book and bread mania

-中途半端なサウスポーによる日々読んだ本の記録 + 雑記 + パンについて-

ファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか?

 

ファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
 

ヒューリスティックと、それに伴うバイアスを解説する一冊。

身近な例を挙げて述べるので、内容は分かり易い。

けれど随分と読み応えあるので、十分に租借し反芻しなければ、喉に詰まるような濃厚な内容。

 

 主な内容としては、認識の錯誤について。

物事の結果を知ってから「予想できており知っていた」、

つまり「ああ、それならそうなるだろうと前々から知ってたよ」

と偉ぶる鼻をへし折るであろう、後知恵による結果を既知する錯覚を解説。

よくある事故が起きてから「なぜ、対策をしていなかった!?」

との批判の無意味さをしっかり述べる。

こうした“結果の錯覚”などはごく身近に存在するバイアスであり、それら認識錯誤の原因を端に「見栄と傲慢による糞便」とはせず、メカニズムを簡潔かつ鋭く解説!

 

 

それから妥当性の錯覚などは、脳の過大評価もしくは知能の自信過剰な結果。

脳が如何に楽な判断、つまり一見して合理的な帰結に持ち込もうとしているのか、よく分かる。

甘党でもある脳は、基本的には怠け者。

随分と短絡的であり、何にだって合理性や因果律を求めてやまない、うつけもの。

合理性、つまり一貫したストーリーを想定し、それを真実と呈する方が脳にとっては都合がよく、だから「なるほど、だから彼はこうしたのか!」と思い込みを一方的に信じる。それは脳にとって効率的でもあるが、決して真実とは限らない。

 

寧ろ実際には錯誤が多く、バイアスばかり。

本書によって、愛おしくも脳のぽんこつ具合を改めて教えられた。

 

あと重要なのが“平均回帰”という概念。

端的に言えば、良いときもあれば、悪いときも当然あるさ、と言った当たり前のこと。

けれど人は誤解し、例えば何かの競技でコーチが叱咤し、それで成績が上がると

「お!叱咤した効果か!」

とつい思ってしまう。

そして次に褒め、それで成績が下がると

「甘やかしては駄目だ!」

と定義する。

これが誤解だとするのが、“平均回帰”。

つまり最初の好成績はあくまで偶然的であり、コーチが叱った事は関係ない。

同時に、二度目の成績が下がったのは甘やかしたせいでもなければ、それは単なる統計的な事象。

最初が稀な成績であり、二度目は通常的な成績に帰結したに過ぎない。

つまり一度目は「運が良かった!」のであり、二度目は通常通り、平均的な成績へと戻ったに過ぎない。にも拘らず、人はこのような場合には大概、

「しかることが成績向上につながる!甘やかしては駄目だ!」

としてしまう。

このような“平均回帰”の現象はいたるところにあり、自分も巻き込まれているのではないか?と気付かせてくれる。

そしてある種、運の要素の重要さも物語る。

 

 

後は終盤、投資専門家を例にした未来予測性のバイアスについてはおおよそ辛辣気味であり、その結果として

専門的スキルが投資成功の要因にはならない!

といった検証結果には驚愕。

そして、そこで述べられる比喩

 

特定の分野を日頃から多大な時間を使って研究し、それで食べている評論家たちは、ダーツを投げるサルよりもお粗末だった。 

 

これには思わず爆笑。

いいセンスだ。

 

そこでは専門家による未来予想の誤謬性も説き、シンプルなアルゴリズム計算のほうが精度が良い、というのも予想はできるが衝撃的ではある。

そして、こうした結果を衝撃的であると思え、否定的と思えることこそが、人間脳らしさ、ということなのだろう。

それでも結論として、

直感は頼りすぎるべきではない。然し、一切無視すべきでもない。

としたのが印象的。

 

 

あとは、

最初の印象が良ければ、その後の印象、相手の人間性を良く思ってしまうという錯誤 “ハロー効果” について等も述べており、人間脳の機能として回避困難な存在を解説。

得てしてこうした脳機能は根付いているものであり一概に排除は難しい。

ならばとうまく付き合う方法を伝習してくれる。

 

