「なぜ勉強をするべきなのか?」とした問いへの答えとしてのジャン・コクトー。
古今東西、子供から問われるであろう疑問。
「なぜ勉強をするべきなの?」
昨今においても未だよく語られる疑問であり、
そこには立ち返って、
「じゃあそもそも教育はどうして行うの?」
とした並列する疑問に対しての答えとして、
秋山仁の遊びからつくる数学―離散数学の魅力 (ブルーバックス)
- 作者: 秋山仁,吉永良正
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1994/02
- メディア: 新書
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この本が実に的を得ていることを述べていたので、その答えにハッとし、感心したのでその一部分を引用する。
教育の原点というのは、詩人のジャン・コクトーの言葉、
”A cistern contains and a fountain overflows”
にあると思う。直訳すると、
水槽は水をたたえ、泉は湧き出す。
つまり、水槽に水をたたえることは容易であるけれど、これはみんな蒸発したりしてしまう。化学を覚えたり、物理を覚えたり、数学を覚えたりしたって、天下り的に知識を詰め込まれたものは、遠からず忘れる。
それが教育の目的ではないんだ。
この言葉は、それを厳に戒めているわけ。
そうじゃなくて、生徒や学生の頭脳に次々に発想とかアイディアが湧き出すような泉を設置することが必要である。
こう言っているわけで、いまの学生は、自分でものを考えてやっていくということがない 。
つまり、勉強が、教育がどうして必要なのか?とした問いに対する答えは、
「勉強することによって、発想力を養うことにより、自分が自分でありえるための相互的な発想を促すため」
であることに帰結するのではないかと思う。
要は、「世界に対する認識力を高める」といったことでもあり、
より平易に換言すれば、
「自分自身が納得をするため」
とすれば適切であると思う。
なぜなら、
「なぜ勉強をするべきなのか?」
の答えは、それこそ勉強することで己に与えられるのだから。