ミヒャエル・エンデの『エンデのメモ箱』というエッセイ集は大変素晴らしい本であり、そのうちのひとつに「考えさせられる答え」という題のエッセイがある。
その中で語られる逸話がなかなか響いたのでご紹介。
もう幾年もまえの話だが、遺跡発掘のために中米の内陸へ探検旅行した学術チームの報告を読んだことがある。携行する荷物の運搬のために、幾人かのインディオを強力として雇った。この探検全体にはこまかな日程表が組まれていた。はじめの四日間は思ったよりも先へ進めた。強力は屈強で、おとなしい男たちである。日程表は守られた。だが五日目に突然インディオは先へ進むことを拒否した。インディオたちは黙って円になり、地面に座ると、どうしても荷物をまた担ごうとしなかった。
学者たちは賃金を上げる手に出たが、それも功を奏しないとわかると、インディオたちをののしり、最後には銃で脅しさえした。インディオたちは無言で円陣を組み、座りつづけた。学者たちはどうすればよいかわからなくなり、ついにはあきらめた。日程はとっくに過ぎていた。
そのとき――二日過ぎていた――突然、インディオたちはいっせいに立ち上がり、荷物をまた担ぐと、賃金の値上げも要求せず、命令もなしに、予定された道をまた歩きだした。
学者たちはこの奇妙な行動がさっぱり理解できなかった。
インディオたちは口をつぐみ、説明しようとしなかった。ずいぶん日にちがたってから、白人と幾人かとインディオのあいだに、ある種の信頼関係ができたとき、はじめて強力の一人が次のように答えた、
「早く歩きすぎた」とインディオは話した。
「だから、われわれの魂が追いつくまで、待たなければならなかった」
普段、家に居ても出かけていても何かしらの人工音で耳を塞ぎがちの自分としては大変心に響いた話。たまに夜、ふっとヘッドホンを外してスマホからも遠ざかれば、夜の静けさにハッとし、その快さに改めて気付いたりもする。
もうひとつ、この逸話を読んで思ったこと。
何かに感動したときなんかはその後すぐに別のことをするんじゃなくて、感動したその想いを本当はもっと愛でるべきで、そうした自分の感性をちゃんと愛おしく思えるようになるまで体はじっとして心を待つべきなんじゃないのか? って思ったりもした。
たぶん、人生をちゃんと愛するってそういうことだと思う。