うーん、正直、期待はずれだった一冊…。
というか、内容が中高生向けで、端的にいえば浅かった。
本書では、
「生きる意味とは?」
という問いに対しての、哲学として捉えた際の回答として
「その答えは個人的感想の言い合いにしか成りえない」
とする。
そして本書において問題なのは、そうした言葉のブーメラン性。
要するに、本書における著者の主張もおおよそがこの「個人的感想」の域を出ておらず、「空はどうして青いの?」とした問いに対する答えも同様。
子供がそう訊ねてきた時、それは本質的な答えを欲しているのではなく、疑問として呈すことを欲しているのだ、と主張する。
ここではなにも、「そんなことはない!子供はその原理としての真理を知るたがっている!」と言いたいのではなく、こうした反論が間違いであることは容易に述べられている。
ここで言いたいのはそうしたことではなく、
誤謬なのは、そうした答えを、つまり「本質的な答えを欲しているのではなく、疑問として呈すことを欲しているのだ」という意見を、いかにもそれ以外にはありえない、として考えることであり、こうした一面性な答えこそないとするのが哲学であり、同時に「本質を問い詰めることは無意味である」とまでする姿勢は、まさに哲学者としてはその本質を問われるのでは?と思わずにはいられなかった。
一番の問題として本書に問われる原因とはつまり、形而上学的な問いに対する逃亡に他ならない。
なぜそうなっているのか?
なぜそうなのか?
普遍的な疑問に対して言語的な解明すら用いず、それは「ウィトゲンシュタインの前期思想をかじっただけ?」と思わせるような浅くて逃げ腰の回答ばかり。
「そうした疑問は、○○した理由から無意味である」
との解説はわかりやすい。
同時に独我的であり、自信のないところは「…のように思われるのです」などといい、
変なところで自信あって、「つまり○○なので、○○はありえません」として、
独我論を通して客観性を語る以前に、主観による意見が多すぎる!
疑問性を抱かせ同時に一番面白いのは、著者の自分自身における主観的意見に対しての、その主観性に気づいていないところであり、そのため、自分の言葉がそのまま事象の説明とに対する矛盾につながっているということ。
例えるなら、天下った議員がぼったくりバーを非難しているような。
読んでいて感じた違和は結局、哲学としての物の見方を解説しているにもかかわらず、一面的な見方でしか解説していないことであり、それをさも当然といった風にしていることにある。
これでは視野を広げようが、実は閉ざされておりトゥルーマンショーのように限られた空間を示すのみ。
結局視野は制限されており、具合が悪いのはそれをトゥルーマンショーの舞台であり、建屋内であるとは言わないことであって、欺瞞的。
初心者向けの哲学本として、多少ふざけて書いてる?
なんてことさえ思える一冊。
感情論でしか答えられない問題には意味がない、
と断言しておきながら、本書では著者の意見がおおよそ感情論という滑稽性。
ユーモアをテーマにしているのであれば、納得の一冊だった。
なぜ人間は八本足か?
表題にある言葉。
これは言語としての構築から導き出される、
「意味のない質問」としての例。
事実としての前提がない質問は答えようがなく、したがって無意味。
「なぜ人間は八本足か?」
こうした問いは無意味なのです。
などと語っているが、それこそ訊かれた事がないからだろう。
よってこれは訊かれた事があるならば当然無意味な質問などではなく、
答えるべき答えも存在する。無意味な質問などないのだから。
じゃあこれには、なんて答えるの?
ときかれれば、こう答えるべき。
「そりゃあ、お前さんが三杯もウォッカを飲んだからさ」