久々にモスバーガーを食べた。
もちろん、ポテトとペプシも一緒に。
こうしたジャンクなセットは久々で、モスバーガー喰って、ペプシで流し込めば脳がクラッキング受けたみたいに「ああ~、美味いな~」とだけ思う。
モスバーガーは食べ難さよりもソースの味わいが勝ると文句はゼロで、ポテトを反復運動みたいに食べ始めるとようやく何かを色々と考える。
バーガーにコーラの組み合わせは寿司と緑茶みたいだなとか、実際のモスバーガーはホームページの写真と違って少しぺちゃっとしててまるでインスタみたいだなとか。
そんなことを考えていればあっという間に食べ終えてしまい、モスバーガーはやっぱりうまい。厚切りトマトの存在感がでかくて、「栄養バランスの良いジャンクフード」といった言葉遊びもご馳走してくれた気分になる。
美味いバーガー食べると元気が出るね。
書評についてとか
個人的にはここが書評ブログのつもりでもあるので、
これを読んでちょっと思ったことをぐだぐだ綴る。
上記のコメントでも書かれているけど、書評とは「書を評する」。
つまりは読んだ本それ自体をまずは自分の中で評価する必要がある。
では、評価をするにはどうすればいいのか?
そこで必要となるのが「比較する」ことだ。
この「比較する」ということがとても重要かつ難しくもあり(個人的には楽しいところではあるのだけど)、たとえば「同系列の本を読み、そうすることによってこの本の秀でた部分や劣る部分を理解し、それによって比較・書評ができる」という意見がある。
これは正しくもあり、間違いでもある。
というのは、たとえば技術書など最初から目的がはっきりとしているものに関して言えば比較は容易だからである。
しかし小説などの場合はどうだろうか?
この場合、明確な「答え」というものは存在しない。
むしろその「答えが存在しない」といった事こそが小説の醍醐味とさえ評せる。
故に小説などのジャンルにおいて「明確な比較」というのは困難である。
じゃあ小説の書評なんて無理じゃん、なんて事はなくてみんな普通にやってる。
どうやって? なんて聞く奴はほぼいなくて、小説の書評は簡単だ。
そう、小説においても皆はちゃんと「比較」で書評しているのだから。
至極簡潔に示せば「この小説、○○より面白いよ!」といった具合に。
一方、ある作品を他の作品と比べることによって評価を下すことに対し、咎める姿勢があるのも知っている。
実際に先日、「あの作品マジで面白かったし、○○より面白いからお勧めだよ!」と友人に話したところ「いや、○○の名前出す必要なくない? てか、面白さなんて人それぞれなんだから別の作品名を出して優劣さを示すのは良くないと思う」なんて諭されてしまったほどだ。
そのとき比較することについて考えてみた。
そもそも比較する意味って何か?
それを雑に考えてみれば「区別するためにある」のだと思っている。
たとえばコカコーラとペプシの違いについて。普段、炭酸飲料を飲み慣れていない人にとって、この違いを明確にできるだろうか?
そこで二つを比較する。比較することによって「ペプシの方が少し酸味があってスッキリ感じた!」といったことや「コカコーラの炭酸の方がちょっと強く感じたかな!」という感想が得られれば(それが主観であったとしても)、その当人の中においてはコカコーラとペプシについての区別ができたことになる。
これは当然のことのように思えたとしても実際には大切なことで、おおよその人は普段日常生活の中でほぼ無意識にこうした「比較」と「区別」を繰り返しており、より実感が沸く言葉に換言すれば「赤の他人」と「知り合い」にでもなるだろう。
初めて会う相手に対して、我々がその相手に対する認識を「赤の他人」から「知り合い」に変えるのは、「赤の他人」と「知り合い」を比較しているからであり、その比較の結果として「知り合い」に区別すべきであるなと認識した結果に過ぎないのだから。
故に、比較には区別が付きまとい、区別が行われることによって差異化が行われる。
さてさて、ここからが本題の続きにもつながる話。
作品を比べるってどうなのよ? という問いに対して「必要なこと」そう答えたとしよう。
その理由として、一つ目は上記で述べたようにまずは作品としての各々を区別するため。
二つ目は、比べるということは作品の魅力を伝える上では便宜的にも便利であり、共通認識的な面白さを、紹介する作品の”面白さ”として伝える上では必要になるからだ。
そして、この二つ目の意見において重要となってくるのが「質と量」について。
どういうことかといえば、たとえば「○○という漫画が面白かったよ!」と呟くとする。このとき「○○という漫画の面白さ」とは、当然「質」的な話だ。何故なら面白さとは千差万別であり、人によって面白さの基準が違うのはもとより、何よりもそれが明確には数値化できないからだ。
仮に数値化できるのであれば、誰しもが”面白い漫画”を創作できるはずで、それができないのは数値化できない「質」の問題だからだ。
すると”数値化”できない「質」の話となると、当然人によって「質」のまさに”質”が異なるのだから質に対する意見・感想は相手と共有することが難しい。
そこでこの「質」を「量」的な見方に転換する。
そうすることによって、「量」すなわち数量化に転ずることによって共通認識が生まれ、まさに自分にとっての「1」が相手にとっての「1」と同等であることによる奇跡! ブラボー数字の「1」!!
