book and bread mania

-中途半端なサウスポーによる日々読んだ本の記録 + 雑記 + パンについて-

3月に読んだ本からおすすめ10冊を紹介。

3月に読み終えた本は32冊。

その中からおすすめの10冊を紹介!

 

 

 

第10位

『戦争と映画―知覚の兵站術』

戦争と映画―知覚の兵站術 (平凡社ライブラリー)

戦争と映画―知覚の兵站術 (平凡社ライブラリー)

 

 戦争と映画の関係について。

その関係性を一言で表せば、相互作用的。

本書のタイトルを見た際、ひとえに「戦争映画のプロパカンダについて?」と思うも実際にはより広義的であって驚いた。

確かに戦争映画における役割には、それがプロパカンダとして用いられていた事実もある。しかしその他の効果も実は多大であり、本書ではそれらについてを解説。

その主張のひとつとして印象的だったのが、現実と虚の反転作用。

戦争映画それ自体はもちろんフィクションである。

つまり「虚」であるのはもとより、ではここでいったん立ち返り

「そもそも本物の戦場それ自体もまた本物だろうか?」

と疑問定義する。

無論、本当の戦争は本物以外の何物でもなく、しかしここで重要なのは、当事者の感覚。つまり当事者が戦争を「戦争している」と感じているかどうか。

「そんなことは自明で」なんて思われようが、実際には異なるのだ!

戦場に出向いた多くの兵士によれば、戦場に立っているという感覚は寧ろ非現実的。

それは当然といえば当然で、現実として死骸が当たりに散乱する状況など、本当に「現実的」と捉えられるものだろうか?

だがここではあえて流れに逆らい「出来ないこともない」と主張するとしたら。

しかしそのときに芽生える「現実的」という概念は同時に、その場所が「非現実的」空間があるからこそ生じるものであり、私たちは普段生活するうえで「ああ今は現実的だ」などと感嘆することはないだろう。何故ならわざわざ「現実的」なんて思わずとも、これが現実であると把握しているのだから。

溢れる「死」を「現実的」と捉える事こそ「非現実的」であり、そこでは現実と非現実の境界が曖昧になる。

すると「現実の戦場」さえ、実はその場は一種の虚的な世界を築いているのだと本書は主張し、戦争映画と現実の戦争を兵士の目線で対比する。

結果として得られた事実は、相互間的な虚空間、つまり戦争映画にこそ、兵士にとっては現実性を見るのであり、映画によって彼らは実際に立つ戦場の現実性を得る!

この意見に少なからず驚かされたのは、それは現実と虚構の転覆が実際に行われていると言う事実はともかく、虚構がもたらす外延的な影響の深遠さについて改めて考えさせられたからである。

 

また本書では、映画の技術がよりよく戦争に転用される様も物語り、それは主に情報儀出的として。というのも本書は主な論説として

「情報が戦場において如何に重要であるか?」

事を挙げており、映画の発展に伴う映像技術の革命。

それに寄り添い鮮明に遠方の映像を得る事ができるようになって戦争に革命をもたらたし、偵察の重要性が増したのは情報の密度が向上したため。

それらを統合し換言すれば「作戦本部を遠方にしても現地の状況が分かる」ということである。こんな当たり前のことだが、それが映画の発展も深く関連していたとは初めて知り、驚くと共にフィクションが与える現実の多面的な影響に面白く思えたりも。

 

あとは映画の存在に対する考察もあって、映画の見方も多少変わってくる。

そこで述べる特筆な指摘は「視線の方向」についてであり、「視線のコヒーレントさ」とも表現できるであろう一固体に向けられる固体化した視線。

これがまた重要で、没個性と映画の関連性が此処にもあったのだと知る。

「映画ではカメラによって固定された視線により、誰もが同じものを見る」

それによって「個は全となる」とさせ、ある種の洗脳的な戦時中の戦略。

本書では情報の重要性を「速度学」として解説する内容。

 戦争と映画とは密接な関係である。

その真意を知る上でも重要な一冊であるのは間違いないように思えた。

 

 

第9位

『不気味な笑い フロイトベルクソン

不気味な笑い フロイトとベルクソン

不気味な笑い フロイトとベルクソン

 

