book and bread mania

-中途半端なサウスポーによる日々読んだ本の記録 + 雑記 + パンについて-

10月に読んだ本からおすすめ10

10月に読み終えた本は35冊。

その中からおすすめを紹介!

 

 

第10位

『ぼくはお金を使わずに生きることにした』

ぼくはお金を使わずに生きることにした

ぼくはお金を使わずに生きることにした

 

 無一文で一年を暮らしてみた。

なんて今で言う、果敢なユーチューバー的な事を実践した記録。

しかし1年と成ると流石にそう容易い事ではない。

けれどそれは同時に、いかに我々の生活が”お金”と言ったものに縛られているかを認識させ、そしてそうした概念から開放されても生活はできるぞ!と示す内容。

某アイドルが高価な服を見て「布だぜ!?」と愕然として見せたが、じゃあお金として一万円だってそれは「ただの紙!」に過ぎないのだから。

お金と結婚した如く雁字搦め。と成っている現代人にとっては、一読しても損はない一冊かと。

 

 

第9位

プロタゴラスソフィストたち』

プロタゴラス―ソフィストたち (岩波文庫)

プロタゴラス―ソフィストたち (岩波文庫)

 
 

プラトンによる、ソクラテスプロタゴラスの対話を描いた作品。戯曲的であり、娯楽性に富む内容。

ソクラテスがその弁術を駆使してプロタゴラスを論駁していく様は、まるでデスノートでのやりとりの如くで読んでいて面白い。

まさに娯楽漫画のようであり、知的と思わせながらもよくよく考えれば実際にはとんでも理論的な詭弁を駆使。しかし言葉巧みに相手を丸め込んでいく様子は、今に読んでもハッとする。

論題では、善や悪、勇気といって概念について。

主に会話劇であって動きはに乏しいながらも議題や思惟はぐるぐるとめぐって躍動感あった。なので十分に楽しく、これはまさに知能におけるアクション小説!

これを読むと、ソクラテスが如何に良く口が回ったか。

言い換えれば「如何に『ああ言えばこう言う』とするのが上手かったのか、よく分かる」内容。

そして告発され、処刑された理由の一端も分かるようであって、まさに言葉通りに自虐的。

この読みやすさはまさに、「古典のラノベ!」といって過言ではないと思う。

 

 

第8位

ジョー哲学史』 

ジョーク哲学史 (1983年)

ジョーク哲学史 (1983年)

 
 

哲学・数学と功績を収めた知識人ラッセルのエピソード。彼は齢80のとき、若い女性を娶ることになってヴィドゲンシュタインにふと相談。「どうしたら、20歳ほど若く見られるかな?」その返事が「あなたは数学者なのだからすぐわかるでしょう。自分を100歳だといえばいいのですよ」との答えは秀逸。ヴィドゲンシュタインのユーモアさが覗える。といっても内容はこうしたジョークばかりではなく、むしろこれまでの諸哲学における概念の説明、それに伴う人物たちの解説であり、巷に溢れる哲学入門書。そのなかでも、読みやすいほうであると思う。

 

 

第7位

『犯罪と刑罰』

犯罪と刑罰 (岩波文庫)

犯罪と刑罰 (岩波文庫)

 
 

「刑罰とは、あくまで抑止力として存在しているのであり、必要以上の刑罰は排するべきである」

そうした主張が印象的。

それによって「死刑反対」と唱えるのも納得で、死刑においては、観衆に示すはその死刑の際における強烈な印象のみ。するとその刺激は時間と共に薄れるのは必然で、故に「死刑ではなく、労働として罪を課すことで、その姿を長く人々に示せる事で、こちらのほうが抑止力として優れている」と述べる。

流石にこれら意見は、罪人の収容施設における影響の差異などもあって時代錯誤な印象も否めないが、本質としては熟考する価値のあるもの。

 

本書は、法哲学的な内容。

当時における封建的社会とブルジョワジーによっての権力支配における情勢においての実情を描き、陳情のような視察弁論は、情勢の違いがあれど昨今においても共感しうるもの。

そして拷問を忌避する態度もまた然り。

端的にいえば、「我慢強いもの・肉体的に強固なものは、拷問を耐え、それによって無罪を勝ち取る可能性は大で、すると肉体的限界の閾値の差異によって有罪無罪が決まってしまう」。

