『チェンソーマン』と記号化された社会
巷で話題のアニメ『チェンソーマン』を観ました!
漫画が大人気とのことですが全くの未読で、今回アニメで初めて内容を知りました。
で、今のところ2話目まで視聴済み。
感想としては、非常に面白かったです。
でも気になったのは、やはりデンジくんの家庭環境について。
そもそも”家庭”というものがあったようには描かれていないし(少なくともアニメ2話目までにおいては)、とても貧乏で、まともな教育も受けていない。
ここでは別段、こうした設定や描写についての良し悪しを言いたいのではなくて、この設定が実に現代的な「記号」に思えので、それをここで解説します。
そこでまず最初に紹介したいのがこの本、
比較的最近に読み、非常に刺激的な内容で大変面白かった一冊。
これについては詳細をいずれ記事として書きたいとは思うものの、ここでは概略のみに留めます。
この本に書かれていることを簡潔に言い表せば、
「資本社会とは、記号を消費する社会である」
といったこと。
簡単な例で説明すると、
「人はどうしてブランド品を求めるのか?」
たとえば財布。
財布の役割というのはお金やカードなどを入れることであり、いってしまえばそれだけの道具だ。
だから別に何万・何十万もする財布を、道具としての機能的な側面から考えれば買う必要はなくて、安価なものでも十分間に合ってしまう。
では何故、高価な財布を買うのか?
理由は簡単だ。
ブランド品を所持するということが、一種のシンボルになるから。
要は「金持ってますよ」というアピールに他ならない。
同時に、お金を持っているということのアピールは、それなりの社会的地位にいることのアピールにもつながる。
何故なら役割を越えた高価さは、それ自体が意味をもたらすからだ。
そして、その意味をもたらすという意味で、ブランド品は記号化している。
このように『消費社会の神話と構造』では、資本社会にあふれる意味を記号として解説する。
このブランドの記号性について、これは別に難しい話じゃない。
というか、はっきりと言えばこんなことは自明の話で、今の時代にブランド品のシンボル性を無自覚でいる人なんてほぼいないだろう。
しかし私は『消費社会の神話と構造』を一読し、非常に感銘を受けた。
その理由は、『消費社会の神話と構造』において解説するのは個々の記号に限らず、”資本主義”そのものの構造を解説するからだ。
つまり先ほどのブランド論、ブランドのシンボルとしての記号化は、あくまで記号化する資本主義における機能、または要素に過ぎず、全体の一部に過ぎないのだと。
本書の名著たる所以は構造の全体、というよりは記号化する構造の大枠を露にすることであり、材料としてのネジではなく、それによって象られ構築された一つの人工物を我々の前に露呈してくれる点にある。
と、このまま『消費社会の神話と構造』について解説すれば、そっちがメインになってしまいかねないのでここで中断。チェンソーマンの話に戻ろう。
しかしここでひとつ、『消費社会の神話と構造』の指摘でハッとしたものを紹介する。
それは消費社会で消費される物語について。
正直、本書を読むまでは物語に過激さが求められる理由は
「退屈な日常から逃れたい」
とした、現実逃避的なものであると思っていた。
だが『消費社会の神話と構造』では、そうではないと指摘する。
『消費社会の神話と構造』は言う。
「人々が物語に過激さを求めるのは、退屈な日常を尊いものにするためだ」と。
これはまさに目から鱗だった。
けれど仕組みは単純だ。そして仕組みは単純なほど、強力に作用する。
つまり私たちが現実とはかけ離れた、一見して現実逃避的な物語を好むのは現実が嫌なのではなくて逆に、この退屈で嫌に思えてしまうような現実を尊く、そして退屈だからこそ良いものだと思えるように機能するために用いられてきたのだ。
簡単な例を挙げよう。
たとえば悪魔なんかが出現して、主人公たちがそれと戦う物語。
そうした世界観だと当然悪魔は暴れるし、大勢の犠牲が平気でたくさん出たりする。
そうした不安定な治安の世界を見て、私たちはその世界に住みたいと思うだろうか?
安全な場所から観賞するには楽しいかもしれないが、これが現実となったら嫌だろう。
だって単純に、それは非常に治安が悪くなった世界のことなのだから。
つまり、私たちはこうした不安定な世界を見ることによって、現実の安定した世界に対する愛情・尊さを抱くことができるようになっているいうわけだ。
さあて、ここでいよいよ『チェンソーマン』の話に戻ろうか!
でだ、何故『チェンソーマン』が現代の記号的な物語であるのか?
ここまで読んでもらえれば、もう分かったと思う。
先ほど言ったように、現代の記号的物語には「現実の世界に対する愛情・尊さを抱けるようにする」といった要素が含まれる。
そして、『チェンソーマン』ではこの要素が他の作品に比べて実に濃いのだ。
簡単に説明しよう。
①悪魔が出現する世界であることで、治安の悪さを示す。
これによって先ほど説明したように、不安定な世界を見せることによって、現実の安定した世界に対する愛情・尊さを抱けるようになっている。
そして、チェンソーマンにはなんとここで二つ目の要素がある。
それが最初に述べた、主人公デンジくんの家庭環境なのだ。
②現代を舞台としながら極貧・まともな教育を受けられていない主人公
これが記号として非常に機能しているように感じられたのだ。
そしてこの記号がどのように機能するかは①と同じ。
そう、悲惨な環境の主人公を見ることで(それも舞台が”現代”であることに大きな意味がある)、主人公に同情、気持ちが寄り添えるというのはもとより、こうした環境にいる主人公を自分と対比することによって、よりこの現実にある「退屈でつまらない日常」が尊くすばらしいものであると感じられるように機能しているのである。
そう言った意味では『チェンソーマン』は非常に記号的な作品であると思うし、同時に非常に現代的な作品でもあると思う。
何故『チェンソーマン』がヒットしたか。
それは鬱屈した主人公が自らの窮地的環境を脱する爽快感や、強者・弱者のより分断化の進んだ現代社会に対する反抗のみならず、そうしたリアルをもはや変えがたいものだと認識する社会によってこそ、この作品は受け入れられたのではないかと思う。
過度に進んだ分断社会に対し、もはや成す術はない。
だったら、社会を変えるのではなく、この普通で平凡で窮屈なリアルを、自分の今のこの変わらない環境を”良いもの”だと思えるようにしてしまえばいい。
『チェンソーマン』に漂う哀愁は、実はこんなところにもあるのかもしれない。