あっという間にもう九日。
せっかくの祝日なこともあり、今のうちに去年を振り返ろうとこの記事を書くことに。
改めて去年読んだ本を確認してみたところ、数は多くない。
しかし読んで良かったなと思える本は結構あった印象も。
ということで、簡単な感想とともに何冊かおすすめの本を紹介します!
チャック・パラニューク? となる人には『ファイト・クラブ』の原作者と言えばいいかもしれない。
著者の本を読んだのはこれが初めてで、事前情報もなく一読した。
正直、度肝を抜かれた。
破天荒な展開はもとより、印象的なのは何よりその文章。
散文というよりかは韻文のようにして構築された文章の数々。
反復法によって生み出される独自のリズム性は顕著で、脳裏に刷り込もうとするかのように、ぬるぬると脳髄へと文章が、言葉に潜む意味が流れ込んでくるかのような感覚。
小説における映像性。
言葉における空間的な広がり。
それは意味に対する挑戦のようにも感じられた。
非常に稀有な小説で(というかそれはチャック・パラニュークの小説すべてに言えるだろう)、衝撃を受けた作品であることは間違いない。
前々から興味のあった本。
図書館にあったため借りて一読。
面白い。
内容としてはタイトルどおり。
クソどうでもいい仕事のことを「ブルシットジョブ」と呼び、要は”あってもなくてもいい”仕事の紹介所ならぬ紹介書。
「別になくても変わらないんじゃないか?」という仕事を当事者の声から明らかにしていく本で、現代の社会構造に疑問を投げかける。。
社会的貢献を何一つせずに高給を貰い、しかしそうした現状に満足してしまっている者たちも居る。そんな中にも「自分の存在意義って何なのか?」と思い悩む人々は居て、本書はそんな彼らの心の叫びの大集合。
中抜き産業盛んな日本も人のことは言えないね!
伊藤計劃氏の作品としては、これまで『虐殺器官』『ハーモニー』と既に読んでいて、言語的かつ重厚なSFを書く人だなと畏敬の念さえ抱いていた。
早くに亡くなられたのは本当に残念で、私もその才能を惜しむ人達の声に含まれる一人です。
そんな折、彼のエッセイ集的な本書自体は前から手元にありながら積んでいて、去年ようやく一読。内容は、主に映画についての感想など。
その感想が実に面白い。
的を射ているのはもとより穿った意見がいくつも散見され、どれもが的確というよりかは彼の思想の混じった的確さ、という表現が適切だと思う。
癖のある解釈は独自性があって、濃い。
とにかく濃いと言えるし、その濃さこそが唯一無二と呼べるもの。
うーん、おもしれぇ……! と思わず唸ってしまう批評の数々で、『バットマン・ビギンズ』に対する評論なんかは実に見事で、バットマンに対し「お前ゴッザムシティに住んでねえじゃん」は的確過ぎて思わず爆笑した。
スゴ本。
本書が突出している点は、消費社会の構造、その細部にまで潜り込んでいること。
たとえば成金がブランド品を見につける理由について。
理由は「そのブランドが純粋に好きだから」ではなく、ブランド品を身に纏うことで、己の富を誇示することに本質的な目的がある。
なんて言説はもはや一般常識であると思う。
しかし本書はその奥へと更に迫り、解説する。
では、この社会はそもそもどうして富を誇示することに意味を持たせられるのか?と。
ポイントは『消費社会』。
ここで敢えて『資本主義社会』にしなかったことの意味を、読めば納得できるだろう。
個人的に目から鱗だったのは、消費メディア論。
この部分について、端的に解説しよう。
たとえば過激な投稿を繰り返すツイッター民が居るとしよう。
以前であれば彼のこうした行為に対する解釈は、”承認欲求ゆえの行為” ただそれだけで、それ以上の意味はない。そう思っていた。
しかし実際には違い、そこにあるのは日常の差異化だと本書は主張する。