 笑いについてを考察したエッセイ。ページは多くないけれど内容は充実。

ベルクソンによる笑いについても取り上げ、笑いとは「反転」であると指摘する。

そして印象深かったのは、笑いにおける「枠」について。

笑いとは煎じ詰めれば、状況如何によって異なるという事。

それがフレームアウト、つまり笑いを催す対象を枠の外から眺めるのではそれが「笑い」になり、フレームインとして笑いを催す対象へ枠の内に入っていけば共感してしまって笑うどころではない。

それはある種の状況が「喜劇」にも「悲劇」にも成り得る事を示し、その場における「枠」の外から見るか?内から見るか?で大きく異なってくる。

 

これを平易にも例えれば、ふとショッピングに行って「あの人チャック開いてる!」なんて他の客による嘲笑を微かにも片耳に入れ、自分もはてと目を向ければチャック全開で堂々と店内を闊歩している男性が。あれ?とよく見ればなんと自分の父!

そんな状況、笑うどころかこっちまで赤面してしまって笑うどころではないはずだ。

 

こうした状況こそつまり、フレームの外から見ようとして内側にがっと思いがけず引きずり込まれた例。笑いとはある種の他人意識があって生まれるものでもあるというのは経験則的にも分かり易い。

またベルクソンは笑いの本質を「機械化」とも示しており、人は同じような動作を繰り返す事で滑稽さを生み出すという説もあるそうで、なるほど確かに日本の芸人でも反復する動きは見られるので納得。

そして至って普通な顔であっても、同じ顔が二つと妙におかしくなる事も指摘する。

やはり笑いには「非日常」性が重要なのかなと。

しかし行動の機械化と滑稽の関係において興味深いのは、公共の場や儀礼的な催しでは誰もが決まって逆に、こうした機械的な行動を進んで行うという事実!

お葬式で思いがけず笑ってしまいそうになるのは、こうした事象も関与しているのかもしれない。

なるほど「笑い」と「不気味」とは密接な関係があり、フロイトなんかは笑いを考察する際には特に「不気味」に注目していたとのこと。

本書は「笑い」についてを考察するエッセイであり、その軽快な文章は「笑い」に対する笑いをもたらしてくれる。そんな一冊。

 

 

第8位

『生命創造 起源と未来』

生命創造 起源と未来

生命創造 起源と未来

 

まず特筆すべきは内容ではなく仕様。

本書はなんと左右どちらかでも開いて読める一冊で、それぞれ上下が逆となって内容としてもテーマ性が若干異なる構成。

一方では「生命の起源とは?」というテーマのもと「創出」や「起源」など生命の誕生についてを語る内容。

もう一方は「今後の生物学はどのような発展を遂げるか?」という未来に対して目を向ける内容に。

どちらから読み始めても問題なく、内容はシンプルで読みやすくこれまでの化学歴史における大発見についてから今後の展開についてでは「合成生物学」と称される遺伝子学による可能性を解説。

そこでは遺伝子であるDNAに対する使用言語拡張の試みなどはとても関心を惹かれるトピックスで、同時に遺伝子を記録媒体として使おうとするマッドサイエンス的試みも面白い。これは遺伝子の「配列」自体をメタ的にも二進数的扱いを施す事によって、それ自体に意味を持たせて「インクと紙代わり」にするというSF的アイデア

しかしこのアイデアこそ既に成功しているというのだから驚きで、将来的には本のデータをキンドルどころか体内に保存可能になる時代もそう遠くはないかも。

尤もこの表現は比ゆ的であり、より的確にいうのならば体内の細胞や遺伝子に記録媒体的形態を持たす、ということであり実際に実験は進んでいると予想。

しかし今のところでは、「形式それ自体を記録媒体に用い、本一冊分を情報として入れる」というのは成功しながらも、その読み込みにはとても時間がかかるとの事。

まだ実用的ではないそうだ。

あと例の難問、

「鶏が先か?卵が先か?」

その答えを示し、曰く「同時」というのだからとんち的。

これはRNAたんぱく質との関係にアナロジーか出来るから。

RNAが先でもたんぱく質が先でもなく、実際にはただRNAが居た」で、要はRNAは自分で自分を作り自分を生むという、自己複製的な性質があるという事。

こうした発見が一種のパラダイムシフトを生み出した流れなども解説し、思いのほか読み応えあった印象の一冊。

生命についての化学知見に興味があり、生命誕生の謎を解き明かそうとした史実の流れに興味があるのなら、読んでみても損はないかと思う。

 

