book and bread mania

-中途半端なサウスポーによる日々読んだ本の記録 + 雑記 + パンについて-

ふとした日常の中で気づいた小さくて大きなこと

備忘録メモ的にも残そうと思う。

 

食パン二枚を食べる際にふと重さを量ってみた。

 

キッチンスケールにパンの一枚の乗せると47g。

もう一枚を載せると表示は91g。

ということは、当然あとに乗せたほうの食パンの重さは44gである。

 

当たり前すぎるのだが、そのときなんとなく一枚目に乗せた食パンをどかしてみた。

すると二枚目の食パンの重さとして表示されたのは43g!

 

なんてことはない、事の顛末は実に些細でありおそらくは小数点以下同士の加算によって結果的に91gになったのであり、うちのデジタルスケールは小数点以下は表示されないため気づかなかっただけに過ぎない。

 

しかしこの気づきに含まれる一種の慧眼的示唆にも同時に気づき、思わずハッとした。

それが備忘録として書き残しておこうと思った理由であり、有意なる発見に繋がるための知見として役立つ事態であると感じたからである。

 

なるほど、短絡的に見れば「先入観を疑え!」とも取れるだろうが、ここで思うのはそれだけのとどまらず、こうした盲目的な事態に対する気づきこそ多種多様の事項に対してアナロジー化できるものだなと思えたからであり、少し哲学的に言えば「数学における完全性が現実の世界において完全に反映されていない理由」こそ、ここにあるのだなということにある。

砕いて分かりやすく言えば「人間がなぜ”絶対的”な理論的思考を取れないのか?それは人が1+1を2と理解しているばかりではなく、それを2以外の数字を答えとしての考えられることにある」といった具合であり、人の論理的思考に混じることで論理的思考を遮らんとするその変数的な存在そのものが「実は数字ではない」という風に、異なる次元(事象としたほうがいいかもしれないが)の可能性を臭わせることを『気づかせる』または『勘ぐらせる』というこのメタ的な気づきに対する気づきことが重要なのでは?と思ったわけだ。

 

 

概要をもっと砕いて分かり易く示せば「一人の人間と一人の人間を足したところで、その答えは”2”以外の可能性を持つ」といったこと。

 

総括すれば「隠れた数字によって大きく異なった結果を導き出す可能性がある!」と言うことよりかは寧ろ「隠れた数字それ自体を別の事象として捉え直すことの重要性」を訴えているように感じられたということだ。

 

 

 乱文ながら備忘録としてのメモなので一応ここまでに。

2020年の冬アニメとして最高だった『ID: INVADED イド:インヴェイデッド』と、ふしぎな魅力を醸した『ネコぱら』の話

2020年冬アニメもこの時期となるとほぼ最終回を迎えた。

そのうちではそれなりの数を観ていたのだけど、ずば抜けて面白く、そして完成度が高かった作品が『ID: INVADED イド:インヴェイデッド』。

これはもうおそらく今年一の作品と言って過言ではなく、これを超える作品は出てこないであろうと断言して言えるほどには素晴らしい内容と出来栄えだった。

プロット、演出、BGM、効果音までも秀でており、まさに文句のつけようのない作品。

さらにSF要素も満載で個人的にはかなりツボな内容で、老若男女すべての人にお勧めできる作品ではないものの(「難しくてよく分からん」や「ややこしい」といった声などもいくらか聞いたため)、映画のインセプションやパプリカの世界観が好きな人、ミステリーもしくはSF好きであって考察好きと来ればまさにうってつけ!の作品ではあり、とにかく面白くてお勧めしたい。普段、アニメのDVDなどには興味がないけれどこれに関しては「欲しい…」なんてつい思ってしまえるほどの作品だった。

(あと観る際には出来るだけ作品情報を調べずに視聴することをお勧めする。ネタバレなしで見ることでより楽しめるのはもちろんのこと、初見でも分かりやすく丁寧に作られているのも本作品の特徴であり良さの一つ。しかし一回の視聴で全て理解するのは難しく、そこで解説を眺めてハッとすると言う楽しみ方が乙である)。

 

 