過激な投稿することで自らの立場を危ないものにし、危険な状況は非日常を意味し、そうすることで何事も起こらない退屈な日常、それ自体を尊いものにするための行為。
本書によれば、このような解釈もできるのだ。
これは自分にとって新たな視点で、物の見方をまた一つ広げてくれたことには間違いない。
最後、本書内で見つけた名言を紹介。
「真に豊かな社会とは、蓄えのない社会である」
去年は言ってしまえばパラニュークと宮台氏にハマった一年で、この両名には実に傾倒した。
だからこそ、あの事件は実に痛ましく、一報を聞いたときには胸が締め付けられる思いだった。無事で本当に何よりだといえる。
というわけで去年はパラニュークと宮台氏の本を数冊、手に取り読んだわけだけど…
互いに共通する点があるとすれば、どの本も素晴らしかったということだ。
その中でも本書を挙げたのは得るものが大きかったためであり、初学者向けの内容でもあったためでもある。
本書は日本の社会情勢をサブカルチャーを通じて解説し、相互浸透的な側面(サブカルチャーだけに)があることを統計的な手法も用いて丁寧に示す。
そこから見えるのは日本文化の推移、というばかりでなく日本倫理の推移もまた伺うことができ、道徳形成に日本のサブカルチャーがどれほどの影響を与えてきたのかが見えてくる。それ故、大変勉強になった一冊。
個人的はエンタメの勉強としての意義が大きく、クリエイター必読の一冊といっても過言ではない。
本書を読めば「あの作品がヒットしてあの作品がヒットしないのはなぜか?」なんていう疑問は瞬く間に氷解するだろう。
オリバー・サックスといえば『妻を帽子と間違えた男』で有名な脳科学者。
そんな彼による一冊で、内容としては言語学寄り。
本書も一読することでまた認識を大きく覆された一冊で、得るものは大きかった。
というのも本書を読むまでは正直”手話”といったものに興味、関心が薄く、『聲の形』
でその存在を大きく意識したもののその後は特に何もなし。
そんな折、本書に出会って大きく影響を受けた。
まず言っておくことがある。
実に不遜で誠に申し訳ないことだが、私は本書を読むまで手話を発話という形の言語より下に見ていました。本当にすみません。
しかし本書を読むことで、その認識が実に安易で脳たりんな考えであったことを思い知らされた。
手話とは四次元的な言葉である。
本書において、手話はこのように紹介される。
それは手話が空間を用いるからであり、同時に速度も関係するからだ。
簡単な例を示そう。
たとえば口で「早くこっちにきてー」という場合。
この時「早くこっちにきてー」という言葉自体を早口で言おうと、ゆっくり喋って言おうとも言葉の意味自体に変化は生じない。
しかし手話の場合は異なる。
示す手の動き、その動きが早いか遅いかによってなんと意味が変化するのだ!
手話のことを空間的、四次元と表現するのはこのような理由がある。
空間的、時間的側面を持つ言語は現存するものでは手話だけなのでないだろうか?
そういった意味では手話の可能性は著しく、発話の上位互換になり得るポテンシャルがあるのでは? と思わず感じてしまったほどだ。
そして手話が視覚的な言語であり、イメージ的な言語であることも非常に重要な点である。そもそも、思考する際に言語は必要か?(ここでいう言語とは我々が一般的に用いる言葉としての言語である)
この興味深い問いに対するアインシュタインの答えが本書にあり、最後にこれを示す。
「言葉、つまり書かれたり話されたりしたものとしての言語は、私の思考装置では何の役割も果たしていないと思われる。心のなかにあって、思考の要素として役に立っていると思われるのは、ある種の記号や、視覚的で力強いタイプの……明確だったり不明確だったりするイメージなのである。習慣的な言葉をはじめとする記号が、細心の注意を払って探求されなければならなくなるのは、ようやく第二段階に入ってからのことなのだ」