book and bread mania

-中途半端なサウスポーによる日々読んだ本の記録 + 雑記 + パンについて-

12月に読んだ本からおすすめ10

12月に読み終えた本は33冊。

その中からおすすめを紹介!

 

 

第10位

『奇譚カーニバル』

奇譚カーニバル (集英社文庫)

奇譚カーニバル (集英社文庫)

 

 夢枕獏編集によるアンソロジー。

内容としては怪奇短編を集めたもので、漫画などもあって実に多彩。

なかでもタモリによる作品もあるのが特徴的。

しかしそれはまた意外な形で型破り。その作品としては、最後の解説を読むことでより楽しめたりもした。

そんな想定外もさることながら、あとの短編はSF(すこしふしぎ)的なホラー話が多く、小泉八雲「茶碗の中」、夏目漱石夢十夜」、小川未明「大きなかに」などが、「なんかよくわからんけど、こわい」といった理不尽系作品で、読了後の印象として不可思議な感覚に見舞われる。なんか不気味…としたもので、これは読むときの環境やその状況が作品への評価に大きな影響を与えるであろう作品でまさに揺らぐ感情を抱かせつつ同時に揺らいだ感情がその評価を与えるヤジロベエ作品の群れ。

内田百の「件(くだん)」は一転してコメディ。これは読みやすく、素直に面白い秀逸な短編で、件からの視点を描くドタバタ劇。

幸田露伴「観画談」は独特で、異彩を放つ作品。まさに「これが純文学!」といわんばかりの文体文章、構造はすごいものの、物語自体は「?」となる。

横田順彌「昇り龍、参上」はSF+任侠やくざ。読んでいて普通に面白いな、と思っていたが、読んだ後に夢枕獏の解説を見て「あ、そういった読み方もあるのか」と意表を突かれる様な作品。山田正紀「雪のなかのふたり」もまたコメディ系。それでいながら時代を反映したような、心理的内容。これもまた素直に面白く、妙なリアリティもよくまたその哀愁も。意外と倫理的、というよりは哲学的であって思いのほか楽しめた。

夢枕獏本人による作品も収録されており、それが「柔らかい家」。

これは純粋なホラー作品で、実に不気味でおどろおどろしい内容。読みやすいのも特徴で、そのホラー感が伝わりやすいのも良い点。これはサウンドのベルのシナリオなどにすればより栄えそうで、文章のみでなくその他メディアにしても良さそうに思えた作品。かんべむさし「俺たちの円盤」は情緒的作品。「80年代に大学生だったというのは、こういう青春では?」として容易に想起させる作品。これはSF的な“すこしふしぎ”作品で、当時の情景がわかる作品としても面白い。あとこの作品では「キョン」といった人物が出てきており、「もしやハルヒの元ネタってここから?」と思ったりもした。そう仮定すると、この作品においての内容もハルヒに沿うようであり、「これに影響受けた?」とつい思う。そうであれば面白く、またその可能性は意外と高いように思える。

 

 

第9位

ニール・サイモン〈1〉おかしな二人』

ニール・サイモン〈1〉おかしな二人 (ハヤカワ演劇文庫)

ニール・サイモン〈1〉おかしな二人 (ハヤカワ演劇文庫)

 

 「ハヤカワ演劇文庫」なるあまり馴染みのないジャンルの一冊だったけれど、

読むとこれがまあ面白い!

内容としては演劇の台本風らしく、登場人物の台詞が主になっている。

話としては、ユーモア作品というだけあってその面白さに偽りなし。

風変わりで滑稽、それで居てどこにでもいそうな人物たちが織り成す中年群像劇!

日本でいうところの落語話のような面白さがあって、その世界観にもすんなりと入り込め一読だけでも十二分に楽しめた。また、海外ジョーク的な独特の台詞もまた印象的であって、気づくと最後まで一気に読んでしまっている。

そんな印象の作品。

この公演はすぐにチケット売り切れとなったというのにも納得!

