今回、久々に最初から最後までM-1をしっかり観たけど、想像以上に面白かった。
ウエストランド優勝にも納得の面白さで、彼らの漫才にはゲラゲラ笑ってしまった。
そこで思ったのは、やはりウエストランドの毒舌漫才について。
審査員も言及していたように、”現在では「誰も傷つかないお笑い」が主流となりつつある中においてのこの毒舌さこそが快い”というのは尤もで、昨今は誰も傷つけないことこそが最重要とする風潮が強過ぎるように感じられることもしばしば。
誰も傷つけないことが大切なんだから差別なんていうのはもってのほか!
なんていう考えはまさにお笑いと相反する思想ではあって、何故ならお笑いというのは差を笑うものであり、ズレを滑稽にとられることにあるのだから。
今回、ウエストランドは漫才の中で「ユーチューバーはまともじゃない」やら「いずれ警察に捕まる」といったことを発言しては正直ゲラゲラ笑ったんだけど、しかし重要なのはこうした毒舌漫才における構図であり、構造だ。
今回のウエストランド優勝によって毒舌漫才、いや毒舌系のお笑いが最注目されることになるだろうけれど、毒舌としてのお笑いとは単に悪口ではないということを理解しておくことは非常に重要なんじゃないかと個人的には思うのだ。
ウエストランドが毒舌を吐く相手はあいくまで”ユーチューバー”という括りであり、個人ではない。これは意識しておくべきポイントで、毒を吐く相手を”カテゴライズ化された不特定多数”にしていることは留意しておくべきことである。
”カテゴライズ化された不特定多数”に毒を吐くことによって、ダメージを負う相手を減らそうという配慮はもとより、それによって逆に毒を吐いた本人のことを過激な差別主義者的として戯画化するという構造がここに現れる。
つまり毒を吐いた内容ばかりか、毒を吐く張本人そのものも実際には笑いの対象であり、ここに漫才としての面白さが成立する。
だから”毒舌がウケる”といった風潮が世に広まったとして、それを単に”悪口を言う”ことと混同してしまわないようにしてほしい。
他に、お笑いとして扱ってよい対象の差について(太った女性を貶すのはNGで、奇矯なおっさんならOKなど)なんかは語るべき点が意外と多いように感じられながらも、それを綴ると長くなりそうなので省略。
ただ今回のウエストランドが示したのは、単なるM-1優勝だけではない。
昨今の表現規制に対する鬱憤の吐露であり、差別と区別の違いを知らぬ不特定多数への挑戦状であって、笑いとは何か? 人間の社会性とは何か? についてなんかを改めて考えさせる、ひとつのきっかけにも成り得るんじゃないかな? と思ったりしたわけだ。