 

第7位

オブジェクト指向でなぜつくるのか―知っておきたいプログラミング、UML、設計の基礎知識』

オブジェクト指向でなぜつくるのか―知っておきたいプログラミング、UML、設計の基礎知識―

オブジェクト指向でなぜつくるのか―知っておきたいプログラミング、UML、設計の基礎知識―

 

 「オブジェクト指向とは何ぞや?」として読んでみると、なるほど!と納得。

それほどには分かり易くてハードル低め。

簡単に言ってしまえば「オブジェクト指向」とは、

「開発を簡単に、便利にするもの」。

開発環境の改善を目的に作られたものであり、「OOP」ではインスタンスというクラスから派生するものがメモリの容量を確保する。また相互作用的にも働き分割化にして保守性を高めた事もこれまでの開発環境に比べて改善になったのだと。

読んでいて思ったのは、そうしたインスタントの役割とはクラスに入り活動する事から細胞的に思え、インスタントはミトコンドリア的に思えたり。

あと本書はオブジェクト指向についてのみではなく、その他の関連した事項なども紹介、解説。そのなかでは「UML」という所謂「統一モデリング言語」のことも取り上げているのが印象的。これは構築のフローチャートを図式化したものであり、ラングリッチながら図なのも特徴的でなので覚えやすい。そこで示すいくつものテンプレ、鋳型はプログラミング構造としての理解を捗らせるのはもちろんの事、注目すべきはやはりその応用性。するとこのUMLの一番の功績は、こうした異なるもの同士を結びつけたことであって、「プログラミングにおける共通性とは?」に対する一種の答えであるとも。

本書ではシステム開発の業務についても触れており、「業務分析」や「システム開発」などの流れについても解説。これは実に多面的かつ応用的。

他には経営者側ではなく当事者側、つまり当のプログラマー側が編み出した効率的な環境についてのメゾット「XP」についても取り上げ、どのようなものか解説。

その「XP」、「ソフトが上手く動作した際には鐘を鳴らす」等なかなかユーモアが効いていて好き。

そうして一読すると全体の印象としては”広く浅く”というものながら、俯瞰的にも概要的にも一応は「オブジェクト指向」についてをざっくり学べる一冊と思う。

クラスの分担によっての脆弱性の回避や、ローカル変数などによるデメリットを解消(個々に変数を持たせることで(それも長くを可能に!)依存性を低くし、可塑性を高める等)し、いろいろな利点があるということ等は分かり易く理解できる内容ではある。

あとプログラミングとしての特徴でありそして面白いのは、合理的作業を追求した上での形式ゆえ、「この考え方はどの職業においても応用できるのでは?」と実感できる点にある。だからこそ「プログラミングの仕事?専門外だから興味ないね」と一蹴せず、ほかの職業の方にも読んで貰いたくそして読んで損はない一冊。

あと「オブジェクト指向の難解さについて」についても本書内では言及。

要因として「用語の乱用」や何に対しても「オブジェクト指向的だよね」という表現も一端を成しているという著者の言葉を読み、そういった言語的問題に難解さを帰す点は「哲学でも同じだな」なんて思えたりもした。

 

 

第6位

『あなたのなかのサル―霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』

あなたのなかのサル―霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源

あなたのなかのサル―霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源

 

 サルの動物行動学についての内容。

本書を読み「ボノボ」という種についてはじめてよく知り、チンパンジーの凶暴さもさることながら、ボノポにおける平和さには多少驚いた。

そしてボノボの社会においては主にメスが権力を握っているという事実は興味深く、ある生物学者が「オスは病気ではないのかね?」と尋ねたという心意も多少わかるような気が。

ボノボの生態としては、コミュニケーションとしてセックスを行うと言うのだから驚きであり(その時点で「セックス」と言う言葉の定義からは幾分か外れそうではあるが)、類人猿においてこうした生態はもちろんボノボのみ。それが平和主義な性格にも関与しているのだとすればこれまた興味深いと言える*1