 

 

 

第8位

『夢がたり―シュニッツラー作品集』

夢がたり―シュニッツラー作品集 (ハヤカワ文庫NV)

夢がたり―シュニッツラー作品集 (ハヤカワ文庫NV)

 

 全五編が収められた、幻想的な作品集。

まず表題の『夢がたり』から始まり、これは中篇ほどの長さ。内容としては、一読して「シュルレアリスム的な作品だなあ」と思わせ、それほどには幻想的であり、まるで夢の中の出来事を作品として描いたような、まどろみ感を得た。

ただそうして幻覚的であり歪ながらも、そこには冒険心をあおる妖艶な魅力さを感じたのもまた事実。なかなか面白く、これを映画原作に採用するといった意図も汲み取れる。

次には、同様に中篇ほどの長さがある『フロイライン・エルザ』。

最初には「助長ではないのか?」とさえ疑問視したが、一読するとその疑問を払拭。なかなかすごい作品だった!というか、これほどまでに一人称における作品で巧みな個人としての心理描写と認識描写をしている作品というのは稀有で、その個人としての感覚の描き方がダイナミックであり臨場感を与え、まさにFPSのゲームのやっているがごとくの臨場感!終盤には、幽体離脱的状態の描写も行っており、その的確さと思わせる、その普遍的に“思わせる”表現がまさにすごい。残りの三篇は短編で、まあまあの内容。

 

 

第7位

『ニセ札つかいの手記 - 武田泰淳異色短篇集』

ニセ札つかいの手記 - 武田泰淳異色短篇集 (中公文庫)
 

 短編集。内容としては、確かに独特。

しかしそうした異色小説としてよくある“読み難い文体”といったものがないのが特徴的。なので読みやすく、作品として親しみやすかった。まずはじめの「めがね」では、視力の悪さを主軸に取り上げた作品。次の「『ゴジラ』の来る夜」は一言でいって独特。そう評すべき作品であって、なかなか味わい深かった。といっても実際にはドタバタ劇のコメディ風に思わせておきながらも実際にはサスペンス要素も練りこみ、ゴジラなどはおまけ程度。「空間の犯罪」は風景描写がよくそして分かり易い。読みやすくもあって、悪くなかった。そのあとが「女の部屋」で、多少なりとも時代を感じる作品。昭和風情の雰囲気が色濃く漂い、オールウェイズ的な下町情緒を思わせた。同時に、多少徒然的でもあって、一人称の小説でもあるので随筆感も。どれも「とても面白い!」と一概に叫ぶような作品ではなく、地味な作品であり妙なリアリティがあってフィクションにはない私小説のような身近な雰囲気があり、おでん屋台を見るような、かみ締め味が出るような作品ばかり。「白昼の通り魔」もまたノンフィクションらしさを思わせる作品で、なかなかエグさもありながらも人間描写が見事であって、大島渚監督がこの作品を読み感銘を受けた、とするのも多少納得。なかなか熱量のある作品だった。

表題作の「ニセ札つかいの手記」。

この作品は読む前の想像と違って、より人情的であり心情的だった。読む前は、想像として「ニセ札をテーマにすることで、お札の本質に迫る作品か?では、お札としての存在ついて触れ、記号学的な内容なのでは!?」と思っていたが、実際にはニセ札を渡す男と渡されて使う男同士での、妙な友情とそれに伴う信頼感を描いた作品で、そこではむしろニセ札はただの媒介物に過ぎず、ニセ札を通して描く群像劇がメイン。なるほどたしかにそうした微妙なニュアンス、お金としての存在として触れたのだとすれば、それはあくまでお金と信頼についての意味であり、そしてお金という存在に対する虚無。するとまあ多少なりも期待したものについても触れていたとはいえ、そして単純になかなか面白く、最後のオチモ嫌いじゃない。

あと、もう一言だけ本書について述べるのであれば、表紙の猫が可愛い!

 

 

第6位

『世界で一番美しい名画の解剖図鑑』

世界で一番美しい名画の解剖図鑑

世界で一番美しい名画の解剖図鑑

 

通常、こうした一冊は「読む」のではなく、「見る」物の本として思われがちだが、本書はしっかりと読ませてくる。

それほどには解説が充実しており、あまり絵画に対する教養を持参していないにも関わらず、丁寧な開設によって紹介される名画の特徴を平易に理解することが出来る。

まどろみながら読むにも最適で、ところどころ印象的な絵がちらほら。

個人的には、「アテネの学堂」や「快楽の園」が印象的。

アテネの学堂では著名な有名人が勢ぞろいで「ユークリッドが居る!!」と興奮し、「快楽の園」では、ベルセルクの蝕みのような、独自の世界に引き込まれた。

これは老若男女にお勧めできる一冊。

 

 

第5位

『人類哲学序説』

人類哲学序説 (岩波新書)

人類哲学序説 (岩波新書)

 