これこそ一理あり、確かに馬鹿らしい。

本書の特徴は、法律の存在としての思念を

「全体の幸福」

という点に定めていること。

この「全体の幸福」こそ定義の難しいものになるが、

しかしそれに昨今の社会が十分に近づいているのか?として、

「はい!」

と答えられるのか。

 

「法律とは、罰するためにあるのではなく、抑止するためにある」とする真理を説きながらも、それを今世紀になっても達成し得ないのは、人間側が悪いのか法律側が悪いのか。

人間、と即答できそうではあるが、“不完全”な人間が法律を作るのだから、そうしたことも致し方ないようには思える。

 法律と哲学としての関係を見るならば、入門書として良いように思える一冊。

 

 

 第6位

『哲学の改造』

哲学の改造 (岩波文庫 青 652-1)

哲学の改造 (岩波文庫 青 652-1)

 
 

本書を読めば、古典哲学が思想や風情、その土地や文化によって根付き形成されたものと分かる。

そうした蓋然性と便宜上として形成された体系を明らかしに、現代哲学との差異を解説。

なかでも秩序たって形成される意識は、宇宙構造との類似性を示しての比喩はダイナミック。ながらも、そうして綴る意識の包括性は、先人の思考を縛りつけていたのだなとよくわかった。

「記憶とは完璧な芸術者である」

といった金言的言葉が実に印象的。此れは誰しもが経験済みのはずである。

そして古典において主張されていた「経験によってこそ真理的なことを理解できる」とした経験主義の発言が、中世において「それらは文化に根付きすぎている!」として覆されたものの、現代になってその経験主義を非難した体系もまた、「文化に根付いている」と批判され現状がまたこんがらがっているというのはブーメランのようであり、もはやそのブーメランの刃がどちらを向いているのか分からなくなっていそうで面白い。

本書は哲学的「ドグマ」を指摘し、批判する内容にも思えた。

また、本書は経験や感情など抽象化されたものに対する”総合的”な意識における、哲学との折り合いを察知させるよう促す内容にも思え、社会それ自身が自由のためにあると主張するのと同じこと。人間原理的でありながら科学的、形而上学的な意味合いも含めてのペシミズムは、肯定的な意味合い。成長こそ自由であり、成長を促すものこそ善い社会。そう主張しているようであった。

 

 

 第5位

『なぜ、これがアートなの?』

なぜ、これがアートなの?

なぜ、これがアートなの?

 
 

一読のあとには「昨今、流行の『ミニマリスト』も、元は『ミニマリズム』からきている?」と思ってしまった本書。

想像以上の良書!

本書は現代の美術、芸術について平易に解説しており、実に分かりやすい!なので美術に対する教養がないにも関わらず、一読して現代の美術についての概念、狙いなどを知ることができた。

例として、本書を読めば「ミニマリズム派の芸術家・彫刻家が作り出すのは抽象物ではなく、人の中にある抽象物を浮き彫りにする」ということなど分かるように。

そうして本書を読み、得たことを総括して一言で言うならば、「芸術品というのは、それを鑑賞しているつもりであっても、実は反対に、鑑賞されているのだ!」

ということ。

この言葉が真実に思えるほどには、芸術に対しての啓蒙が深まったのだと思いたい。

あとはこの本を読むと、すぐにで美術館に行きたくなる!

そうした意味では、そこらの啓発本よりかは、ずっと行動を促がす力を持つ一冊だといえよう。

芸術の秋。

教養を深めるのには、とてもよい一冊。

 

あとは蛇足的感想。

本書では例としてさまざまなアートが紹介されており、どれも強烈であって印象深いものばかり。ながらも、特に印象に残ったのは、リチャード・セラの作品や、『カカオ』など。

また、こうした芸術こそは、言語に頼らず、また言語による縛りを自覚させるように工夫されたものを芸術としており、まさに哲学的。訳者のあとがきに「本書は芸術の解説であり、哲学書のような内容」としていたが、まさにそのとおりであると思えた。

言語以外による表現は当然、それが言語で示せないのは当然の帰結であって、そこに無理強いをして齟齬が生ずる。

重要なのは、それを自覚させることであって、これが普通に生活している分には実に難しい。よって、こうした芸術とはそうしたものをハッと気づかせ、打破させるための一種のツール。