とまあ数字によって行われる共通認識については、たとえば「1」が赤を示す場合、では「1」を示すことで相手も同等の「1」、つまり「赤」を見るのかと思えば、実際には違う場合もあるので一概に「みんなの”1”」とは言い切れないのだけど。この話は長くなるのでここで割愛。*1
とりあえずここでの「質と量の話」を総括すると、ある作品の評価を表す際に他の作品を引き合いに出す行為は、作品自体を「量」化することによって、その「質」的な面白さを間接的にも分かりやすく表現しようとしているってこと。
そうすることによって評価基準を立て難い存在に対してもある程度の共通認識を築かせ、書評として魅力を伝える場合においてもある程度の”客観的”(”客観的”的といったほうが正しいかも)を抱かせることに成功しているのだ。
それが砂上の楼閣であろうとも。
以上、書評について並びに比較することの意味と困難さについて、
未だまとまり切れていない考えをまとめた駄文でした。
*1: こういった話題が気になる方はアントニオ・ダマシオの『意識と自己』がお勧め
やっぱ文芸部はすげぇわ……
昨今、『ドキドキ文芸部プラス!』がリリースされると小耳に挟んだことで思い出したドキドキ文芸部。
このゲームを実際にプレイしたのは3年前ぐらいで、きっかけは友人に薦めらたことだった。そのときは事前情報をまったく入れずにプレイ。
結果……
うん。すごかった。
プレイ後に思ったことは、このゲームをお勧めしてくれた友人への感謝であり、そして複合的な感動である。
”感動した”ではなく、”感動を思った”と表現できるような、そうした表現を当て嵌めることのできるような巧みさ極まる作品で、クリア後はもうただただ脱帽した思い出が。
そんなすごい作品に、最近改めて触れてみた。
といってもプレイ動画を観たという感じなんだけど、初見さんのプレイ動画を通じてこの作品に触れると感慨深くなる箇所も多くて、忘却していた細かい仕掛けなんかには一緒に驚いたりも。
改めて体験してみても「『ドキドキ文芸部』ってやっぱすげぇ作品だな…!!」と鳥肌立つほどに興奮、けれど何よりも感慨深く感じたはむしろ詩についての場面だったりもした。
初見プレイの当時は、語られるその創作論に対し「何言ってんだこいつら?」と正直思うところもあった。けれど今にして読み返すとその言葉の真意がひしひしと伝わってきて、以前にプレイした時とはだいぶ違う印象を受けられたのでこれがまぁ随分と面白かった。
なのでこれがまさに三つ目のドキドキであったのも間違いなかったかなと。
にしても、こんなすごいゲームが無料なんて……と再びただただ脱帽するばかりである。無料だし、気になった人はプレイしてみて損はなし。
Steam:Doki Doki Literature Club!
ただし過激な演出などもあるので、その辺りは自己責任で。
考えさせられる答え
ミヒャエル・エンデの『エンデのメモ箱』というエッセイ集は大変素晴らしい本であり、そのうちのひとつに「考えさせられる答え」という題のエッセイがある。
その中で語られる逸話がなかなか響いたのでご紹介。
もう幾年もまえの話だが、遺跡発掘のために中米の内陸へ探検旅行した学術チームの報告を読んだことがある。携行する荷物の運搬のために、幾人かのインディオを強力として雇った。この探検全体にはこまかな日程表が組まれていた。はじめの四日間は思ったよりも先へ進めた。強力は屈強で、おとなしい男たちである。日程表は守られた。だが五日目に突然インディオは先へ進むことを拒否した。インディオたちは黙って円になり、地面に座ると、どうしても荷物をまた担ごうとしなかった。
学者たちは賃金を上げる手に出たが、それも功を奏しないとわかると、インディオたちをののしり、最後には銃で脅しさえした。インディオたちは無言で円陣を組み、座りつづけた。学者たちはどうすればよいかわからなくなり、ついにはあきらめた。日程はとっくに過ぎていた。
そのとき――二日過ぎていた――突然、インディオたちはいっせいに立ち上がり、荷物をまた担ぐと、賃金の値上げも要求せず、命令もなしに、予定された道をまた歩きだした。
学者たちはこの奇妙な行動がさっぱり理解できなかった。
インディオたちは口をつぐみ、説明しようとしなかった。ずいぶん日にちがたってから、白人と幾人かとインディオのあいだに、ある種の信頼関係ができたとき、はじめて強力の一人が次のように答えた、
「早く歩きすぎた」とインディオは話した。
「だから、われわれの魂が追いつくまで、待たなければならなかった」
普段、家に居ても出かけていても何かしらの人工音で耳を塞ぎがちの自分としては大変心に響いた話。たまに夜、ふっとヘッドホンを外してスマホからも遠ざかれば、夜の静けさにハッとし、その快さに改めて気付いたりもする。
もうひとつ、この逸話を読んで思ったこと。
何かに感動したときなんかはその後すぐに別のことをするんじゃなくて、感動したその想いを本当はもっと愛でるべきで、そうした自分の感性をちゃんと愛おしく思えるようになるまで体はじっとして心を待つべきなんじゃないのか? って思ったりもした。
たぶん、人生をちゃんと愛するってそういうことだと思う。
この時期の夜の散歩は快い
歩きながらふと思ったこと。
素面で人生に酔える人ってすごいよね
パーカーを着て出かけると、ついポケットに手をしまう。
また少し寒さがぶり返してきた昨今、パーカーを着て出かけるとついポケットに手を忍ばせてしまいがち。
というか、パーカーのポケットに手を入れているときの妙な安心感と安堵感とは、つい癖になる。
そんなときにふと、猫が香箱座りをする際に手を体へとしまう理由が分かったような気になるのである。