 新書による一冊。内容としては、哲学史とも呼べる内容。しかし特徴的なのは、単なる哲学史における概略ではなく、一人の日本人がそうした哲学の流れとその本質について述べる点。ゆえに本書は客観的に成り得ないが、それが良い点だと言える。内容としては批判を恐れず独自の見解を披露し、ハイデガーの哲学についての解説は意外なほどわかり易く、『森の小道』なる晩年に出した論のことなどははじめて知った。同時にその内容もよりよくわかり、この一冊においてハイデガーの哲学についての概要や、哲学の起源については、おおよそ学ぶことのできる便利な一冊。

 

 

 第4位

モリー先生との火曜日』

モリー先生との火曜日

モリー先生との火曜日

 

 難病ALS(筋萎縮性側索硬化症)で余命わずかとなったモリー先生のもとへ作者が出向いて、「死とはどういうことか?」等といったことをはじめ人生について教わる内容。

「死に向き合うことで、ようやく生きることができる」などといった言葉はどこかで耳にしたことがあるような気もしていて、それはこの本が元?と思えたり。

「愛は唯一、理性的な行為である」

この言葉は引用で、モリー先生がこの言葉を真理として用いていたのが印象的。

本書では語られるは形而上学的なことが主であり、モリー先生はどんどん体が衰弱していく。だからこそ見える景色に浮かぶ意識に関する、叡智を伝授する。

するとそこで語られるは、「生きるとは?」といったことであり、誰もが考えるであろうが、それはあくまで他人事としてのことが多く、なぜなら「生きる」は二項対立的にも「死ぬ」事を考えることに他ならないからだ。

文字数は決して多くないのでさっと一読のできる内容であったが、語られる内容としてなかなか深い。金や物などは重要でない。そうしたことを心から謳えるのは、まさに死を前にして自分自身と向き合った結果。欲望にまみれる利己の生活を戒める警句としての発言が数多であって「とても感動した!」とまではならなかったが、人生の警句としてなかなかよい内容。

こうした本は青っぽく捕らえがちで、「なんだよそんなの、当たり前じゃん」としての感想を抱きそうになろうが、こうした精神的な崇高さについて熟考する機会というのは、意外と子供のほうが多いような気がする。

それは何も「子供が多感であるから」といったことに限らず、大人にはほかにも考える雑多なことが多すぎる。けれどそうした思念について立ち止まり振り返るとそこには、果たして重要な事柄がどれほどあるか?疑問である。

本書においてもリー先生の言葉というのは、まさに羽衣のような優美さとやさしさを兼ね備え、大人に対する絵本と評して齟齬はない。

大人だからといって、精一杯に生きるのを否定する義理はない。

そんなことを思い出せてくれて、惰性に生きる状況から出させてくれるような一冊。

大人になって尚、閉塞感を感じるようならば、読んでみても悪くないのでは。

 

 

第3位

『パスタでたどるイタリア史』

パスタでたどるイタリア史 (岩波ジュニア新書)

パスタでたどるイタリア史 (岩波ジュニア新書)

 

新書の一冊。

内容としては”簡易なイタリア史”としても成り立つ内容で、

食を通じてイタリアの歴史を解説。

そして表題どおり食のうちでもパスタを通じて歴史を語る。

意外だったのは、じゃがいもを当初は人間の食物として扱わず、家畜のえさのみしていたという事実。しかしその後の飢饉では食べるようになり、そしてその後からはパスタにも使用したりと重要なものになったのだから「歴史や状況や環境に文化は依存する」というのはやはり正しく思える。

また、パスタとしてその食品ができた当初には「湯で時間が30分から1時間以上!」と、とても長かったと知り多少なりとも驚いた。

当時においては、どろどろとした状態をよしとしたらしい。

他には、スペインによって征服されたことにより様々な食品が手に入り、唐辛子などは特に重要な食材。それによってアーリエ・オーリエなどが生まれたのだから!