そうみなすのが正しそうであり、本書の最後にも締めくくっていたように、要するに芸術とは、各々にとる統合的な判断であり、その結果は相対的であって主観的。つまりは「錯覚として」と言うことであり、絶対的な正解はない。それを気づかせれくれ、まさにメタ知識を与えてくれたような一冊であり、これはもう哲学書に分類してもよい内容であると思えた。現代芸術についての是非や、専門用語の解説も基本を押さえ、読み返す都度に新たな発見をもたらしそう。コンテクストを十二分に広げてくれた!

あと、アカデニズム派による絵画の伝統を、今の芸術家はボロクソ言っているそうであり、その野卑の言葉には笑ったw

人はギャラリーに芸術品を見に来て、その反応を、芸術品は見て楽しんでいるのだ。ある意味で鏡像的である。

 

 

第4位

シュルレアリスムとは何か』

シュルレアリスムとは何か (ちくま学芸文庫)

シュルレアリスムとは何か (ちくま学芸文庫)

 
 

一読するのみで「シュルレアリスムとは何か?」が容易にわかる良書。そして同時に「シュール」とは似た言葉ながら、意味は対極をなすものと知って意外!此れは混合している人が多く思える。

また、そこでシュルレアリスムが「超現実的」とされる由来も理解し、また昨今における若者言葉使いとしての「超」。この使用の仕方は、このシュルレアリスムに対しては適切な見方としてはじめから認識していたおかげで、理解は捗った。超越といえど、それは別次元でも別空間でもなく、あくまで延長戦。その先にある根源的なものとしての「超現実」とするならば、どこかユングの提唱する「集合的無意識」にもまた、通ずるような説に感じたりも。

また、読み進めると今度は「メルヘン」という言葉の意味を知って少し驚いたり(「メルヘン」はドイツ語であり、「お話」という意味)、そして「子供」といった概念は17世紀ほどまでは西洋において存在しなかったという事実には大変驚いた。実に興味深いことだ。

読み進めることで「シュルレアリスム」と「メルヘン」との重要な繋がりを感じて理解。つまりそれは、「超越的な現実を示しながらも、それは絵空語とではなく、現実の延長戦。線引きのあいまいな世界であり、存在しうる世界。そして、それを存在しうる世界として、超現実から現実へと引っ張ってくるひとつの手法が『自動記述』」。

すると案外、「シュルレアリスム」とは身近なものかも。

メルヘンにおける森の役割。そこから紐解く「人間と森の関係」についての考察は、アニミズム的な思想を感じながらも、そこはどこか人間の根源的な、生得的な概念を感じさせた。それこそ、潜在的なドグマなのかもしれなく、すると人間は、遺伝子といったドグマにもまた縛られた生き物なのかもしれない、と思わせた。

あと「ユートピア」も関連ある概念として、詳しく解説。

なのでユートピア好きにもうってつけの一冊であり、寧ろユートピア好きにはそこも記述のみでも十二分に読む価値のある本。

ユートピアほど、昨今において誤解されているものも珍しい。

それは「実際に描かれたユートピアが今の日本に似ている」(例として「過度な潔癖さ」や「均一性」についてなど)ことに由来するのだとすれば、まさに言葉どおりのユートピアであって言葉遊び的ですらある。

「自由を与えられたことによって失われる自由」

については、より意識すべきであるかと思う。

つまり自由とは、「与えられた時点で消滅するもの」。

”自由とは本来、与えられるものではなく、求めるもの”。

この一文はとても強烈で、ひどく心に響いた名文句。

ユートピア」と「シュルレアリスム」を対峙させることによって、双方の特徴をより明るみに。それによって、ある意味でその二つが対極的。つまりまったく異なる性質であることを明らかに。均一で整えられているものに対し、もう一方は、幻想的でありながらも現実の延長であり存在しうるもの。そして、存在しうるものである限りそれは「自然」であり、つまり「人工物」で構成されているユートピアとはまったくの別物。別概念。

シュルレアリスム」は「ユートピア」と違い、如何に流動性のものであるか、よく分かった。

 

 

第3位

星新一 一〇〇一話をつくった人』

星新一〈上〉―一〇〇一話をつくった人 (新潮文庫)

星新一〈上〉―一〇〇一話をつくった人 (新潮文庫)

  

ショート・ショートの元祖としても有名な星氏。

海外SFの翻訳をしているというのは意外で、

しかしその翻訳した原作を持って行ったところ、

「ページ数足りないから増やせ」と言われ、勝手に水増ししたというのには驚愕!

