ブランショ、ディスクールのイメージ、想起について
今年はブランショに嵌った一年だった。
しかし未だ理解できたとはいえず、それでも尚ブランショの思想は面白いなと思うことが度々。
ディスクールによって想起するイメージは誤りであり、ディスクールそれ自体の本質からはかけ離れたものなのかもしれない。
しかしおそらくそれは、そのディスクールが何を指しているかによって異なるはずであり、風景描写と人物描写を混合していることから生じる誤解なのではないかと思う。
画一的な風景に対する客観性の希求と、個性それ自体を画一的に捉えて人を観ようとする主観性。
区別するべき対象への描写が同一性になることで、生まれる乖離は想像以上に大きいものなのかもしれない。
この辺りに主観性の問題と、AI出力による認識の問題が潜んでいるような気がする。
覚書。備忘録。
雑記
見逃しで先週のアベプラを視聴。
『若いうちは貯蓄?散財で人生の糧に?』という回が面白かった(YouTubeでもあります)。
【金金金】若い頃は散財?貯蓄?投資?人付き合いや体験に使うべき?老後の心配っていつから?若者の人生設計を考える|アベプラ - YouTube
そこで面白いなと思ったのは「何事も経験!」といった意味での散財は、外への見識を広げることで内側を深くするということ。
一見、相反する内と外を結び付けている点はすごく面白いと思うし、こうした見識はアウタースペースからインナースペースへと重きを移していったSF史とも関連性があるように感じ(半ば冗談で言ってます)、ニューウェーブ的な物の見方というのは物質的により豊かになった現代こそ見直す必要があるのかも。
また、経験主義者は経験によって得たものをどのように出力するか、というのも面白い問いかもしれない。
それは文章であったり口述であったりするのだろうけれど、語り得ない部分が存在するはずだ(そうでなければ体験せずとも読めばいいし聞けばいい)。
この部分の再現性が存在しないのであれば感情はいつまでも感情のままで、だからこそ尊く、必要であり必然性があって、それでもついそれを言語的なもので捉えようとしてしまう。
なので人工知能が現状、言語化できないものをどのように言語化していくのかという点は非常に興味深い。
『ラ・ラ・ランド』を観た。
今更ながら視聴。
感想としては、非常に面白かった。
ただひとつ気になった点がある。
遠い将来、現在で言うところの”お金”という概念が消滅した後の世界では、この映画はどのように観られるようになるかということだ。
本来ならこれだけの記事にしようかと思ったけれど、いつも説明不足だと言われがちなので補足。
この映画のテーマは分かりやすく見れば、芸術家について。
自らのこだわりを捨てずに意思を通すか、それとも世間に迎合して俗的になるか。
現実的に考えれば生活するには金が要る。
金を得るためにはある程度、世間に迎合しなければならない。
自分が良いと思っているものが、世間の思う”良いもの”とは限らないからだ。
そこで葛藤が生まれる。
我を通すか、社会性に準じるか。
自分のこだわりと世間の需要が合致するなんていうことは本当に稀だ。
そこで芸術家は遜る。したくもないことをして身銭を稼ぐ。
生きていくために。
迎合しない芸術家は自分の意思を貫き通して野垂れ死ぬ。
これは前世紀の話じゃない。現実に、今の時代にもある話だ。
しかし当然ながら、芸術家は自らが表現したいものを表現できる。
ただ単にお金が入らないというだけで。
つまり芸術家は芸術家らしく生きること自体は可能なこと。
お金が必要ではなく、他人からの承認がなくてもいいのであれば、
その芸術家は芸術家として生きていくことはできる。
重要なのは、承認欲求が満たされなくても人は死なないが、金が全くなければ人は死ぬという単純な事実である。少なくとも金銭的な不自由さは死ぬ確率を格段に上がる。
だからこそ遠い将来において、現代で言うところの”お金”といった概念が消失した世界においてはどうなるか。この映画のような芸術家論、芸術家の実態がどのように変容し、価値観として据えるようになるかというのは非常に興味深く思えたりした。
以下よりネタバレなので注意!