1900年代になっても貧民は食事の内容が乏しく栄養に欠いていた。そんな状況を改善したのがファシズム政権であり、ムッソーリによる戦争。召集されたものを兵士として育成するために栄養豊かな食事を提供するようになり、そこでようやく貧しい若者も栄養が豊富に取れた。そして、そこから一般にも食事が多少豊かになっていったという。すると最初の食材伝来におけるスペイン侵略、戦争による栄養のある食事と、こうしたマイナス面な出来事が食の豊かさにつながっていたという事実はいろいろな意味で複雑な心境になる。

読んでいて「面白いな」と思ったのは、パスタはスパゲティなどの総称だが、昔はその総称名が「マッケローニ」であったことであり、そしてフランスのおしゃれお菓子「マカロン」の語源がこの「甘いマッケローニ」と知ったこと。それと、パスタもまた各地方によっておなじ形状であっても呼び名が違うということであり、これは特に大変面白い。

あとは皇帝の役割の大きさや、貴族と平民としての格差による生活水準の違いについて、そうして封建社会における生活苦など綴られていたのも印象的。

そして昨今のようにパスタが主食として一般の隅々にまでパスタが浸透したのは意外と最近、20世紀に入ってからと知りこれまた驚かされる。だからこそ中期におけるパスタへの渇望は興味深く、寓話にまでなっているのだからがめついと同時に興味深くもあり、単純にその寓話が面白かったりもした。

当時においてはパスタはファストフードとして屋台のような出店で売られていたという事実もまた初めて知り、そこでは手でつまんで食べていたというのでまたまた驚く。つまりパスタは、江戸日本における鮨のようなファストフード性があったというのは意外であり同時に、だからこそ昨今の鮨のようにパスタも市民にとって馴染み深いものになっているのかと思うと類似点を大いに感じ感慨深くさえある。

とにかく、パスタからのみでもイタリアの歴史について大いに学べ、するとやはり食と文化と歴史は切っても切り離せぬ関係でありその関係性が浮き彫りとなっては、浮かんでくるものは灰汁と同時に悪でもあって、戦争批判どころか戦争によって食の豊かさの恩恵もあったりして、まとめとして最後に一言。

パスタってすごい。

 

 

第2位

『自分を知るための哲学入門』

自分を知るための哲学入門 (ちくま学芸文庫)

自分を知るための哲学入門 (ちくま学芸文庫)

 

 入門書、と銘打ちながらも、実際には門を潜れば崖下に落とされるような内容。

それほどには深遠で、深い内容。

著者がどうして哲学に興味を持ち学び始めたのか?そして、哲学とはいったい何のために存在しているのか?を自らの経験則を踏まえて解説しており、そのひとつの形としての答えには説得力を感じ、その部分だけでも多少は読み応えあり。

登場するのはフッサールによる現象学などであり、これを読むことによって

「じゃあ現象学っていったい何なのさ?」

ということが理解しやすい。

つまり現象学とは、主観と客観における両立性の矛盾を紐解き、

「客観は主観に包括されている以上、絶対的な客観は存在し得ない」

とする。

なんだ、そんなことは自明でないか、と思いながらも、読み進めれば、この現象学の示す真意が見えてきた。つまり客観とは「妥当」なる共通認識を指すのであり、客観とは相互作用すなわち人間同士によって紡がれる概念であるということ。これは脱唯我論としての構造を持っているのであって、つまり各々が持ち得るであろう幻想などについて、その正体に対する解剖。幻想としての概念それが唯我論としての一旦であり重要なもの。それは現実世界とは相反する思想であり、ゆえに、それをロバ乗りの荷物に例えた話はわかりやすかった。理想ばかりを求めていてもそれは現実にとって役に立つ道具ではなく、むしろ重石となって足かせの役割を担う。だからこそ人は大人になるにつれ、そうして幻想や理想を手放し、現実といった道を合理的に生きようとする。これがまさに唯我論を脱する人間の動機であり、「妥当」としての客観性をより得て強固になろうとする姿勢に他ならない。すると、そうした幻想を持つのは果たして必要のないことか?として、「ただ人間として生きるのみでは、人間ではない」とした言葉に表されるようなことになる。ここでようやく哲学自体の本質が見直され、要するにその存在は、自身を深く知ることによってその内面に蓄えられた様々な思念が、外へと出した際どのように「妥当」されるべきか見極めるための技術であり、同時に、言葉で言い包めて表現するならば「「妥当」されるべき事柄に対する妥当性の究明」とでもいえようか。個々人においての真理が独我論として客観とは成り立たない以上、現実とうまく適合する自己を構築するためのプロセスだとも言えそうだ。

小説を読むこと、アニメを見ること、映画を、ドラマを、こうした娯楽物とされるものに対しての救済性、蔓延り根付いているとされるような「虚無性」、それに対する開放であることに他ならない!こうした諸概念を生み出すこともまた哲学の役割でありその存在意義の重要なひとつ。プラグマティズム的とも呼べるかもしれないが、とにかく価値観の転換といえるだろうと思う。そしてスピノザがどのような哲学を提唱していたか?も分かり易く、一元論としての説を唱えていたとの解説は丁寧。しかしそれではギリシア哲学においての矛盾を解決(つまり体と心といった二元論的観点から生ずる誤解など)したものの、するとそれは運命論者から批判される結果となり、一元論としての問題も学ぶことができた。