あとボノボのひとりが鳥を助けたという話はなかなか感動的で、ボノボは他の生き物に対しても同様に穏やかな態度を示し尚且つ紳士的。読めばなんだかもう人間が凶暴に思えてくるボノボっぷりであり、まさにボノボの尊さを語る一冊。

そうして一読すると思うのは、まさに著者の言うとおり類人猿と人の同様さであり「人間も猿と大して変わらないんだなぁ」という独特の感嘆が噴出した。

本書の特徴としては、著者は動物行動学の学者ながら動物の挙動を人にも当てはめ考察するので内容としてはまるで社会学と思わせるようなところ。ドーキンス利己的な遺伝子』的な互恵的さについてを語るところでは特にそう感じ、人間とは言葉で思考するのではなく、言語以前に反応する部分があるのだとチンパンジーボノボの慈しみある例や飼い主の少年を蛇から守った犬の話で示したのが印象的。

そしてチンパンジーにおける首領争い、ボス猿(アルファオス)になろうとするための過程や戦略、争いについては細かく描写されていて勉強になると同時に面白い。

チンパンジーでは党のような協力体制を築くというのは普通。

つまり「人間における政治戦略と同様の事をチンパンジーも行っている」という事実でありこうした習性もまた人間との類似性を感じさせる。

あと印象的なのは凶暴であるチンパンジーにおける「緊張」と「緩和」についてであり、仲直りのためのグルーミングはもとよりそのほかの動物においてもこうした儀礼的「仲直り」を示す行為があると言うのは興味深く、どの動物でも仲直りにはやはりきっかけが必要。こうした事を観察し、事実と照らし合わせていくと「知能や悟性があるのは人間だけではないのでは?」と思えてくる必然性。

これは「人間だけが特別な生き物」ではない事を示唆してくれる重要な指摘。

過去の知識人は人間と動物を明確に区分していたそうだが、昨今ではその誤りを明確に区分できそうではある。

 

 

第5位

『新しい量子生物学―電子から見た生命のしくみ』

新しい量子生物学―電子から見た生命のしくみ (ブルーバックス)

新しい量子生物学―電子から見た生命のしくみ (ブルーバックス)

 

 新書ブルーバックスの一冊。

量子論量子力学とはよく耳にした事があっても

「量子生物学」

とは耳にした経験乏しく「はて?」となって読んでみれば大いに納得。

もちろん内容としては量子物理からの発展ではあるが、それの生物学への応用とは既知していなかったので、まさに目から鱗

当然物理学との違いは生物と無生物であり、原子と分子という違いは特にわかりやすい。ただ量子力学がこうも生物学に馴染みよく適応されるとは驚きで、生物におけるミクロな原理、つまり分子の動きや働き方をこうも理論どおりに説明できるようになるとは。

すると量子生物学から見えてくる情景とは。

それは電子の働きによって構造の原理を明確化することであり、結合や分離においても、電子の相互的な流れかつ合理的な帰結としての状態が示されている事をまさに示す!

それを最も単純でモデル化しやすい水素原子の結合において解説。すると今まで謎であった根本原理が明らかとなり、それには通路と各電荷の平等性と不平等重要であったのだと。他にはDNAに着いての解説などもあり、なるほど言われた通りよくDNAの性質について考えてみると「保全」と「分離」という、両極端の性質を保つ必要があるのは自明で、そのように進化したための塩基の一部違いとしてみれば感慨深くなる。

本書では他にも多々、生命活動ならびにその他の数多くの現象も結果的には電子のやり取りによって生じている、という意見を主張しその例を示すなど具体的。

新書ながらとっても充実した内容で、量子論好きにとっては読んで損がない一冊と思う。しかし電子の相互的なやり取りは均一性を保つためであり、隙間を埋めるための必然的な流れだとしても尚「ではどうして、隙間を埋めたがる?」としての答えが「安定性を求めるため」だとしても、その「安定性」とした表現がどの程度にんげんにとっての「恣意的」な表現なのか?考えれば面白そうである。

 

 

第4位

分裂病の神話―ユング心理学から見た分裂病の世界』

分裂病の神話―ユング心理学から見た分裂病の世界

分裂病の神話―ユング心理学から見た分裂病の世界

 