本映画を見終えたときの率直な感想。
「ダンサー・イン・ザ・ダークじゃねーか!!」
『闘争領域の拡大』
ウエルベックのデビュー作。
最近妙に気になり、手に取ってみた。
内容としては自伝的であり、リアリズムを感じられる作品。
エッセイ的な趣もあって、ウエルベックの人物像が鮮明に感じられた。
技巧さは風景描写の内に見られる心の描写。
あとセックスカーストを資本主義に呼応させての解釈は面白かった!
といっても読んでて思ったのは「それ、他の事にも当てはまらない?」といったことであり、言い掛かり感は否めない。
しかしそうした疑念は多分、セックスカーストにおけるモテの局所化と資本主義的富の集中、といった現象が単純な二極化に終わらないからだろう。
そこに潜む社会学的要因や進化生物学的な要素こそが、炙り出す価値のあるものに思えたり。尤も針小棒大といえばそれまでかもしれず、それまでだからこそ語るべきことなのかもしれない。
真理は、些末なことにこそ宿る。
本書で語られる恋愛観は悲壮感にまみれ、慈悲に乏しく、偏見の塊である。
だが人は誰しもが陰で己が恋愛観を語りたがる。
静謐さを伴い、自らの正当性を主張する。
このときばかりは正論がなくなり、愛のカタチこそ多種多様であると表面上に置いて認める。それは愛という普遍的でありながら実存しないものに対する残滓を掴もうとする努力であり、ここにこそ未だ開拓されていない自由が残されているのかもしれない。
だからこそ、この小説に惹かれるのであろう。
この作品は、そういった作品だ。
ネットでの誹謗中傷について
ネットやSNSにおいて、著名人への誹謗中傷が社会問題となっている。
一方的に悪意ある言葉を吐くことの問題性はもとより、そもそもここにある根本的な問題への指摘が足りてないような気がするので、これを書いてみた。
どのような問題か?
端的に言ってしまえば当事者意識の欠如と、名指し批判の意味についてである。
ここで試しに考えてみてほしい。
たとえば、ある人がこう言ったとする。
「日本人は全員馬鹿だ」
この言葉を聞いて、あなたは心底傷ついただろうか?
おそらく大半の人はそうではないだろう。
何を言ってんだ。そんなわけないだろ。
実際、というか深く検証せずともこの発言が偽であることは明確である。
寧ろ重要なのは、この言葉を聞いて”あなたがどう思うか?”ということである。
全然気にもしなかった? オーケー。じゃあ次にいこう。
仮に、あなたは○○高校に通う2年B組のクラスメイトだとしよう。
そこでこう言われたとする。
「○○高校の2年B組の奴らは全員馬鹿だ」
この言葉を聞いて、あなたは傷ついただろうか?
このぐらいでは傷つかないかもしれない。
だが同時に、ハッとしたはずだ。
何故なら「日本人は全員馬鹿だ」と言われたときよりも、
「○○高校の2年B組の奴らは全員馬鹿だ」と言われたときのほうが、身に迫る思いがしたからだ。
その理由は単純で、言葉のうちに含まれる対象がより具体的にフォーカスされたからに過ぎない。
”日本人全員”では1億人中の1人であることによって自分事に感じなかったことも、”○○高校の2年B組”となれば30人中の1人となることで自分事となる。
このとき感じた違いを考えることは、非常に重要である。
この○○高校を、今あなたが所属する組織・社会に当て嵌めて、もう一度考えてみてほしい。
あなたが所属する組織や社会が名指しで批判されたとき、あなたはどう思うか。
少なくとも快いはずはないだろう。
そして本当に重要なのは、批判されるのが組織や社会といった集合体であったとしても、そのような快くない思いを抱くのだということを深く認識することである。
さて、最後に一つ。
面倒であっても、考えてみてほしい。
今度はこう言われたとする。
「○○は馬鹿だ」
○○とはあなたのことだ。
”日本人”という括りでもない。
”2年B組”という集合体でもない。
他でもない、あなたのことだ。
あなたは、あなた自身のことを否定される。
他でもない、あなた自身のことを。
この言葉に対して、あなたは何を思うのか。
あなたはどう感じたか。
逃げようのない言葉に対して、あなたはどう受け止めるのか。
現代のネット社会において、どのようにして誹謗中傷をなくしていくのか。
結局のところ、それは個人への批判と組織への批判の違いについて。
その違いについての理解を深めることが、今のネット社会においては誹謗中傷をなくすための第一歩になるのではないかと思う。