また、ハイデガーについての解説もあり、そうした解説を読むと哲学者によっても解釈は千差万別とわかって面白い。あとは「ハイデガーって、了解って言葉好きだなあ」等とも思えたり。

「娯楽により得た思想が現実との拮抗において、どのようにすれば屈せずに済むか?」

それこそが本書においても重要なテーマであり、その答えを担ったのがフッサールにおける「方法的独我論」。これはデカルトにおける「方法的懐疑」に似た概念であり、要は「徹底的に独我論になる」ことにより、問題点を発見し論駁するといったもの。これにより、絶対的な“唯我論”は存在しないとわかり(現象学的手法でもあり、つまり、「あなたが見ているものAと私が見ているものAは絶対的に同じとはいえない」ということである)、それによってすなわち、独我論としての概念自体も絶対的には存在し得ない、ということだ。するとここから導かれる帰結はすなわち、

「どのような思想においても絶対真は存在し得ないのであり、一般に示される常識としての意識(アニメや漫画、ゲームなどで得られる思想に対しての「絵空事だ!」とする意見など)は真ではなく、それを真と思う結われもない」

ということである。これを掘り下げば、ドグマやミームなどの思想についてもたどり着くだろうが、とりあえずはこのフッサールによる方法的独我論によっても証明できるように思え、フッサールの残した偉業についてようやく理解した心地に。

読み応えあり、読了後の読み応えも良かったので、お勧めの一冊。

 

 

 

第1位

『技術者の意地―読むだけでわかる品質工学』

技術者の意地―読むだけでわかる品質工学

技術者の意地―読むだけでわかる品質工学

 

 “品質工学“としてのタグチメゾットを学べる一冊で、大変有意義。

内容として、「品質について」を詳しく述べたもので、品質改善についてのノウハウが小説形式でつづられ、物語調なのでわかりやすい。

登場人物と共に品質工学を学べる、という展開であり、これを読むことによっていわば一種の”メタ知識“を得られる一冊。

すると品質を高く保つための秘訣、と言うよりはより実践的な方法、まさにメゾットを学ぶことができ、それはSN値についてであったり、また損失関数によって導き出されるものであって、その初歩的な内容ながらも理解は容易く、品質改善の方法としての読解は捗った。

また、印象的だったのは最後に載せてあった田口氏本人の言葉である「品質はコストほど重要ではない」とした言葉であり、これは単に金儲け主義的な言葉ではなく、品質を究極にするのはぞんざい無理な話なので、コストに見合う品質を用いることで品質維持としてのコストを負わせることで消費者に還元するのと同時に自由としての権利を与えることであって、するとここで述べる品質性とは「コストに見合うようにすべきだ!」ということであり、そうした面での負担を消費者側に価格として突きつけるな!ということである。なるほどこれは大変深い言葉であり、とても納得できた。自由社会を敬愛する姿勢にこそ経済の発展はあり、「品質重視の企業は潰れる!」とまで断言していたのも印象的。

あとはコンサルタントの仕事についてのあらわし方も特徴的であって、コンサルタントの仕事とは、単にすぐ利益を向上するようアドバイスをするのではなく、全体の見直しとして改善点を指摘し、そこを各々に気づかせること、であると言うことがよくわかった。これは古い例えで言えば、魚を釣って与えるのではなく、魚の釣り方を教える、と言うことに他ならないだろう。あとは品質としてのクレームに対する方法、それは品質の向上。そこで生産側に問題があるとせず(欠陥品を見過ごすのではなく)、設計側にこそその責任がある、としたのは辛辣ながら的確。そこで提案するのは、品質管理としての従来のテストではなく、あえて荒さやエラーを見出すための極端状態としてのテストであり、そうした結果から平均としてまでの誤差具合を見出し、どこを改善すればいいのか?あえて極端な状態から一見し、その因子を見つけるように企てる。それは一見、とても手間隙がかかるように見えるが、これが一番の改善への近道。そうした理由もよくわかる内容であって、大変勉強になった。良い内容であり、評判どおりまさに「直感でわかるタグチメゾット」として偽りなく、良い一冊だった。

 品質工学に興味を持った際には、おすすめの本。