というか、それダメだろw

と思わず笑ってしまうようなエピソードや、星氏についての生涯についてと同時に、当時における日本SFの黎明期における現状や、当時のSF業界の実情が知れるだけでも、とても楽しい一冊!個人的には、今日泊亜蘭の名が出てきたりとで興奮!

 

あとネットで見かけたことのあった、

「人間の脳は、地球から火星のことを一瞬で思うことができる、だから人間の思考は光より早い」

このような謂れの言葉、

星新一氏の父親による発言であったと知り、またも驚く。

 

 本書は、星新一その人が、如何に波乱ある人生を歩んでいたか。

ショート・ショートといえば、読み易くそしてその身近さから、「手軽に作れるのでは?」と思われていようが、それが大間違いであると気づかされる。

星新一”が織り成し、本書が読ませる人生記こそが、まさに氏における希有な長編SF。

そう思わせるには十分な一冊。

星新一先生のファンのみならず、SF好きは必ず読むべし。

 

 

第2位

デカルト―「われ思う」のは誰か』

デカルト―「われ思う」のは誰か (シリーズ・哲学のエッセンス)

デカルト―「われ思う」のは誰か (シリーズ・哲学のエッセンス)

 
 

「実は、この世界は5分前に完成したものである。今あるこの記憶は全て偽りであり、そうであると埋め込まれた記憶である」

こうした”世界五分前仮説”も決してそれを全否定は出来ないものであり、すると突き詰めれば知識とは?認識とは?となる。

すると絶対真理は存在し得ない。として、全てを疑ってかかる。

これこそがデカルトの「方法的懐疑」であり、これが一体どのようなものか具体的に知ることができる本書。

単純にその懐疑がどのようなものか?ということだけではなく、どのようにしてそのような思惟が生まれたのかを、デカルトの人柄をふまえて解説するので、理解しやすい。

「哲学って難しいイメージが…」

という人でも、じっくり読めば理解は捗る内容で、なるほどとその思想を理解すれば啓示の説くハッとし面白いなと思うこと請け合い。

そして、こうした書物を読めば、アインシュタインをはじめとする著名な科学者、哲学者が何故、神の存在を”在る”として意識していたのか?が分かるようになる。

興味深いのは、こうした思いが決して敬虔さから来るものではなく、寧ろ逆という点。

それは、神の存在を否定してからこそ見出された結果であり、ルサンチマン的な思念ではなく、どちらかといえば帰納的思惟によって生み出されているということ。

「宇宙って何から生まれた?」

「そもそも生命って何だ?」

等のような、誰しもが一度は思う果てしない疑問。

それを理解するには、まずその答えを求めるのではなく、その疑問の本質を掴む必要がある。

その重要性を説明してくれ、じっくり咀嚼し読めば、物事に対する見方を広げてくれる。

なかなか良い一冊だった。 

 

 

第1位

現代思想の使い方』

現代思想の使い方

現代思想の使い方

 
 

哲人26人の思考を綴った内容で、想像以上に充実。

巻末のブックガイドも充実しており、実に参考になってはここの部分だけでも価値のある一冊。

この本の特筆的なところは、ソシュールの「言語論」や、オースティンの「言語行為」、クリプキの「可能世界論」、サピアの「言語相対性仮説」などの知見を、日常生活においてその活用方法を示すところにある。

 

「哲学って何?それは生活の役に立つの?」

と、まるで当時ユークリッド素数を探していたときの如く、哲学とは実用性に乏しいと世間から思われがち。

けれど哲学とは、決して形而上学的なことのみに定められたものではなく、日常生活において役立つものだと実感できる。

 

例えばよくある悩み。

「夢を追うか、生活をとるか…」

こうした悩みも当然哲学的であって、

すると過去の賢人がその悩みを解決すべく知識としてのツールは既に完成させているわけで。

 

これのみならず、日々の生活に付き纏う悩みについて、現象における一種の仕組みを呈してくれることでメタ的知識を授けてくれる一冊。おすすめ。

 

 

アニメ『アニメガタリズ』はメタの熱盛!!

