「みんな違って、みんないい」の矛盾
現代は多様性の時代であるとよく耳にする。
一人ひとりが違う人間なのだから、違って当たり前。
だから価値観を押し付けては駄目ですよ、と教育する。
異なる価値観を認め合いましょう、と説明する。
みんな違って、みんないい。
これに備わる矛盾が、現代社会を席巻している。
そんな気がしたので、これを書いてみた。
ところで皆さんは”麻布競馬場”という方をご存知だろうか?
私は最近この方の存在を知り、きっかけはアベプラだった。
”タワマン文学”というのは非常に興味深く思えた。
ただ一点、気になったのは特別さと承認欲求について。
タワマンに住みたい理由として、結局は自分が勝ち組であることを誇示したいから。
自分は特別な存在であると信じて疑わず、抱いた幻想が現実にならないことに対する失望と欺瞞。
そうした心の機微を捉えたことで共感を呼び、話題になったのだとは思う。
だが自分が本当に特別な存在であれば、そもそも共感を得られない。
何故なら”特別”とは他とは異なることを示すからで、”特別”でありながら”共感”を得ることというのは本来矛盾しているのではないか。
よって、著名人などの”特別”な存在が”共感”を得るのは、それは彼らに備わる”特別じゃない”部分によってであり、本当に特別な部分は共感されない。
他の人は持っていないものなのだから当然だ。
その上で、”タワマン文学”では成れなかった(成れたとしても)特別さを同じ特別として認識し、共感できている。
だからこそ言ってしまえば彼らが謳う”特別”は特別ではないのである。
それは社会的なものであり、イデオロギー的なもの。
そうした自覚を抱いているからこそ、刺さるんじゃないのかと思う。
面白いね。
ここでタイトルの件に戻るわけだけど、こうした論は現代の多様性に対しても言えるでは? と思う。
みんな違って、みんないい。
多様性の尊重は、個々人の特別さを厭わない。
その代わり、その人は共感を得られない。
それなのに、人々は共感を求めてしまう。
だからこそ齟齬が生まれる。トラブルが生じる。
人は共感を得るために妥協し、人に合わせる。
価値観の共有こそ、共感の根底にあるからだ。
みんな違って、みんないい。
だけどみんなと本当に違えば、共感を得られないよ。
こうしたことに気付いておくことは大切なんじゃないかと、多様性についての考え方ばかりが先行する世に対してちょっと思ったり。