童話や絵画など、様々な媒体を通すことで分かり易さを増幅させる。 

そんな印象を与える本書は、一読すると「分裂病」がどのような状態か?何が原因であるのか?などその本質を一通り(文字通り)には理解できる内容。

すると分裂病の症状としては自我と自己の乖離、ならびに他者との関係性を放棄したことによる確立性におけるトラブルであるのだと。

最初に述べたように、分裂病の本質へと触れるため各種作品を通してその根源を探ろうとするのが特徴的な本書は、グリム童話からは『マレーン姫』を用いてこの話の構成を探ると共に誰しもが分裂症的なる本質を明るみする。

この話として重要なのは主人公マレーン姫と周りの関係性。

精神分析的にも紐解くとこの物語は、自己との欺瞞と軋轢を示すもの。

複数の自己性が登場しそれらが相互的に働き場面場面におけるその状況が鏡像的な見せ方を提示する。「こんな読み方もあるのか!」と構造主義的に読んでも楽しめる内容であって、童話の本質に対して「すげえな」と感嘆とする事にも繋がる。

つまり童話の中には、理想の元型を写して出しておりそこに自我をはじめその他の鋳型もあり、そこでの統合を『マレーン姫』を見せるのだと。

他に絵画としては、ムンクの絵を通して分裂病についてを考察。

分裂症としての症状を芸術に昇華する典型例としてムンクの『アルファとオメガ』を挙げる。この作品、初めて見たのだけどなかなかの独創さ。

この作品を通してムンクは内なる精神病的鬱積を晴らすことに成功したとは興味深く、そうした言説を踏まえて絵を眺めていけば、またその作品性も変容して感じてくるのだから面白い。

まさに芸術作品とは相互的のみならず、複合的作用によってその作品性の本質のみなら見え方も変容させるものであって、そうしたところにこそまた本質があるのだなと見えてくるのは(こうした思惟をまた含めて)実に多面性あり12面体サイコロのような見え方をコロコロと変えてくる。

すると『アルファとオメガ』も個人的には生に溢れた絵に見え、衝撃的というよりは静的な荒々しさ、獰猛さを感じると思えた。

あと本書では西洋の有名な怪物メデューサを、これまた分裂症的見方として捉えるその論説もあってこれがまた面白く、「目を見ると石になる」というメデューサの特徴は「他人を排斥する存在としての象徴」というのは鋭い指摘。
本書は「分裂症とはこのようなもの」と鋳型に説明するものではなく、よりダイナミックにその症状に着いてを解説。それは誰しもが根幹には抱える一種の状態を表象させるのであり、内面に存在する自我を他人を通して現れる自分として自己紹介させる。

想像よりずっと分かり易くそして魅力的かつわくわくした内容であった。物語や芸術の本質に触れ合いたい人にはおすすめの一冊。。

 

 

第3位

『笑いを科学する―ユーモア・サイエンスへの招待』

笑いを科学する―ユーモア・サイエンスへの招待

笑いを科学する―ユーモア・サイエンスへの招待

 

「笑いは健康にいい」とはよく言うけれど「実際はどうなのよ? 」とする疑問に対してひとつの見解を見せるが本書の内容。

笑うことでの体内の変化を実験結果として明確に示しているのも特徴的な本書は、笑いにおける理論にも注目。

そこで著者は「笑いの統一理論」を提唱する。

これは有名な笑いの理論のうちでは「放出理論」的な主張であって、負荷脱離と余剰出力の差によって生じる、分離したエネルギーの作用であるのだと。

簡単に言えば、不安や緊張からのギャップから生まれる安堵感。そこでの過ぎ去った不安の行方こそが笑いであり、こうした理論を定量化した式として表していたのも印象的。

 本書はそれだけでなく、 多面的にも「笑い」を考察する内容。

あと所々に入るコラムが読み応えあり。

笑いに携わる様々な人による記述で、なかでも個人的にとても興味を惹かれたコラムは「ロボットは笑うのか?」とする内容のもの。このテーマこそ実はとても大きな可能性と重要性を秘めているのでは?と感じたほどで、それは多分「笑う」と言う行為が人間の本質へと多大に触れているからに思える。