 

久々に面白いなと思ったメタアニメ。

それが今に放送している「アニメガタリズ」という作品。

ある意味、「シロバコ」よりもさらに、アニメ製作を物語っている内容。

 

 

 

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このツラw

といっても野卑するごとくの意見ではなく、逆に「すごいな」と。

まるでトムとジェリーのトムが、思いっきり後頭部を殴られたときのような表情。

目が星であり、喉仏がハートなど。そうした表現は実に古風。

けれどそれが今となってはむしろ斬新となって映るのは。昨今において絶滅危惧中であり、狙ってやらなかれば存在し得ないだろうから。

 この表情が、2017年という、トムとジェリーの生誕1940年から77年経った後のアニメにおけるキャラクターの表情という事実!

最高である。

 

 

特にこの三話目では、「三話ぎりするなんて損だ!」として、”三話でひとつのアニメ作品を見切ること”の無為さを各々が台詞でしゃべり、そうした会話をこのアニメの”三話目”で行うという、自虐的かつ平易なメタ表現(心の叫びかもしれないが)するのも特徴的。

 また、廃部を免れるための演説では、ギレンの演説を真似るなどと、いろいろとぶっこんでくる。

「エンディングで走るアニメは、名作だよね~」等としゃべらせておきながら、

このアニメのエンディングでは走り出さないアイロニー

こうしたメタにあふれる内容で、それら台詞は、ある意味でデットプールのごとき超次元的。けれど設定として登場人物はあくまで自身がアニメと気づかずやっているわけで、すると一種の「トゥルーマンショー」的な見方も出来て面白い。

 

そのうち、アニメのパロディについてを語りだしては、次にアニメのパロディを用いるアニメを語るとすれば、アニメパロディ作品を用いるアニメパロディ作品を語るアニメ作品…とまるで合わせ鏡の世界に迷い込んだような錯覚を演出しそうな勢いさえある。

 

メタ感もアイロニーもあって、このアニメ、いまのところ面白い!!

 

 

胃潰瘍ジョーク

 

 

アルヴァレス博士が医師たちの集まりで講演した。

「皆さんは、その症状の背後にある心理的背景を見落としてはなりません。心理的なものがひきがねとなって起きた病気には、精神安定薬をも処方すべきであります」

博士は、彼が治療にあたった病例を引用した。

その患者は中年の女性だったが、胃潰瘍の症状を示していた。

どんな薬を処方しても症状は好転しなかったが、あるときからめきめきよくなった。

きいてみると、彼女の夫にはブロンドの秘書がいて、それまでは残業といっていつも夜遅くまで帰宅しなかったのだが、その秘書が辞め、夫が夕方には帰ってくるようになり、それ以来潰瘍がよくなったということがわかった。

その話をきいていた医師のひとりが立ちあがって質問した。

「博士、ブロンドの秘書を失った夫のほうには潰瘍が出ませんでしたか」

 

 

 

政治家とは

 

 

高名な政治家に知人がたずねた。

「きみは、来る日も来る日も、陳情やら、野次や批判ばかり聞いていて、よく気が変にならんね。実に感心するよ」

政治家はにやりと笑って言った。

「聞いていると思うかい?」

 

 

 

痩せるには美食が一番!

 

ジョーク関連の本に書いてあったことなので、

おそらくジョークなのだけれど理にかなっており、思わず「へえなるほどな!」と唸ってしまったので紹介。

 

 

シドニー・シャピロ医学博士によれば、減量の最上の方法は美味いものをたらふく食べることだという。

シャピロ博士は言う。

「うまいものをたらふく食べれば、必ず太ります。太れば、体を動かすのが大儀になる。したがってだんだん働かなくなる。働かなければ、かねが入ってこない。かねがなければ、食物が買えない。食物が買えなければ、すなわち食べることもできません。そして食べなければ、諸君、体重はみるまに減るのであります」

  

 