対して『ネコぱら』と言うアニメについてちょっと語る。

こちらアニメ作品はイドとは打って変わってその内容、あらすじは至極単純であり擬人化したように見える猫が人の姿として日常生活を謳歌、お店を手伝ったりなどしてその様子を描写!したに過ぎない内容であって、その内容とはあってないようなもの。

所謂、一種の「日常系アニメ」と言われる作品らしく、あまりなじみのないものだから「これほど中身のないアニメとは!」という一種の驚きと「意図がないのが意図?」なんて怪訝な思いも少なからず含有しながらも気付けばあれよあれよと言う間に全話を観てしまっていた。

そこで気付いたのはまさに「中身のないアニメの重要性」なんてことであり、それは実に単純なことで情緒的かつ夢想的なこと。

仕事を終えて、疲れて帰ってきて、さあアニメでも少し見ようかな。

そんな状況において未だ疲労に頭がぼぉーっとしている時分にネコぱらを観る。

するとかわいらしいキャラクターたちが無邪気に悪意もなくじゃれあい、楽しそうに過ごしている。そこでは喧嘩があろうが誰もが相手を思いやり、そして大切に思い、敬い相手のことを心から大事にしている悪意ゼロの空間。

そんな醜さの一切ない澄み切った世界などが現実には当然存在しない(けれどまあ、そうした汚さなや利己的、混沌さを含む世界を全否定するわけではないけれど)。

そんな折に垣間見せる「ネコぱら」の世界観とはつまり、桃源郷的でありまるで夢の中の世界であると言えるだろう。

 

そこでこのアニメをつい見てしまうという真理性に気付いてハッとした。

つまり疲れている時分においては、自分は起きながらにして夢を見たいのだ!

 

とすればなるほど、こうした「日常系」と呼ばれるアニメ作品が蔓延る理由も合点がつき、誰しもが完全平和な理想郷としての世界を夢見るのではなく、まさに夢を見るかのごとくしてその作品を見ているのだ。

起きながらにして夢を見る。

そんな矛盾的な状態を醸し、作り出すこの「日常系アニメ」というジャンルの特筆さと作品としての確固たるスタンスを、このアニメは教えてくれた気がする。

(と言っても別段「特別にお勧め!」というわけではないのであしからず。ネコぱらを観るなら先にイドを観ろ!ってぐらいにはイドを勧めておく)。*1

 

 

 

*1:おそらく「この二つの作品はわたしも観ていたよ」といった読者ならば、今回の記事の裏タイトルが『夢』であることには気付いていたと思う。

ちょっと不思議な夢

不思議な夢を見るとわりかし気にする性分で、夢占いで見た夢について調べたりするんだけど、今回の夢に関してはネットで調べても夢占いに載っていなかった。
というそんな夢。

どんな夢だったかというと、
『夢の中で夢を見る』というのはわりとあることと思うけれどそれと似ていてちょっと違った。


夢の中で夢を見てそれの夢占いを調べる夢。


そんな夢。
延々と循環する螺旋階段みたいな構成の夢で、おぼろげながらも覚えているのは夢の中で夢を見て、さらにバスに同伴している見ず知らずの友人から「こんな夢見てさー」と話しかけられてふんふんと頷き、「じゃあその夢を夢占いで調べてあげるよ!」とその友人の夢を夢占いで調べる夢。それで夢の中で夢占いの結果を見て「なるほど」と妙に納得しても居た夢。

なんとも複雑怪奇で、ここまでに何回「夢」と書いたかわからないほどではあって流石に「夢の中で夢占いをする夢が示す夢の意味とは」をググっても見つからず。

そのうち夢占いが本来の意味ではなく、『本物の夢かどうかを判断する占い』となってしまいそうな夢占いについての夢だった。

読書における『三重性』

昨今気付いたこととして、読書における三重性が挙げられる。

読み方としてたとえば小説の場合、綴られる視線に従い実直、素直に読むのが普通の読み方。

それに加え、メタ的な読み方。つまり作者の目線や構成に目を向けながら読む行為、これが読書における「二重性」。

ところが最近、これよりも上の読み方があることに、はっと気がついた。

それこそが読み方の「三重性」であり、従来の普遍的な読み方、メタ的な観点からの読みに加え、「現実世界と接合した」読み方、これが「三重」の読み方といえよう。

 