古今東西、人は人以外の動物と人の違いを示すため、多種多様な言い分をしてきた。

しかし人間とその他の生物における一番の際こそ「笑うこと」ではないのかと。

人はどうしてこれほどまでほかの生物と違い笑う事を好み、笑うたがるのか。

社会的な生物であるから、ドーパミンの関係によって等これもまた多種多様な主張が出来るとは思うが、笑いとは本質を突き止めようとするとスルリと逃げてしまう捉えがたい現象であり心象。こうした存在こそ、存在しているうちでは稀有であると思う。

まさに不思議な存在であって、人間の愛すべきパートナーであるのは間違いない。

笑いに対する見聞を深めるのは、それだけ楽しみを増やしおかしみをより寵愛させる。

そういった意味では、並のライフハック本より随分と日常生活をまた潤わせる一冊であり笑いに興味がある人はもとより、元気がほしい人には特にお勧めの本!

 

 

第2位

『自分の小さな「箱」から脱出する方法』

自分の小さな「箱」から脱出する方法

自分の小さな「箱」から脱出する方法

  • 作者: アービンジャーインスティチュート,金森重樹,冨永星
  • 出版社/メーカー: 大和書房
  • 発売日: 2006/10/19
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • 購入: 156人 クリック: 3,495回
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 記事としてもその内容のずるさについてを言及した一冊。

本書の内容、改めて一言で示せば「メタ認知」について。

自己の客観視の重要性を説くものでありながら、なるほど感想に

「既に窺知している事ばかり」

といったものばかりなのも一理あるなと思わせる構成。

しかし本書は寧ろそれを枠として用いている印象があり、メタ認知メタ認知を促す複合的さがあるもの。

なので一見して内容が浅く思われようとも、本書が実際、その浅い底に落とし穴があるのだと感じ得るのは「読者」が「当人」であると気付いたときにあると言える。

 

 今にして改めて、本書の内容が「啓蒙深いな」と実感するのはまさにその点にあり、鏡像的な理想的自己像認識との乖離を促す構造が、文章により成り立っている事は特筆するに価し、それこそ本書の特徴と言えるだろう。

 

これがどういうことか?を言ってしまえば理屈はシンプル。

つまり、おおよその人が自分を被害者的・弱者的立場としての「自己」を認識し難い、と言うことに他ならない。

大半の人が「自分は事故に遭わない」「自分が被害に遭わない」などという風に、何処か現実での一面に対しては当事者意識を持たない傾向がある。

けだしそれは当然でもあり、もしも常にこうした意識を持っていれば日常生活すら困難に成りかねず、映画での事故シーンなどは楽しむどころか目も当てられないだろう。

 よって、そうした自身に対する特別視は至って普通のことであり、これは何も「人は誰しもが傲慢になりがちである」という指摘でもないので、こうも換言できる。

 

「体験してみて初めてその気持ちを慮ることが出来るように、人は想像において生じさせる気持ちが、実際に体験することで生じる気持ちと同じであると思いがちである」

 

 本書における一番の慧眼的指摘こそまさにこれであり、読者を外側ではなく内側に取り組むことに本位がある。それは読者を”読者”と位置づけるのではなく、読者をまた登場人物の一人として確立させる普遍性にあるのだと。

「自己の裏切りは、自己正当性の強化につながる」

という本書が述べる極論めいた主張も、実際多くの人が気づかず居り、この主張どおりの事を成しているという絶対的な事実を鑑みれば、ひとつの科学的統計さすら感じさせるメタさ。

その気づかず居るサンプル群を見たければ、本書のレビューを見に行けばいい。

なかなか複合的で、そういった意味でも面白い本。

 

 

第1位

パラドックス!』

パラドックス!

パラドックス!

 

 またも頭をガツンとやられるぐらいには衝撃的であって、とても面白かった一冊。

そもそもこうしたパラドクス話が好きなので、その時点で楽しみは確約されていたようなもの。なかには既知しているものもいくつかあったが、知らぬ存ぜぬパラドクスにはどれも好奇心を愛撫されたほど。

特にタルスキの物質の変換の同一性のパラドクスには特に興味を惹かれ、二次元と三次元では物質の性質の違いについては大変興味深い。

そこでは質量保存の法則の崩れを感じさせる定理で、「このパラドクス既には証明されている!」というのでより気になり、何せ一見して見た目の大きさが違うものが、ばらして組み立てれば別の大きさ(それも巨大なほうに!)と同等になると言うのだから。

 

