『新実在論』についてとその他
この本
を読んでマルクス・ガブリエルの唱える『新実在論』がどのようなものか多少なりとも分かったので個人的まとめ。
内容として対談形式で進み、さらに例えも多く示すことですこぶる分かり易かった。
ではマルクス・ガブリエルが掲げた『新実在論』とはどのようなものか?
一言でいってしまえば「ネット社会に蔓延している相対主義的見方への批判」である。
どういうことか?
相対主義といえば「価値観って人それぞれだよね」といった多様性を認める考え方で、多様性の重視は本来、固定観念を取り払う上では重要。
ネットなんかはまさに多種多様の意見を表明できる場だから「世の中には色々な考え方があるんだから、それらを邪険にせず大切にしよう!」なんていうもの。
こうした考え方を「それは悪だよ!!」なんて即決めいてはもちろん言えず、正直にいえば自分もこうした考え方「多様性って重要だよね!」には同意していた事もあった。
しかしマルクス・ガブリエルはこうした相対的な多様性を否定する。
何故なら相対的として多様性を全面的に認めてしまえば、人の数だけ真実が生まれてしまう可能性があるから。
相対主義的な考え方では多様性を尊重する。
結果、そうした多様性を全面的に認めてしまうと、明らかに間違っている真実さえも「そういう捉え方もあるよね」と誤りの真実を実際の真実として捉えることを肯定する可能性が生まれてしまう。
世の中に絶対はない。
しかし「絶対に良くない」ことは存在する。
その上で『新実在主義』が唱えるのは、ある種における「普遍的真実」。
これまでの構造主義や相対主義者は「いいや、物事の真実とはその人物の生まれや所属する社会、歴史によっても異なるものだ!」として「普遍的真実」という存在には異議を唱える。
だがそこでマルクス・ガブリエルが唱える「普遍的真実」とは、
「アウシュヴィッツでの虐殺」や「女性に教育の権利を認めない社会」など、こうした歪な行為を「絶対的に間違いである」と断言できる真実である。
これは文化や社会が違えど「アウシュヴィッツでの虐殺は良くない行為だ!」と普遍的に唱えることができるからこそ「絶対的な真実」なのであり、こうした事こそは普遍的真実として認めるべきものなのである。
よって新実在論は「これならば普遍的真実と呼べるであろう」事と、そうでないことを選定する思考を持つことをまず提唱する。
ネットでは多様な見方を強調するあまり、実際よりも多くの「真実」が作られてしまっている。
こうした現状だからこそ、相対的な多様性を無条件に肯定するのではなく、このような時代だからこそ、普遍的真実を考える必要性を説く。
するとマルクス・ガブリエルの言う『新実在論』とは、実は至ってシンプルな考え方であって、今のこの雑多になりつつある情報社会だからこそ必要な思考力でもありモラルでもある。
そして今だからこそ価値のある哲学では!と思う限りである。
追記。
例の事があってSNSでの誹謗中傷についてちょっと思ったこと。
それはちょうどこの記事との関連性を感じたからで、それは「過多な多様性を認める社会の危険さ」ということについて。
ネットの良いところは多様な意見を表明できるところにもあって、マイノリティがマジョリティとなることも決して悪いことじゃない。
誰もが発言者になれる環境は世間の不正を暴いたり世の不平不満を混在化することには役立っているかもしれない。
もちろん世の中の善悪とはすぐさま「黒」か「白」に分けられるほど単純なものじゃない。ある出来事に対し、視点を変えれば「悪いのは逆じゃない?」となる事象も多々ある。しかしだからといって「善悪の価値観も人それぞれ、立場や環境によって異なるのだからどんな行為でも頭越しに否定するのは良くないよね!」という意見がまかり通るかといえばそんな事はなく、「相対的なものとして捉える多様性の尊さ」とは絶対的には正しくない。
あらゆる多様性を認めてしまえば、あらゆる言い訳を許してしまう。
「そんなことはおかしくて間違っている」という当たり前のことを、見え難くしてしまっている原因とは何だろう?
ただ人間みんなが聖人というわけにはいかないし、誰だって腹は立つし悪口を言いたい時だってある。だから「悪口を言うな!」と一方的に指摘するのも批判するのも無理な話。だったら行動を変えるのではなく行動の内容を変えればいい話。
悪口書くのも皮肉を加えればユーモアになる。
罵倒もエスプリ入れれば笑みになる。
「きもい」も「あんた見てれば痩せる」と書けば、相手の醜悪さを嫌悪する言葉であっても違って見える。
「消えろ」も「お前は小便で真横に来るやつみたいだな」と書けば、伝えたい言葉の意味は同じでもニュアンスが違う。
そんな風に悪意とともにジョークな心もセットで抱いてくれたらなと、そんな理想郷をちょっと思う。