具体的にはどのようなことかといえば、いたってシンプルである。

 

つまりそれは生活実利に直接関与、加味し得る読み方であり、ある種虚構とフィクションの垣根を超越させた、ひとつの実践的・体験的読書のことである。

 それはフィクションがもたらす影響力を現実世界へと呼び寄せ、添付する行為であり、読書によってもたらされる内面的革命を、外面へと突出させる行為である。

 するとここにおいて読書という個人的な行為はその範疇を広げ、己へと穿たれた影響力は瞬く間に散布する。

 散布したそれはその影響により世界の見方を変貌させ、変貌させた意識はすなわち自己へと還元される。

そのとき個人の意識へ浸透し表象する意識こそ、読書との共同作業によって培われた新たなる具現化した自己でありこれによってようやく読者はその世界構造がもたらした影響を好意的に知るのである。

 

 

 

 と、哲学書風に述べればこんなふう。(多分

 

しかしまあ実際に言いたいこととは実にシンプルで、要は「本は読んで終わりではなく、本を読んで意識が変わったと思うのならば、それを行動に!」ってことだけ。

 

でもこれ、実にシンプルながら実行するのはとても難しい。

 

たとえば、心優しい青年の物語を読み終え心は穏やかに「ああ面白かった」と読了感も清々しく本をテーブルに静かにそっと、生き物を扱うごとく丁重に置き窓の外から肌をなでる微かな隙間風にさえ友愛の気持ちを抱いてさっそうと椅子から立ち上がれば、そのとき不注意にもテーブルに膝をぶつけ卓上のコップが床に落下し買ったばかりのカーペットを壮大に汚す。思わず「畜生っ!」と叫んでしまうのは人間の性で(別に実体験とかではないですけど)、先ほどの読書の余韻は何処へやら。

 

そんな風には当然、書物の中の世界と現実の世界とは一線を画しており与えられた影響が延々と響きそれが自己を改革するというのは難しい。

さらに歳を下手に食うと、妙に背負うものも大きく重くなって心も体も自由に身動き難しくもなる(これこそ実体験的ではある)。

でもまあ多分、人は人を、自分を変えたいと思うからこそ読書するのであり(それは人格や性格に基づくのみならず「より知識をつけた自分になりたい!」とする知的好奇心を充足させる意味合いの読書も含め)、だからこそ現実の周りや、今の自分の意識や立場を加味しつつ読書することも大切なのかなと。

 

梃子でも意識を変えない!という人はつまり、自分の意識を変える勇気がないというよりも、変えるきっかけがないだけであると思う。

だが本を読むという行為には、それだけのきっかけとなる力がある。

 

本を読むというのは、まさに”今の自分”を読む行為なのだから。

 

 

「仕事をサボる」ことでクビになることの合理性について

少し前に知り合いから聞いた話が印象的かつ思うところがあったのでここに綴ろうかと思い立ち、その話というのはあるお店をやっているオーナーさんの話。

曰く、以前に雇っていたバイトの子を解雇したというのだけど、その理由としては実に単純。解雇の理由は、その子が仕事をサボっていたため。

 

どういったことなのかを身バレを避けるため多少抽象的に書くと、大まかな概要としてはこのようになる。

1.バイトの子が仕事をする場所は、管理者であるオーナーさんからして確認できる(監視カメラのようなものと考えてもらってよい)。

2.なのでバイトの子がちゃんとやっているかサボっているかは一目瞭然。

3.そして仕事をちゃんとやっているかを確認していることはバイトの子にも伝えている。

 

重要なのは3で、つまりバイトの子はサボっているのがばれることを知っている。

そしてこの話に興味を引かれたのはこの点で、つまりバイトの子がクビになったのは「サボっているのは確認できるんだよ」といわれて尚、その子はサボる行為を止めなかったことにある。

 

一見してそれは至極当然の結果で何らおかしな点はないように思われようとも、ここでひとつ考えてみてほしいのは、果たしてそのバイトの子の行為(サボること)は合理的であったか?ということだ。