この原理を応用して言えば、

「高級な食物での生活では、余分、または多くの食物を買えない」

とも示せそうである。

 

とすれば、必然的に(金銭事情によって)買う食物の量は抑えられ、結果、食べる量も減ってスリムに成る!ということか。

さらに高級な食物の分、それらは質も良いはずで、体にも良い。

食べるのが少量になることもまた然り。

 

結局は

「太る大きな原因・要因は、ジャンクな食物に帰着する」

とも言えそうだ。

ジャンクフードは財布に優しかろうが体には厳しい。

 

すると、この美食ダイエット。

実践するのは容易く、効果は出やすい。

そして無理な食事制限と違って美味しいものも食べれて一石二鳥。

「美味いものを食べるぞ!」と仕事にも精を出せるのならば、一石三鳥かもしれない。

 すると人生は捗り鮮やかな毎日となっては生活が潤う。

 

こうした知恵が、ジョークの本に載っているのだから、やはりポケット・ジョークは侮れない!

 

  

「月がきれい」とは言っていない?

 

夏目漱石が、

”Ⅰ love you”

を、

月がきれいですね」

と訳したとされるのは、昨今では有名なこと。

 

しかしこれはどうやら誤りらしい。

曰く、 

 

夏目漱石が英語教師だったとき、

「我、汝を愛す」

とか

「僕は、そなたを、愛しく思う」

などと訳す学生たちを

「おまえら、それでも、日本人か?」

と一喝し、

「日本人は、そんな、いけ図々しいことは口にしない。これは、月がとっても青いなあ と訳すものだ」

と言った。

  

引用は豊田有恒氏の『あなたもSF作家になれるわけではない』。

しかし実際には、この漱石の逸話自体、明確な出典はなくて、「都市伝説のようなもの」らしい。

 

 

とすれば、どこから出た話なのだろう?

月がきれいですね」などは、言葉が出来過ぎていて創作めいている。

しかしそれでも、この言葉の美しさに思わず共感してしまう辺りは、日本古来からのアニミズム的思想の影響もあるのでは?と思ったり。

 

 

発言の真偽はともかく、昨今では、

月がきれいですね」=”Ⅰ love you”

が既に浸透し過ぎて、遠まわしに全く成っていない!

というか、

『「月がきれいですね」=”Ⅰ love you”』

とすぐさま理解されるならば、それこそ既にこの言葉の意味は成さないわけで、ならば素直に言っても変わりない。

だからこそ、今度から

”Ⅰ love you”

を暗喩的に言いたければ、

「月がとっても青いねえ」

と言うべきだ。

これなら遠まわしであって直喩にならず、漱石の意図通りであって漱石もニッコリ。

 

 

正直、「月がきれい」は今のエンタメ作品においては、乱用され過ぎている感がある。

あるところで見たコメント、

ナチス織田信長はフリー素材だぞ」

に匹敵するほどだ。

 

速読について思うこと

 

つい先日、たまたまネットで「月に百冊以上は本を読んでいます!」というブログを見つけては「どひゃー!すごいな!」なんて安易な衝撃を覚えつつ、

 

「速読の効果です!」

とするのはまだしも、その読書量を誇示する形に違和感を少し覚えては、

 

「というか、年に千冊以上読んでも、そうした煩悩は取れないんだな…」

 

そう思っては、誇示する読書量の自慢に強烈なアイロニーを感じられずには居られない。

 これはある種、自己顕示欲だけは捨てられないミニマリストに似た悲壮感を臭わせる。

 

もしや体を張ったギャグなのか!?

 

 

 

物事は量より質。

スティーブン・キングも自身の本で例えを用いて、このように語っている。 

 

娼婦が照れ屋の船乗りに言う。

「大きさがすべてじゃない、どうやって使うか、それが重要よ」

  

 

よくよく思い疑問なのが、速読における取捨選択。

 

自分の興味関心のある部分だけを読むというけれど、

批判的でなく、単純な疑問として、

そうして捨てた部分に黄金があるとは思わないのだろうか?

 

内容を吟味せず、読書自体を主目的にしてしまっては、

低カロリーの食品ばかり食べて栄養失調になることと似ているかもしれない。

どちらも行為に対して、得られるものが少ないという点に関しては。

 

そんな疑問を思い描いたり。