一般化するに至れば夢があり、また各所の概念は量子テレポートとも少なからず関連が見られ、大変に興味深い。

しかしデコヒーレントとしての非観測性、そうした問題をどうするのか?面白い設問ではあると思った。あとは最初の、コンピュータにおける仕組み自体の解説も丁寧であって、おかげで“コンピュータ”というものに対しての構造理解にも役立つ内容。

するとコンピュータの構造も結局は、実にシンプルなもので成り立ちそれの積み重ね。ただそれだけに過ぎず。よって、著者が幼少時に手にしたいという、似非パソコンのエピソードが印象的。同時にそれは、アナログでも同様の仕組みを作ることが出来るのを示し、実際の例などは読み入ってしまった。

あとはホーキング博士が言ったという、「はじめてシュレディンガーの猫の話を聞いたとき、私は銃に手を伸ばした」というのがユーモア効いており思わず笑った。

あと、著者の名前が何気にジョジョと略せる事に気づいてハッとした。

 

 

第3位

『時の娘 ロマンティック時間SF傑作選』

時の娘 ロマンティック時間SF傑作選 (創元SF文庫)

時の娘 ロマンティック時間SF傑作選 (創元SF文庫)

 

 時間系SFのオムニバス。

すげえ面白い!

ここまで面白い短編集を読んだのは久しぶり!と終えるほどには、どれもが一級品でありオチまでにもひねりがあって、思わずニヤリとさせられる技巧の数々!

こんな楽しめる作品は久しぶりであって、特に表題作『時の娘』はおすすめ。

そのややこしい自体を描ききったアイデアと手法と力量のすごさ。

ほかには、特にロバート・ヤングの『時が新しかったころには』は、とても面白くて思わず唸ってしまったほど!一読後の爽快感は希有であり、常夏の窓辺における風鈴を鳴らす横風のごとく、さわやかで後味のよい風情をもたらした。

本書内では中篇ほどのボリュームがあり一番にページを割いていたが、途中でだれることなく気づけば最後まで。ここまで素直に「面白!」と思う短編は久しぶり。

そもそも最初の『チャリティのことづて』からして完成度たかく、これは「きみの名は」を思わせる内容。結構似ており、トラブルをきり抜ける爽快感もあり面白かった。

『むかしをいまに』はディックの逆転の世界やベンジャミンバトンを思わせる短編。ゆえに既知感あって違和なく読めたが、当時としてかなり前提的だったのでは?と思わせる。

『盗まれた町』で有名なジャック・ニフティによる『台詞(せりふ)指導』も文句なしに面白く、これも結構好きな作品。ちゃんと時間SFしていて、ロマンスもうまい具合に絡まり、もどかしさが淡く切なくすっぱいながらもエンディングにはしっかりと希望を実らせ収穫具合を読者にゆだねる終わり方、嫌いじゃない。とても小奇麗な作品といった印象。

『かえりみれば』もすごく好き、振り返れば好きな作品ばかり。過去にタイムリープし、学生当時では知りえないはずのことを発表してしまっててんやわんや、とする展開は王道ながらも、これには科学的知見がしっかりと組み込まれておりリアリティが合って好み。読み返してもいいなと思える青春懐古の短編であって、教訓じみている面もまた良し。こうした、「読んだ後と前では、自分が異なるような、教訓ある作品」というのは好きだ。

『時のいたみ』はとても世にも奇妙、もしくは習慣ストーリーランドっぽい作品。体を鍛えていたのはなぜ?が終盤になってわかり、しかし結末は切なくほろ苦い。大人のタイムトラベルSFと解説が評していたのにも納得。

『出会いのとき巡りきて』も結構好き。壮大な感じと、主人公の設定、その相方の博士との絶妙なSF的なトークがつぼで、そこだけでも読み応えあった。展開としては王道かつずいぶんとドラマチック。王道すぎる謂れもあるが、それでも安定して面白し。

全体的にどれも面白く、時間を忘れて読み込んでしまう作品ばかり。

中には本書が初翻訳の作品もあって、読み応えもお得感も十分。

思いのほかつぼにはまる作品ばかりで、良い一冊だった。

しかしやはり一番よかったと思えたのは『時が新しかったころには』。

終わり方が実にきれいで秀逸。そこでの伏線回収は見事で、思わず頬が緩んだ。

人に自信を持って薦められる傑作であり、見事な作品だった。

 

 

第2位

『マインズ・アイ―コンピュータ時代の「心」と「私」〈下〉』

マインズ・アイ―コンピュータ時代の「心」と「私」〈下〉

マインズ・アイ―コンピュータ時代の「心」と「私」〈下〉

 

少々古いながらも、話題の一冊。 

編集の一人には、『ゲーデルエッシャー、バッハ―あるいは不思議の環』で有名なホフスタッター。

内容としては認知科学的であり、そうした諸概念をAIにおける知能においてそれは実現可能か?とする内容もあり、そこでまた

「では“人間の思考”とは?」

とした考察がさまざまな視点からとり行われており、実に興味深く深い深い思弁的な内容。古今東西から変わらず誰もが持ちえる疑問であろうところの、「自己とは何だ?」について語り合うような内容であり、いやあ実に面白かった!

