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book and bread mania

-日々読んだ本の書評 + メモ集 + パンについて-

”物語”の性質について思う駄文

orangestar.hatenadiary.jp

とてもしっかり書かれていて「うーむ」と感嘆の如く唸ってしまうが、多少違和を感じるのは、おそらく”因果関係”という言葉の捉え方のズレ、それと同時に”因果関係”という言葉を過信しているからであると思う。

 

物語性と因果関係について述べる中で、因果関係が破綻した例としてあげるこの話。

 

  • ハンサムスーツ』っていう話がある
  • あらすじ:ブサイクが、ハンサムスーツを着て、イケメンになるけれども、イケメンになってブイブイいわすけれども、その中で、本当に人にとって大切なものは、外見ではなく中身だ、ということに気づき、美人とブスの仲良くなった女の子のふたりのうち、ブスの女の子を選ぶ。けれども実は、そのブスの女の子は、ブズスーツを着た美女で、見事、主人公のブサイクは、美人の彼女を手に入れる。
  • このおはなし。厳密に考えると因果関係が破綻していることに気がついただろうか
    • 外見よりも中身の方が価値がある、と気付いたのに、最後に手に入るのが美人

 

 

これにはおそらく直接的な狙いがあって、そもそも上記の物語が”因果関係が破綻している”とするならば、それは”美人=中身が悪い”ということになってしまう。本作品はそこを取り上げたのではなく、物語の主張は ”外見は関係ないよ!大切なのは中身!” ということ。

つまり、 ”因果関係が破綻している” として見えるのは、それは外見が良い=中身は悪という先入観が物語を通して外れていないからであり、故に、この物語が主張するのは

”外見よりも中身の方が価値がある” +  ”外見の良し悪しは関係ない” ということ。

よって、たとえ相手が最後に美人であろうとなかろうと、実際にそこには”因果関係”の破綻は無い。仮に最後、ブススーツから出てきたのが美女じゃなく猫だったとしても、そこに”因果関係”の破綻は無い。だって外見は関係ないだろ!とするプロットなのだから。

 

そしてもう一つ加えるならば、”因果関係”の捉え方。

確かに貴種流離譚は万国の物語において見当たる共通性のものだけれど、それは”ユーモア”という存在のように多少変更、国によって異なる物であり、それは当然、国によって人の価値観が違うからであり、”ユーモア”が当初ドイツに翻訳された際、機嫌、気まぐれという意味合いである”ラウネ”という言葉に訳されたのと同じようなこと。*1

だからもし、自分の価値観のみで物語を見て「これは因果関係が崩壊している!」などというのであれば、それは見方を知らない、もしくは感性の違いだけであり、万華鏡をゴミが入っている筒と思う部族と変わらない。多方面から見れば因果関係に気付くであろうし、言葉のサラダに意味が無いわけでもない。しかしそれに気付く人がごく僅か、と言っただけの話。

 

また、強固に”因果関係”に捉われるのはユーモアの不足では?と思う。不条理な自体に「ナンセンスだ!」と唱えるのは、ひとえにユーモアの欠落に思え、そのような前世紀における一部のフランス人的発想はもったいない。

不思議の国のアリスを読み、「ウサギが喋ることの因果関係は!?」とナンセンスを訴えるようでは物語を楽しめず、故にハンサムスーツにしろ、傘地蔵にしろ、その因果関係の欠落を指摘するならば、「そういうものなのだな!」と独自の解釈を用いて楽しんだ方がずっと良い。どうせ、世の中は不条理だらけなのだから。フィクションの世界にまで”因果関係”を訴えるのならば、先ず現実世界での”因果関係”を求めた方がよっほど不条理な事に気付くのでは。

仮にナンセンスさを訴えるにしろ直接的に言うのではなく、暗喩的に言えばより響き、効果があったと思う。

例えば上記の映画ハンサムスーツに対して、否定的に言うなら

「この映画が教えてくれる事は、スーツ着る奴はホラ吹きってことさ」

もし肯定+否定的な意見なら

「大丈夫、ブススーツから出てきたのが美人であろうとブスであろうと、どうせその後は変わらないから」的な風に。

 

 

物語において重要なのはもちろんプロット。しかしそこで決して疎かにしていけないのがユーモアであり、それはプロットと同様、もしくはそれ以上に重要視すべきもの。ユーモアは暗喩的であり、抑圧された意識の代弁者。

不思議の国のアリス然り、動物農場然り、各々は世の真理や不条理を人間でない者たちが代弁。しかしもしそれらをナンセンスなく、人間いわゆる”人物”が言ったところで、誰が容易に納得する?

 そして因果関係をぶっ潰す可能性を持つユーモアこそダイナマイトみたいな物で、その扱いには慎重を極めるが威力は抜群。

因果応報を求めるのが、生きる上での性と言うならば、対極にあるその死さえもあざ笑うユーモアと言う概念には畏敬の念を抱きたくなる。

尤も、ユーモア自体はそれを望んではいないだろうけど。

 

 

 ”因果関係の無い話は成立するか?”は面白い疑問。個人的には”成立する”と思う。

それは例え物語に因果関係が足りず破綻していようが、錯視のように人は個々の勝手な解釈によりその部分を補完するため。右脳がぶっ壊れているヒト等はどうなるか興味深いけど。後は円城塔の作品でも読めばいいのでは?

 

リンク先の記事同様、本記事も徒然書いた未完成で稚拙な内容なので、その辺はご勘弁を。故に、最後には「ドーナツみたいな記事だな」とでも評されれば、それで良いかと。

 

www.gizmodo.jp

 

 

Self-Reference ENGINE (ハヤカワ文庫JA)

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*1:しかし後に、”ユーモア”を”ラウネ”と訳すのは多少語弊が生ずるとのことで変更された