つまり、端的にいえば、

「良い異性と付き合いたければ、まずは自分の脳と良く付き合いな!」

ということである。

 

 

専門家による未来予想が単純なアルゴリズムに劣る理由。

それもまた単純で、

「専門家は専門知識を無為に詰め込み複雑にするので、かえって当たり難い」

という理由のみ。

 

私たちは自分の事を誰よりも知った心地で居る。

然しそれは思い違いであり、私たちは想像以上に自分自身のことについて知らない。

誰だって自分は他よりも頭が切れると思い、

ぼんくら共とは違うぞ、と思う。

だがそれは脳の思い込みでもあり、私たちは気付かぬだけで、想像以上に脳は間抜けなのだ。

本書は、自分が持つ”自分”と言う専門知識を、洗い流して改めて眺める機会を与えてくれる良書。

 

 

 

然し面白くもあり難しいのは、

「ああ、なるほど!そういうことか!納得!自分は考え方に間違いがあった!」

と読了後にするのは正しいが、それ自体、その単純性もまた脳の錯誤であり、

影響を大いに受けて単純に信じて行動かえれば、

“プライミング効果”

の一種と捉えられるかもしれない。

 

人間脳の認識とバイアスに橋かけるこうしたトートロジー的な要素もまた、

人間脳らしいと言うことだろうか。

結果、「懐疑主義万歳!」

とでも結論付ければ、ショーペンハウエル大先生は喜びそうだ。

けれどそこにも、短絡脳の欠陥が潜んでいるのだろうけど…。

 

 

延命に見る ”+” と ”-” と ”ゼロ”


こういった延命関連の記事を見て、ふと思ったことであり、

酩酊状態のようにして綴った内容であるので、あしからず。

 

確かに、上記の技術が確立されれば延命につながり、

人の寿命はさらに延びると思う。

 

けれど、有史以来、人類は医療技術を発展させ続け、

結果的には寿命を延ばすことに成功している。

 

しかしそれは一方的な寿命の延長であって、つまりは”+”の概念。

年を重ねる、つまり長く年を取れるようにする研究は進んでいるものの、

逆の概念、”-(マイナス)”の概念に対する生物的な知見の進歩は乏しい。

 

 

つまりは寿命の反対、

”死”に対する研究の進展、進歩のなさは著しく、

もしこの系統に対しての進歩があったのだとすれば、それは”数学”上にあるのみで*1

生化学的な方面では、この”-(マイナス)”方面に対する研究は進んでいないのでは?

と、ふと思ってしまった。

 

一般に、”死”や”死後の世界の研究”などと言えば、

トンデモ科学に思われ、超心理学などはエセ科学とする節があると、感じてしまう。

けれど不思議なのは、

「死ぬとはどういうこと?」

と誰もが疑問に思いながらも、深く追究しようとするのはごく一部という事実。

そして、”+”的な延命には力を注ぐのに、”-”的な解明(延命?)には力を注がないこと。 

”-(マイナス)”方面に対する研究が、結果的に現状の言うところの”延命”概念に繋がる可能性もあるのでは?

 

”ゼロ”、という存在と概念が長い時間をかけて理解され、受け入れられたように、

”死”や、”死後の世界”に対する、パラダイムシフトも訪れるのかも?

 

「無がある」、”there is nothing(”無い”がある)”

これら言葉には矛盾を感じるのに対し、

「ゼロがある」

というのは、理にかなって思える不思議。

そこにゼロと言う形容の難しい存在があり、

ゼロが死を意味するのかは微妙なところ。

そして、ゼロの先、”-(マイナス)”の先にも、ある種の形を呈した命があるのか今は分からない。

 

 

関連して印象的な言葉が、

数学者ロバート・カプランによる、

この言葉。

 

 

 

空想と事実の違いは、

空想は自分の好きなようにしていいのに対し、

事実は宇宙が満足するようになっているという点です。

 

 

 

こうして思うと宇宙にも一定の意思と、生命性があるように感じ、

そして、その生命性が今、”+”の方に動いているのか、

”-”の方に動いているのかは分からない。

延命として”+”の方ばかりに注目する中、

”-”のほうにも注目する価値はあるのでは?

