book and bread mania

-中途半端なサウスポーによる日々読んだ本の記録 + 雑記 + パンについて-

「無償の愛」は存在しない

 

タイトルからしていったい何の話かと思われるだろうから、

簡潔にいってしまえばあるアニメに関してのこと。

尤も、それはアニメ自体の批判ではないのでご安心を。

というのも、これはなかなか気になって心に深く残っていた蟠りのような思念があり、沈殿していてそろそろ浮上させてもいいかなと思い綴ることに。

 

前置きが長くてすいません。

何のことかといえば、それは去年10月から放送していたテレビアニメ、

『うちのメイドがウザすぎる!』

という作品に関連したことであり、正確にはこの作品に出てくる登場人物の一人について思うことがあったのでここに徒然と綴る。

この作品に対してはまず、正直な思いを吐露すればそのタイトルとあらすじ(下記に引用)から

 

あらすじ

ロシア人の血を引く小学2年生・高梨ミーシャのもとへ、筋金入りの幼女好きで元自衛官の鴨居つばめが新人家政婦としてやってきた。前職のポテンシャルを存分に生かしてミーシャに接近しようとするつばめと、徹底抗戦の構えをとるミーシャによるホームコメディが幕を開ける。

 

「なんだこれ?大人の女が小さな女の子を愛でるだけのアニメって、何だか酷い内容だな…」なんて多少引き気味に思っていて軽蔑心さえ催しそうであり、しかし「見ずに批判は屑だ」と思いものは試しにとちょっと見てみることに。

するとこれが予想外に面白く、コメディードラマ並といえる十分なクオリティ。

そんなわけで、結果この作品を最後まで楽しんで観れ、その中でも特別に注目したのがこの作品に出てくる登場人物「みどりん」氏。

 どんなキャラクターかといえば、33歳でコスプレメイド服を着て、主人公の一人である鴨居つばめに惚れ込み追いかけてきた元上官で、一言で表すなら強固なM体質の変態さん。

wikiの人物像についてでも

 

筋金入りのドMであり、他人から苦言を呈されたり軽蔑される度に身を震わせて喜んでいるが、想い人であるつばめからは冷たくされようが身を案じられようがどっちにしろ喜ぶという複雑な性癖の持ち主。

 

 このように書かれており、しかし注目すべきはその性癖というか考え方。

ハッとしたのは、その特殊なアンビバレンス性というか、もっと一言でいってしまえは、著しい幸福の感受性!

上記の引用にあるこの部分、

想い人であるつばめからは冷たくされようが身を案じられようがどっちにしろ喜ぶ

これって何気にすごい事をしてるなあ、ってことであって、だって告白しても「成功したら両思いで嬉しい」のは当然の事としても、フラれても尚「フラれてもドMな感性としては嬉しい」となることであって、どっちに転んでも幸福になるというまさに天下取りの体質!

 

 

しかしこれだけの事なら、「ああ、なんだか特殊な変態さんだね」で終わる話かもしれないが、凄いのはここから。

衝撃を受けたのは、第8話目。

この回では「みどりん」が、一時的に雇われていたミーシャ家のメイドを辞することになって職を失う。それで新しい職を探そうとするのだが、そのときの決意表明としての台詞が自分には実に衝撃的。

「なるべくキツくて理不尽に怒られて、誰からも感謝されず、労働時間と内容に見合わない低賃金のところがいい…!」

 彼女が所望する職場とはこのようなところで、それも建前ではなく、本音として!

 これがどうしてこれほどにも見ていて衝撃を感じたかの理由としては、

大半、いやおそらくほぼ全ての人が、働く理由とその求める職場の件として、この台詞の正反対のところを目指しているであろうことは、想像に容易い。

というかおそらく、この台詞自体が、基本的な働く欲求に対しての真逆な意見を考え、それを元に作った台詞であるように思われる。

しかしこの台詞に込められた意味は、表面的な意味のみではない。

よくよく考えてみてほしいのは、ここでこの記事のタイトルとリンクするということ。

ちょっと脱線して、「無償の愛とは?」について考えてみてほしい。

すると自分としてはこの言葉にどこか違和を感じるのはまさに「みどりん」の台詞による真理性からによるものであり、「無償の愛」とはつまり「無償すなわち自分のほうは何も得るものがない上で相手に自分が与える『もの』=『愛』」であって、「無償の愛」が尊いように思われるのは、この「無償さ」、すなわち得るものなくして与えるという均衡バランスの崩れによるものではないのかなと。そう思うのだ。

 

しかし「みどりん」の哲学および性癖は、この「無償の愛」の概念を瓦解させる。

なぜかといえば、「みどりん」にとっては「無償の愛」が存在しないからだ!

 別にこの人物を非人間的と言うのではなく、むしろ彼女こそが人間としての真実味を描いているように思われる。

それは、「無償の愛」とは『無償の愛』を与えた側が満足を得た時点で、それは「無償の愛」ではないからだ!

つまり、本当に「無償」であるならば、その行為に対して満足するのは「無償」ではなく、「満足という償を得がたいがための愛」であって「利己心」が隠されているのだ。

よって、言葉通り本当の「無償の愛」とは実に無感動的であり、無機質的。

なぜなら施しを与える側は、それによって起こる感情の差異を生み出してはならず、心情における均衡のバランスを変えてはならないからだ。

すると「無償の愛」によって「相手の幸福」を望むと、その時点で「無償」ではなくなってしまう。それは「相手」にとって「幸福」が望ましいと思うから「無償の愛」として「相手の幸福」を望むのであり、この「望む」には感情的な恣意が含まれているからである。*1

何が言いたいのかというと、人間である以上は「無償の愛」などは存在しない。

ということである。それが人間としての生き物である以上は必然であり、むしろ悪いことでない。誤解してほしくないのは、ここでは無償の愛が存在しないことを肯定的にいっているのであり、なぜなら生きているのだから、人間なのだからそれは当たり前の事であって、無償の愛がないことこそ本当はすばらしい事実なのだと思う。

このような隠された真実味を、この「みどりん」は表面化、言語化して示しており、人間の深層心理に埋もれるひとつの欺瞞を露呈し、「すべての苦痛は幸福の源なり得る」ことを自らで証明することで「二項対立的な心情概念は如何なる時にも発生し得る」という事実に光を浴びせているように思えてならない。 

 

 「みどりん」という登場人物は、ドMな正確ゆえ、人が嫌がることを好み、人が嫌がることを言われるのを好む。まさに究極の天邪鬼的性格の人物であり、ブラック企業で働くことを自ら望むというのは経営者側から見れば理想の人物かもしれない。

しかしそのブラック色は、働く当人にとってそれが好ましいのであれば既にブラックではなくホワイトへの変容し、彼女にとっては理想の職場になる。

価値観の転覆を思わせる彼女のこうした思念はなるほど、脱構築的なものと捉えることができるのはもちろんの事、人間の思念としての可能性のより深い部分を感じさせる。

 

 

 あとこのアニメ、カミュの『異邦人』ネタを入れていたりと、案外ディープな笑いもあって楽しめたw

 

 

 

 

 

 

*1:感情的な恣意がなければ、「幸福」と「不幸」の概念的差異も見出せないため。