book and bread mania

-中途半端なサウスポーによる日々読んだ本の記録 + 雑記 + パンについて-

園子温『地獄でなぜ悪い』を観た。

以前から少し気になっていた映画『地獄でなぜ悪い』を最近視聴。

以下にその感想を載せるもちょっとネタバレを含むので、気になる方はお控えを。

 

まず終盤までは単純に面白かった。

テンポは良いし、物語の構造としても非常に分かりやすい。

シリアスな局面を滑稽に描く展開などは三谷幸喜的な脚本に思えたほど。

ただ終盤がいけない。…と、そのように感じる人も多いと思う。

だが終盤においては、さまざまな仕掛けが施されているのだ。

終盤の映画の撮影では実際の殺し合いを始める。

相手組も撮影することを許諾しているので、撮影であり組同士の戦争。

そこでは映画の撮影である殺陣と実際の殺人が混合され、虚構と現実が混じり合った幻覚的状況を演出する。さらにコカインでトリップする星野源の役ともリンクされ、”現実でありながら現実ではない”場所を描こうとする工夫が随所に感じられるものの描写をじっくり見れば虚構さが勝るのは容易に分かる。

簡単に言えば安っぽいのだ。しかしこの安っぽさもまた狙い通りであり、何故ならこれは映画を作る様を撮っている映画の映画なのだから。

だからこそ本来であればFUCK BOMBERSの面々は決して殺されないはずなのだ。

理由は単純。彼らは社会に組み込まれていない存在だからだ。FUCK BOMBERSの面々は社会からあぶれた存在であることを序盤に描き、だからこそ彼らは映画を作る。

あくまで<社会>の外にいる存在であり、<社会>に含まれず<世界>に属しているからこそ彼らとしてのやり方(映画を作る)で<社会>に接触できるのだと。

だからこそ<社会>の外に居る彼らはあくまで<世界>側の存在であり、当然映画の<外側>に居る存在だ。

だからこそ殺されないはずのFUCK BOMBERSのメンバーが実際には次々と死んでいく。

なぜか。

それはこの映画が、”映画の制作を描く映画”のアンチテーゼ的な側面を抱いているからだろう。従来の”映画の制作を描く映画”であれば、映画の外に居るFUCK BOMBERSのような人間はあくまで外側に構え、彼らは世界を撮りつつ<世界>に含まれない。そのような虚構性、フィクション性をあえて打ち破るためにFUCK BOMBERSの面々は殺される。突入してくる警察はまさに彼らを映画の中から<世界>に引き戻し、そして<社会>の中に組み入れるための媒介であり、同時に彼らこそが世界にとっての<社会>であり、映画の世界の外側に存在している存在として描かれる。そう、ここで警察とFUCK BOMBERSの立ち位置が逆転されるのだ。ここにこの映画のリアリズム性がある。殺戮シーンの安っぽさと対比的だ。このような構造性によって終盤も実は見応えがあり、単なる殺戮シーンやラブシーンとして眺めるだけでは安易過ぎる。

 

映画の最後、長谷川博己演じる平田だけが生き残り、これで最高の映画が作れると歓喜する。その様子を見て観客は彼に狂気を感じるが、実は違う。

ここで描かれる狂気は、観客の狂気なのだ。

平田は血を流しながらも喜び、妄想する。

ヤクザ同士の殺し合いの映像を映画化し、それが大ヒットし賞賛される様子を。

ポイントは、殺戮映像によって映画がヒットするという平田の思い込みにある。

どういうことか?

平田には分かっているのだ。観客が映画に求める映像というものを。

そう、やくざの殺し合いによる残虐なシーンの数々こそまさに観客が求める映像であり、残虐なシーンを観客が求めているからこそ平田は笑うのだ。

平田が笑うのは、求めていた映像が手に入ったから。

求めていた映像とは、観客が求めている映像だ。

観客が求めている映像とは、残虐な映像だ。

ここまでいえば分かるだろう。

最後、狂人のように笑う平田の笑みこそ実は観客に共感した笑いであり、平田は同時にこの映画を鑑賞する観客でもあるのだと。

そのような視点で眺めれば本作品はなかなかユーモアのある映画であって、単に「暴力映画」とはいえない内装を構築する。拙い場面も多いような気はするが(例えば<世界>の構造の変化を示すための警察による突入、残党の射殺などはあからさま過ぎる)、それでも一応は整っている作品だと思えるし、実際面白かった。

 

最後に、堤真一演じるヤクザの親分の台詞で印象的なものがあったので紹介。

「俺たちはリアリズム、奴らはファンタスティック。リアリズムじゃ負ける」

この映画の本質は、この台詞に全てが含まれている。