なんて上記のリンク記事、

首切りして他の体に繋ぐトンデモ延命方法を読んでは思うのみ。

 

 

あとはこの記事、徹頭徹尾に整合性があまりなく、

どうやらこの記事自体は、結合手術に失敗した模様。

実際の「頭部移植手術」の方は、成功してもらいたい。

 

粋な言葉

 最近触れた、粋な言葉。

 

昭和元禄落語心中の2期目、

その三話目、印象的だった粋な台詞。

それは、

相手に込み入った事情があり、

そこに踏み込んでほしくない、と相手がした時、主人公が返した言葉。

まず、「ならもう話してくれなくていいや」と言い、

続けて言った、この言葉。

 

 

世の中には言葉にしねぇ方がいいこともある。

隠し事のねぇ人間なんて色気がねぇ。

 

 

 

もうひとつは、

論理学者ウィラード・ヴァン・オーマン・クワインによるこの話。

 あるピアニストがモーツァルトを弾いて、鍵盤を打ち間違えたことをわびたとき、 

クワインが慰めるために言った、この言葉。

 

  

気にすることはない、

別の曲を完璧に弾いただけだ。

 

 

どちらも「粋な言葉だなぁ」と、思わず感嘆した。

 

パンの祖の祭りに行って来た!

 

韮山で毎年、行われているパンのイベント。

それが”パンの祖の祭り

 

日本で初めてパンを作ったとされるのが、

韮山代官・江川太郎左衛門という人物。

その業績を讃え、

所縁であるこの地において行われるパンの一大イベント!

 

 

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会場は韮山駅に隣接する施設内。

パンの即売会も行われ、出品は東京からの有名店も!

店舗の数こそ、そこまで多くないものの、東京からは『ルヴァン』などがパンを出していたのが印象的。それらの販売は生徒さんで、あとは『ベーカリー&テーブル 東府や』というお店は大々的に出店していて、店の人が販売を行い、そして行列を作っていたのが印象的。

 

 

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祭りでは、パン食いゲーム、パン当てゲームと企画も充実しており、

中でも最大の目玉は、”全国高校生パンコンテスト”!

その模様を拝見してきた。

 

端的に言って、高校生のパンはどれもがアイデアに優れ、

展示されるその出来栄えを見ては「凄いな!」と思うことが多々。

言葉通り「甲乙つけ難い」逸品ばかりであり、

見た目の良さも然ることながら、内層の美しさもなかなか。

素材と生地のコントラストが素晴らしかった!

 

あとはこの選手権において少し印象的なのは、男女比率で、圧倒的女子感。

女子が大半で、男子の数はごく僅か。

同時に、審査員に女性が一人も居なかったという事実をあわせると、より印象的。

 

高校生パンコンテストに話を戻すと、本当にどのパンも良い出来で、アイデアも秀逸。

形と色合いに、特に力が入っているように感じた。

色合い鮮やかなパンが豊富であり、ツォップの様な編み目状の成形は見事。

バゲット基調のパンも綺麗な焼成具合で、レベルの高さを窺わせた。

他にも素材同士の意外な組み合わせなど、所々に工夫が見られ、

「日本のパン業界の未来は明るいな!」

そう思わせてくれるイベントであった!!

 

 

あと、後日談のような雑記。

伊豆という、この界隈に来たのは初めてであり、顕著な田舎具合が妙に新鮮。

帰りには、用事で一駅となりにある ”原木駅” に降りると無人駅で改札もなし。

煙草入れのような容器に、ここに切符を入れてください、とあって、改札もなく人も居ないので少し驚く。

その後、用事を済ませると日は暮れて夜になりながらも原木駅に戻り、無人の駅でひとり電車を待つので、ふと空を見る。

辺りは閑散とした田畑で、眩い光に乏しく、そうして見上げるその夜空。

ステレオタイプ的発想ならば、期待するのは

「星空が眼前いっぱいに広がっていた!」

となるだろうけれど、実際に目に入った光景。

それは、曇り模様である空に一切の星は見えず、ただ濁ったような暗やみばかりが空を覆っていた。

しかしそれはどこか、田舎というイメージに対する齟齬のようなものに感じて、寧ろユニークで面白い。

 