 

えっ?合理的っていうか、単に怠惰なだけでは?もしくは、サボっているのがばれているにもかかわらずサボるという単なるマヌケだろ。

 

なんていう答えはもちろん、可能性としては高い*1

 

けれどそこでふと、「いや、そうした行為って単なるマヌケの所存ではなく、実際にはより狡猾さ溢れる行為なのでは?」等と思い当たる節があったためにこれを書いているのでありそれが表題の件。

 

「仕事をサボる」ことでクビになることの合理性について。

 

それのどこが合理的なんだ?とした場合、仮にもこれが「合理的」であるとするならば。

 

無論、それは「クビ」になることが「合理的」な状況を考えれば良い。

「それってどんな状況?」かといえば、クイズにするにはあまりに稚拙なほど答えは簡単で、つまり「仕事を辞めたいとき」に他ならない。

そう、ここもまた重要かつ面白い点。

要するに、そのバイトの子は実際には「辞めたいな」と思っていた場合に関して言えば、”仕事をサボってクビになる”という結果は実は合理的なのだ。

するとここでさらに面白いのが、ここにゲーム理論的思考を組み入れるとよりバイトっ子のサボり行為は合理的かつ「なるほど!」とその狡猾さに感嘆すること請け合いである。

 

「つまりどういうことだってばよ?」との疑問に対して一言で返すのであれば、

「バイトの子はどっちに転んでも良い状況を作り出していた」

ということ。

 

このような状況を想像してみてほしい。

仮説の前提として「仕事を辞めたい」。

だからこそサボる。

するとその子はクビを望んでいるのであり、だからこそサボることがたとえばれていようとも恐れない。むしろ進んでサボることさえやぶさかではなく、サボることで生じるその先を見据えての行為とすれば。

さっき、”ゲーム理論的に”といったのはこの点である。

そして「バイトの子はどっちに転んでも良い状況を作り出していた」というのは、

サボることによって二つのパターンが生じ、そのどちらに転んでもバイトの子にとっては好意的な状況になる、ということである。

 

つまりは、まず一つ目のパターンとして

1.仕事を辞めたいからサボる(楽をする)。

2.サボっているのをオーナーが見つけ、クビにする。

3.仕事を辞めたかったのでバイトの子にとってはちょうどよく、よってこの結果は好意的であり合理的。

 

二つ目の可能性としてのパターンとしては、

1.仕事を辞めたいからサボる(楽をする)。

 

1は一緒なのだが2から少し違う。

 何故ならサボっている姿を見られてもすぐには、もしくは必ずしも即刻クビになるとは限らないため。その場合、たとえば「ほかに人が居ないから仕方なく雇い続ける」等、諸事情が加われば即刻の解雇もない場合もあるといえるからだ。

 

じゃあその場合、バイトの子は「辞めたい」わけだから、むしろ状況としてはよくないのでは?

そうであろうけれど、ここが”どっちに転んでも良い状況”といったのは、この場合としての2番目には

 

2.サボっているのをオーナーが見つけるも、クビにはしない。

 

となり、

すれば3としては自ずと

 

3.仕事を辞めたかったのに辞められず。

 

となる。

ここだけで区切ってしまえばもはやその戦略(サボり)は失敗だったのでは?そう思

えようとも、この3には続きが加えられる。

 

3.仕事を辞めたかったのに辞められず。よって仕事は継続となったがサボり続けられるため、楽して稼ぐことができる。

 

そう、ここが面白い点で、よっぽど切羽詰って「即座に仕事を辞めたい!」という状況以外においては、パターン2の場合においては「楽して稼ぐ」ことが可能。だってサボっていてもクビにならないのだから。

 

要約してまとめると、

「仕事を辞めたい」と思うバイトの子がとる戦略としての「サボり」

そこで生じる2パターン。

1=仕事をクビになる。

2=仕事をクビにならない。

 

1の場合、目的達成のためプラスである。

2の場合、直接的な目的を達成できないながらも「サボり」が許させる状況を作り出すことに成功→「サボり」が行えることで、戦略をとる前に比べると事態は好転。だっていくらでも仕事において楽できるのだから。