この下巻のほうはワムの作品が二つの記載されているのも特徴的で『第七番目の旅』などはまさに発想がシムシティ!それにプラスしてのび太の日本誕生を思わせるような作品で、一読して哲学的示唆の深さを伺えて功利主義とはいったい?ともなる作品。

ほかに『コウモリであるとはいかなることか?』などは、人間として持ちえる感覚としての話を展開し、主観、客観性としたその定義の再構築を打ち出すような内容。

するとそこでは、得ていない器官における刺激によって生ずる感覚というのは再現不可、とする。けれどそれなどは自明に思え、また、そこで最後に一種の誤謬を感じたのは、そうして無理と思う主観に対する、主観性であり、するとまた堂々巡りにはなりそうでありながらも、知的な興奮を呼び起こすには良い内容。。

上巻に引き続き、ホフスタッターの投稿はまた対談形式の小説であり、『アインシュタインの脳との会話』といったなんとも魅力的なタイトル。

内容としては、つまりこれは実際還元主義的な内容であり、唯物論推し進めるような主張。つまり、脳としての構造、データを完全に読み取り記録し、それをほかの媒体に移したところで、記録されたニューロンの情報が正確で微細までも一切記録されていれば、それは生前のような、従来の働きを越すことは可能であって、つまり死に絶えた人物であろうと指紋的な、いわゆる“脳紋”があれば、会話すら可能であるとするSF作。

作品内では、それは本が人物としての役割を引き継ぎ、本によってニューロンの位置などつぶさに記録されたアインシュタインの脳は、言葉をしゃべることができるのか?を思弁的に語り合う。するとその中では、レコードを持ち出し、それをレコーダーにかけるのではなく、直接それを触れて感じることで、その音を感覚として得られる、とした新しい観点が示され、認識としての概念が広がった気も。

『ある不幸な二元論者の話』。この掌編小説ほどの短い小説は、一言でいって面白い。

それはカレーが旨い、というほどには自明なこと。これは「魂とは何だ?」とした内容であって、そして皮肉的。滑稽な落ちはコメディー的であって笑えては「コントにも使えそうな作品では?」とさえ思えるだった。

C・チャーニアク『宇宙の謎とその解決』もまた面白いSF作品。短いながらも映画を見ているような重厚感ある作品。

あとR・スマリヤン『神は道教徒か』も面白かった!これは秀逸な一流SFといった印象で、また同時に『縦列都市』っぽさも思わせた。数字だけによる架空空間を作り出し、そこに生命を誕生させて進化させてその経過を見守る。その中において、進化し言語としての概念を持った生命体同士が繰り広げる会話は刺激的であり、同時にそれは宗教的でもあった。彼らとて、神としての創造主の存在を信じ、この場合その創造主はプログラマーなのだが彼らはそれを知らない。するとこれは実際、現実にも照らし合わせられる話であり、簡易的で寓話的なながらもたいへん面白く思えた。

そのほかどの作品もラディカルであり、深い哲学的示唆を示す内容ばかり。

最後の解説であったように、本書はまさに「知のスペクタル!」とした表現に沿わぬことのない、刺激的な一冊だった!

 

 

第1位

『マインズ・アイ―コンピュータ時代の「心」と「私」〈上〉』

マインズ・アイ―コンピュータ時代の「心」と「私」〈上〉

マインズ・アイ―コンピュータ時代の「心」と「私」〈上〉

 

少々古いながらも話題の書。ほかのAI関係の本を読んでいても本書の名前が出てくるのを見かけたことがあり、一部では有名な本。

そうして本書の内容としては、脳や私などの自我についてをAIといった概念や分子構造または還元主義者的にも考察する。

SF小説も交えて数編から紡がれた内容で、中でも注目はホフスタッターだろうか。

2篇ほど載せており、どちらも対話式。なので比較的わかりやすい。しかしチューリングテストでは、そのたとえというか、本来の形式を強固に言い過ぎたせいで回りくどく、逆にわかりにくく感じさせた。けれどそこで語られたのは象られたものについて、いわゆる自我に対しての視察はなかなか面白い。

あとはやはりアラン・チューリングによるものが注目で、そこでは本人によってチューリングテストについて語られ、興味深くそして内容は深くて面白い。意外だったのは、その解説にもあったようにチューリング本人が晩年にはオカルトとした概念に傾倒しつつあり、そうした存在を信じていたこと、という事実。あとは予想される反論に対しての反駁はさすがと思わせる内容。

一読したした際に「特に面白いな」と感じたのが“第4部 心はプログラム”の章での、

D・デネット『私はどこにいるのか?』

と、 
D・サンフォード『私はどこにいたのか?』

の二作品 

そこでは脳が体を離れた際に、それはどういった状況を促すか?といった哲学的・思弁的な内容の作品。

脳があるのを1として、身体を2、そしてこうした状況を意識する存在は3、として、三分割して意識としてのものを捕らえて考察する。

これは「魂、とはなにか?」を語る短いながら実に深く、そして壮大な作品なので、ぜひとも読んでみてほしい!

 

T・ミーダナーによる「動物マーサの魂」も大変すばらしい作品!

純粋にSF作品として面白いのはもちろん、人間の倫理観についてを問われる重要な作品。

正直、どの章のどれもが読み応えって、自己といったものに対する疑問を想起させたくなっては、ぞくぞくするような思弁的興奮を与えてくれる良書だった!

 本書はもはや、一人の人間の意識を変革させるほどの魅力を持った一冊であり、

上下巻とも甲乙つけがたい内容であり、どちらも合わせて大変おすすめ!