「星空を見せない田舎に何の価値がある?」

等と、田舎を描く作品に対しての反骨精神のようであり、

田舎の夜空は星空ならぬ、アンチテーゼを空模様として一面に見せてくれた。

 

  

興味深いな、と思ったこと。

 

因果の誤謬について。

 

例えば、テーブル上に白い箱と黒い箱の二つがある。

そこで白い箱を、黒い箱に接近させる。

そのとき、黒い箱が離れるようにスッと動くと、人は

「あっ、白い箱の影響で、黒い箱は動いたのだな」

とつい思ってしまう。

しかしこれは間違いで、

この実験では、白い箱は黒い箱には触れず、黒い箱が動いた原因ではない。

 

にもかかわらず、人はこれを「白い箱による影響」

と思い込む。

そうして因果を成立させた方が納得いくからであり、

端的に言えば、納得できないと気持ちが悪いからである。

 

なので何事にも人は因果を求め、整合性を求める。

破綻したストーリーを好まず、ちょっとしたことも「複線!?」

とするのは、脳が因果律中毒だからとのこと。

 

興味深いな、と思うと同時、

人間の存在自体もそんな物なのかも、とつい思う。

病気時の混沌

 

しんどい。

 

それでも少々体調よくなって動けるようになれば、

気付くは、喰う物なし。

食物なくして栄養得られず。

身体はまだしんどく、源平討魔伝で言えば蝋燭1本しかないんじゃないか?

と思える体調。

風前の灯火ながらも奮起し、近所のスーパーへなんとか買出しに。

 

するとすれ違った、小綺麗な格好をした若い女性。

俯き加減に歩き、その手に鞄はなく、スーパーの袋にも入っていない、パッケージそのまま裸状態の生理用品を握っていた。

その時のなんとも言えぬ感情、筆舌に尽くし難い。

 

端的に推測すれば、女性が持っていたのはそれ一つだったので、薬局でそれだけ購入。

すると店員が「テープのみでよろしいですか?」として頷いてしまったのでは?と思う。とすれば、薬局の店員なかなか鬼畜だな、とつい思う。

 

でもこうした気恥ずかしさと共に違和感にも似た感情を覚えるのは何故だろう?

性差から女性の心境を明確に察するは不可能だし、すると思うのは、その気恥ずかしさはなんとなくで分かるのだけれど、それはおそらく違うであろうとも分かってる。

つまり、理解している齟齬こそが、この妙な気持ち悪さを思わせ、

齟齬を理解しながらもそれを決して正せない点に、このもどかしさがあるのでは。

吉良吉影風に言うと、ずれて履いてる靴下を決して直せない状況というか、少し違うけれど、気持ち悪さに関しては似たようなものがあると思う。そのもどかしさとか。

 

というか、そうすると齟齬について「じゃあ何が齟齬として捕らえて感じる?」と妄想のように思い、そこではつまり食い違いの概念があって、では人間はどうして食い違いをダメとし、合致したものをよしとするのか?

 

そこで次に、シンメトリーの溢れる自然が候補に挙がり、美しさを求めるが故であり、イケメン・美女=正義のような、または優美なるものが遺伝的に優れているとする遺伝子があって、それで美しい物、つまりシンメトリー性に惹かれるのでは、とつい思う。

でもシンメトリーに人は惹かれながらも、ちょっと待て。

そうした根源となるDNA,この二重らせんの細部はよくよく考えるとシンメトリーにはなっておらず、塩基の相補性として同じ塩素がくっ付く事はない。

そこにシンメトリーはなくて、安定性を求めて結合した結果が今の状態。

ではどうして、物質は安定性をシンメトリーとして持たせないのだろうか?

 

そうした変な疑問ばかりがふつふつと頭から沸き出て、

ならば風邪も一緒に蒸発させてほしいなと思う限り。

 

はあしんどい。