 

 こうして二つのパターンを明確に見ればわかるように、バイトの子は「サボり」戦略をとることによって、いわばどっちに転んでも以前の状況に比べ、「好転した状況を作り出すことができた」といえるのだ。

 

するとある種一般的な見方としての「あのバイト、サボっていればわかるよと忠告しても尚サボるとか、あいつは馬鹿か!?」と思われようが、それは前提として「働いているものは、当然クビには成りたくない」という思い込みがあるからであって、発想を逆転させて「実はクビになりたい」という前提の存在を考えれば、バイト君のこうした不届き者の行為も実際には実に「合理的」であったのだと。

 

 

 オーナーさんからサボりバイトの話を聞いたときに思ったことがこれで、無論これは単なる想定であり想像。実際にはそこまでバイトが考えて居ないということも大いにありうる事ではある。

ながらも、実際にこのような狡猾かつしたたかな考え方を持っていたのだとすれば。

末恐ろしい、というよりかはむしろその合理的知能とゲーム理論の応用さに感服せずには居られない。

まあでもこの理論というか発想自体、根本にある仮説は「仕事を辞めたい」気持ちであって、換言してしまえば「仕事を辞めるつもりで居るなら、多少怒られても気にしないし思い切って何でもできる」という強気の姿勢があるのは間違いない。

 

でも正直に言えば、別段「仕事を辞めたい」と直接的には思わずとも、そうした覚悟を持って思い切って仕事をすること事態に関しては、むしろ皆が普遍的にも積極的にも思ってもいい事なんじゃないのかな?とは思ったりする。

ミスを恐れて保守的に働くよりかは大胆に。

後悔は先に立たずとも、その後の役には立つだろうから。

 

 

 

 

 

*1:むしろこれを「合理的」な推論とさえ言えそうではある

アニメ『慎重勇者』が素晴らしく、語るに値する作品だった件。

今年に関していえば、新年早々から啓発される作品が多くて自分でもびっくり!

面白っ!と思える本もさることながら、アニメにおいてもこれはなかなか乙な作品だなと思えるものもあって、それがこの記事タイトルの作品。

 

この作品は2019年の秋アニメであり、正確には

 

『慎重勇者 ~この勇者が俺TUEEEくせに慎重すぎる~』

 

という何とも冗長しさを感じさせるタイトルのもの。 

 

 

これがどのように素晴らしいのか?

無論、なにも考えずに見てもなかなか面白いことには間違いなく、けれど

「じゃあ近年稀に見るほどの名作なの?」

と訊かれればおそらく

「うーん、それほどの作品じゃないかな、小まとまり良く出来た佳作といった感じ」

そう答えると思う。

 

じゃあどうして素晴らしくて、語るに値するのか?

それはこの作品が、昨今稀に見るほどに「物語していた」から。

 

どういうことか説明する前に、まず作品のあらすじを。

 

 超ハードモードな世界の救済を担当することになった女神リスタ。
チート級ステータスを持つ勇者・聖哉の召喚に成功したが、彼はありえないほど慎重で......?
「鎧を三つ貰おう。着る用。スぺア。そしてスペアが無くなった時のスペアだ」
異常なまでのストック確保だけに留まらず、レベルMAXになるまで自室に篭もり筋トレをし、スライム相手にも全力で挑むほど用心深かった!
そんな勇者と彼に振り回されまくる女神の異世界救済劇、はじまる!

 

ご覧の通り主人公の勇者は病的なまでの慎重さを抱いており、そうした常識はずれの嗜好を通して見せる行動はコメディタッチで、この時点では衝撃的というより笑劇的といった作品。

構成としては全12話から成り、終盤では

 

 

 

ここから先はネタばれのため、視聴済みの方のみ推奨。

 

 

 

そう、見た方にとってはもうご存知のとおり、この作品は11話目においてその作品自体の風体をがらっと変える。

主人公勇者のおかしな嗜好である「過度な慎重さ」、それは実は過去の失敗が元であり、元々はむしろ慎重さを省みない性格であったことが示される。

 

そのとき、主人公の本心を知って裏切られた視聴者がぶわっと沸き立たせるのは鳥肌ではなく、実は親近感なのである。

 

ニーチェ風にいえば、まさにパースペクティブの変換。

それは見る側であった我々が、一挙にその内側へと吸い込まれることを意味する!