他には、有名なパラドクスの「アキレスと亀」や「時間の矢」なども解説されており、パラドクスの誤謬と解決方法についても解説されている。

これらは知ってしまえば単純で、微少数の無限解釈によるものであるのだと知る。

よって、この誤謬は単にいってしまえば「無限があろうともそれを取り扱うのは人間」ということを忘れていたためだと言える。

といっても、正直そもそも以前からアキレスと亀を例の如くパラドックス的には思えていなかったので(このパラドクスの前提としても、亀の速度がアキレスの半分ということもあり「普通に追いつくだろ」と直感的に思えたからであり、その際には「時間の概念を加味してないからでは?」と思えていたり)、よりすっきりした印象も。

そして本書の終盤には、ヴィドゲンシュタインとクリプキによるパラドックスも紹介されており、これが特に面白い!!

そこでの加法に見せたパラドクスとは、形式論理体系の話。

「加法に伺える思考もまたひとつの便宜的なものである」

この主張は加法における必然と偶然との違いについて、改めて考えさせられる指摘であり簡単に説明すればこのようになる。

 

たとえば「15+24」の問題が出されたとする。

このとき、加算として計算をすればおのずと答えが「39」と出るものと思う。

しかし仮に、この答えを「41」と書いたとして、どうしてそれが不正解か?

こう書けば単なる言い訳、とんでもない弁論に聞こえるかもしれない。

しかし考えてみてほしい。

答えとしての「39」は必然だろうか?

通常はそのように思われるはずだ。

何故なら「15+24」の答えは「39」ひとつしかなく、「15+24」の計算の上ではこれのみが正解なのだから。

では「39」は必然?だがもしこれが”偶然”性も含んでいるとするならば。

仮にテストを受ける生徒がまったくの勘で、答えを「39」と書いたとしよう。

もちろん正解である。だが当人の生徒はそれを計算して書いたのではない。

あくまで勘。

つまり適当な数字を書いたことによる正解なので、偶然に他ならない。

ここが重要!導き出された”偶然”からの答えが、”必然”的な答えとなる。

これはつまり”必然”に”偶然”が入り込む可能性を示唆する状態であり、必然の答えが実際には恣意的さを含有していることを示すことに。

つまり言ってしまえば、計算して出す「39」と勘に頼って出す「39」とに、本質的には違いがない。

すると加法における「1+1」の答えでさえ、それが「2」である絶対的な必然性は存在しない!ことになるというのだから、全く面白い考え方!!

 

 

本書ではほかに、形式矛盾についての話もあってセリグマンによる論理学の構成をはじめ、「試験日のパラドックス」に見られる矛盾なども紹介。

「Aを信じると、Aは存在しない」とするややこしさは一見してその主張自体がまたパラドックス的に思えるところが憎たらしくも楽しさを見せ付け、ゲーテ不完全性定理の話も出てくるので論理的なパラドクス好きにも納得の内容。

まあでも、よくよく考えれば不完全性定理自身の矛盾もまた実に自明なことで、不完全性定理が自身の証明を出来ないことを証明したのならば、この証明自体もまた含まれているというわけだ。しかしこの指摘は慧眼的!

 

そして最後には意外な見解。

それは理論体系において見出された形式矛盾が、実際の現場。つまり「応用工学にて実践し、試行することで解消した」という経験談はとても啓蒙に満ち、そうした逆転現象こそ力技に思えるがゲーテの言うところの「存在とはそれ自体が理論である」といった言葉を想起させてくる。

本書では「双子のパラドックス」などもあり解説にはがっつり相対性理論を用いており、その具体的さは物理知識を要し読み応え在り!

あと読んでいて思ったのは「パラドクスの言語的矛盾は、それが『言葉の定義』からもたらされるのはもとより、肝心なのは『言葉の定義を一つに限定してしまう』ことにあるのでは?」と思えたりもした。つまり量子論が事象の多様性を一度に呈したのに比べ、意識的言語についての定義においては「揺らぎ」を制定しない。この部分を少し変えれば、多くのパラドクスは甲斐性の糸口を掴むのでは?なんて思えたりも。

パラドクス好きにはもちろんのこと、思弁的な本が好きな人は呼んで絶対損はない一冊!おすすめええ!

 

 

 

*1:股が興味深いわけではないのであしからず