book and bread mania

-中途半端なサウスポーによる日々読んだ本の記録 + 雑記 + パンについて-

『チョコレートドーナツ』という差別映画が教えてくれること。

2月11日の日曜日、アベマTVにて『チョコレートドーナツ』という洋画を放送していたので視聴。

これが奥深くて、なかなか良い映画だった。 

 

 

テーマとしては実にシンプルで、1970年代におけるアメリカでの

「同性愛者差別」を示す内容。

ヒューマンドラマ映画であり、あらすじをみれば概要はおおよそつかめるかと。

 そこであらすじを下に引用。

 

1979年、カリフォルニア。
シンガーを夢見ながらもショーダンサーで日銭を稼ぐルディ。
正義を信じながらも、ゲイであることを隠して生きる弁護士のポール。
母の愛情を受けずに育ったダウン症の少年・マルコ。
世界の片隅で3人は出会った。
そして、ルディとポールは愛し合い、マルコとともに幸せな家庭を築き始める。
ポールがルディのために購入した録音機でデモテープを作り、ナイトクラブへ送るルディ。
学校の手続きをし、初めて友達とともに学ぶマルコ。夢は叶うかに見えた。
しかし、幸福な時間は長くは続かなかった。
ゲイであるがゆえに法と好奇の目にさらされ、ルディとポールはマルコと引き離されてしまう……。
血はつながらなくても、法が許さなくても、奇跡的に出会い深い愛情で結ばれる3人。見返りを求めず、ただ愛する人を守るために奮闘する彼らの姿に我々は本物の愛を目撃する。

 

 

はっきりいってしまえば、あらすじそのままの映画。

だがこの映画が特筆的なのはそのメッセージ性。

要は「差別はよくない!」とする全うなものなのだけれど、

重要なのは本映画を視聴して、

「同性愛者差別をはじめ、差別はよくない!」

ということだけに済ませないところにあると思う。

 

つまり、この映画がもっとも訴えたいこととは、

「差別がよくない」

ということではなく、

「時代という背景に潜む、”差別”という存在に気づく」

ということだ。

 

この映画では、1970年代のアメリカにおいて同性愛者とは社会不適業者のレッテルを無条件に突きつけられ、社会としての存在が、彼らをそう認識付けていた。

「酷いなあそれは」

で済ませられない実情がそこにはあり、つまりこうした「時代によって定められた先入観的イデオロギー」というは、実際いつの時代においても存在しているのだ。

 

今の時代にしてみれば、同性愛者も立派な人権が認められており、過去のそうした差別は野蛮な所業に思えるだろう。

しかし、果たしてでは現代が、「同様な差別を行っていない」と言い切れるだろうか?

答えはノーであり、分かりやすい例で述べれば「NHK放送受信による強制徴収」など。

別に見れなくてもなんら不便ない人もいれば、NHKの番組が大好きな人がいるだろう。問題なのは、これが「強制」という点であり、民主主義国家として民主主義としての意味を功利主義としての全体幸福を主張するのであれば、それは「自由」を容認すべきであって、強制である時点で「それって民主主義国家としてどうなのよ?」となるはずである。けれどこれなどは同様の声もいくつかはあって、分かりやすい例。

だからこそのこの場合は将来的に「強制徴収」ではなくなっている可能性は高いと思う。すると、そうした未来からして今の時代を振り返れば、「あの時代はよくああした強制徴収に文句をもっと言わなかったな」と、この映画を見て感じることと同様のことを言うだろう。

 

他の例としてもいくつかあると思うが、さっと思いついたのは

「新卒が就職には有利」

ということ。

「なにそれ?常識じゃん」

と思うのも当然で、確かに新卒とする若い時期にとれば、その分仕事への順応も早いであろうし伸びしろも好ましいかもしれない。

だがこうした概念もまた一種の差別である。

なぜなら、”新卒=就職しやすい”の構図があまりに確立されていると、

新卒者は自分が何の仕事をしたいか定まらぬままに流れで仕事を決めてしまうパターンが予想され、そして逆に新卒で仕事が決まらなかった場合、その後には新卒者と比べて不利な状況におかれることにより、ようやく自分がやりたい仕事を見つけたとしても、そこで新卒者と争う場合には、自身が新卒ではない事実が大きな足かせになってしまうことが考えられる。

 ここから言えるのは、

「新卒者は就職をすべし」

という一見当たり前すぎる帰結なのだが、そこが大きな危険なのだ。

つまり、

「新卒者は就職をすべし」

を常識と捕らえることはすなわち、「新卒者は就職をするべきである!」と、その存在をひとつの概念に縛り付けており、これもまた差別に他ならないのだから。

 

 

 

社会的立場、権利を主張する場面において

「それって当然じゃん」

「それって当たり前じゃん」

こうした意見を思わず口にしてしまいたくなる事象、状況の場合。

果たしてそれが本当に「当然や、当たり前」のことであることなのか?

1970年代のアメリカでは、

「それって当然じゃん」

「それって当たり前じゃん」

として、同性愛者を差別していたのだから。

 

はたして現在、2010年代は未来から見て、

「1970年代のアメリカと同じことをしてたんじゃん」

とは言われない、と言い切れるだろうか?

 

一番に恐ろしいことは

「当たり前」

とする言葉で済ましてしまい、思考停止することに他ならない。

映画『チョコレートドーナツ』は、

そうした概念がもたらす危険性を如実に描いた傑作であると思う。