 

つまり、ここでの価値の転用こそが本作品最大の見所であり、フィクションなる虚構の作品において生じる外壁の障害を一挙に取り払う。

我々はフィクションなる作品に対峙する時、たとえば登場人物の一人がとても奇天烈で不思議ちゃんであろうとも「これはフィクションなのだから」としてその存在意義を認める。

そこでは自らを一歩引かせて対象を眺め、自らの価値観、一般常識的な見方と照らし合わせることによって作中の彼らとの距離を保とうとする。

 

このアニメ「慎重勇者」の場合においては、まさにこの「過度な慎重さ」こそが、我々と作品のフィクション性との垣根を作り役割を果たしており、主人公における「過度な慎重さ」とは一見して理不尽なものである。

だがそうした理不尽さを視聴者側は「これはフィクションなのだから在り得る」として、この存在性を許容する。

こうして引かれた一線は彼らと作品との存在性の絶対的な乖離を示し、理不尽なる状況における合理的解釈こそが「作品としてのフィクション性」に他ならない。

 

繰り返すようだが11話における急展開。

そこでは「主人公が如何して過度に慎重なのか?」その理由が明かされる。

重要なのはこの点で、その理由を知ったことにより視聴者はかの主人公、

彼が慎重過ぎる理由が実際には現実的であり合理的であったことに衝撃を受ける。

するとそこで、これまで理不尽なる存在に対しての合理的解釈であった、

「作品としてのフィクション性」

という認識が瓦解し、同時にそれは「フィクション性」を一時にも忘れさせる。

何故なら「フィクションだから在り得る」非合理的性が、合理的理由を示すことによって現実での存在性を得るからである。

そうして現実での可能性を感じさせると(それは思考の形としても)親近感を沸かせ、だからこそ先ほど述べたように、主人公の本心を知って裏切られた視聴者がぶわっと沸き立たせるのは鳥肌ではなく実は親近感なのである。

 

 

このメタフィジックス的ともいえる心的距離の縮まりを感じさせる仕掛けこそが本作品における素晴らしい点であり、何事にも意味を見出そうとする人間知性における「物語性」、それを満足させるに値する演出とストーリー、これこそ本作品が語るに値する最大の理由なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

と、ここまで大絶賛しておきながら、フィクション作品においては非現実性・非合理性なる存在を示してそれを覆す展開、非現実性・非合理性のうちに現実性・合理性を見せることによって受け手の感じ方を大いに変容させる作品というのは実際には数多存在する。

そういった意味では、昨今読んだアメコミ『バットマン:キリングジョーク』も同じ部類であると言え、こちらの作品もとても素晴らしかったので出来れば近いうちにはこのレビューも上げようかと。

 

おみくじの別の楽しみ方

新年になり無事に初詣にも行って来ました。
そこで今年もおみくじを。

おみくじと言えば、当然気になるのはその内容。
良いことやら悪いこと。
今年がどんな一年になるのかと、警鐘箴言めいたものから各々つづられていては「へー」と感心しきりなもの。

そんな折、ふと気になったこと。

「でも、このおみくじの内容って当たってるのかな?」等という根本的かつなんとも罰当たりなこと。でも毎年、年始めにおみくじ引いても数週間と過ぎればその内容を忘れがち。

なので今回、密かに実験しようかと思う。
実験内容は至ってシンプル。

「果たしておみくじの内容は正しいのか?」

今回引いたおみくじを保存しておき、今年の年末に再び開けて答え合わせをする、という検証の仕方も至ってシンプル。
よって今年は引いたおみくじは持ち帰ることにして、新年早々に年末のおみやげをこしらえたわけだ。


おみくじの精度の確認をすることにして、それを忘れぬようにとこれは備忘録的記事。
とりあえずこれで早々に年末の楽しみがひとつできた。あとは12月31日に確認するのみ!