book and bread mania

-中途半端なサウスポーによる日々読んだ本の記録 + 雑記 + パンについて-

書評についてとか

anond.hatelabo.jp

個人的にはここが書評ブログのつもりでもあるので、

これを読んでちょっと思ったことをぐだぐだ綴る。

 

上記のコメントでも書かれているけど、書評とは「書を評する」。

つまりは読んだ本それ自体をまずは自分の中で評価する必要がある。

では、評価をするにはどうすればいいのか?

そこで必要となるのが「比較する」ことだ。

この「比較する」ということがとても重要かつ難しくもあり(個人的には楽しいところではあるのだけど)、たとえば「同系列の本を読み、そうすることによってこの本の秀でた部分や劣る部分を理解し、それによって比較・書評ができる」という意見がある。

これは正しくもあり、間違いでもある。

というのは、たとえば技術書など最初から目的がはっきりとしているものに関して言えば比較は容易だからである。

しかし小説などの場合はどうだろうか?

この場合、明確な「答え」というものは存在しない。

むしろその「答えが存在しない」といった事こそが小説の醍醐味とさえ評せる。

故に小説などのジャンルにおいて「明確な比較」というのは困難である。

じゃあ小説の書評なんて無理じゃん、なんて事はなくてみんな普通にやってる。

どうやって? なんて聞く奴はほぼいなくて、小説の書評は簡単だ。

そう、小説においても皆はちゃんと「比較」で書評しているのだから。

至極簡潔に示せば「この小説、○○より面白いよ!」といった具合に。

 

一方、ある作品を他の作品と比べることによって評価を下すことに対し、咎める姿勢があるのも知っている。

実際に先日、「あの作品マジで面白かったし、○○より面白いからお勧めだよ!」と友人に話したところ「いや、○○の名前出す必要なくない? てか、面白さなんて人それぞれなんだから別の作品名を出して優劣さを示すのは良くないと思う」なんて諭されてしまったほどだ。

そのとき比較することについて考えてみた。

そもそも比較する意味って何か?

それを雑に考えてみれば「区別するためにある」のだと思っている。

たとえばコカコーラとペプシの違いについて。普段、炭酸飲料を飲み慣れていない人にとって、この違いを明確にできるだろうか?

そこで二つを比較する。比較することによって「ペプシの方が少し酸味があってスッキリ感じた!」といったことや「コカコーラの炭酸の方がちょっと強く感じたかな!」という感想が得られれば(それが主観であったとしても)、その当人の中においてはコカコーラとペプシについての区別ができたことになる。

これは当然のことのように思えたとしても実際には大切なことで、おおよその人は普段日常生活の中でほぼ無意識にこうした「比較」と「区別」を繰り返しており、より実感が沸く言葉に換言すれば「赤の他人」と「知り合い」にでもなるだろう。

初めて会う相手に対して、我々がその相手に対する認識を「赤の他人」から「知り合い」に変えるのは、「赤の他人」と「知り合い」を比較しているからであり、その比較の結果として「知り合い」に区別すべきであるなと認識した結果に過ぎないのだから。

故に、比較には区別が付きまとい、区別が行われることによって差異化が行われる。

 

さてさて、ここからが本題の続きにもつながる話。

作品を比べるってどうなのよ? という問いに対して「必要なこと」そう答えたとしよう。

その理由として、一つ目は上記で述べたようにまずは作品としての各々を区別するため。

二つ目は、比べるということは作品の魅力を伝える上では便宜的にも便利であり、共通認識的な面白さを、紹介する作品の”面白さ”として伝える上では必要になるからだ。

そして、この二つ目の意見において重要となってくるのが「質と量」について。

どういうことかといえば、たとえば「○○という漫画が面白かったよ!」と呟くとする。このとき「○○という漫画の面白さ」とは、当然「質」的な話だ。何故なら面白さとは千差万別であり、人によって面白さの基準が違うのはもとより、何よりもそれが明確には数値化できないからだ。

仮に数値化できるのであれば、誰しもが”面白い漫画”を創作できるはずで、それができないのは数値化できない「質」の問題だからだ。

すると”数値化”できない「質」の話となると、当然人によって「質」のまさに”質”が異なるのだから質に対する意見・感想は相手と共有することが難しい。

そこでこの「質」を「量」的な見方に転換する。

そうすることによって、「量」すなわち数量化に転ずることによって共通認識が生まれ、まさに自分にとっての「1」が相手にとっての「1」と同等であることによる奇跡! ブラボー数字の「1」!!

とまあ数字によって行われる共通認識については、たとえば「1」が赤を示す場合、では「1」を示すことで相手も同等の「1」、つまり「赤」を見るのかと思えば、実際には違う場合もあるので一概に「みんなの”1”」とは言い切れないのだけど。この話は長くなるのでここで割愛。*1

とりあえずここでの「質と量の話」を総括すると、ある作品の評価を表す際に他の作品を引き合いに出す行為は、作品自体を「量」化することによって、その「質」的な面白さを間接的にも分かりやすく表現しようとしているってこと。

そうすることによって評価基準を立て難い存在に対してもある程度の共通認識を築かせ、書評として魅力を伝える場合においてもある程度の”客観的”(”客観的”的といったほうが正しいかも)を抱かせることに成功しているのだ。

それが砂上の楼閣であろうとも。

 

 

以上、書評について並びに比較することの意味と困難さについて、

未だまとまり切れていない考えをまとめた駄文でした。

*1: こういった話題が気になる方はアントニオ・ダマシオの『意識と自己』がお勧め