2月に読んだ本からおすすめ10冊を紹介。
2月に読み終えた本は32冊。
その中からおすすめを紹介!
第10位
『古典を読む (ヒューマニティーズ)』
啓蒙深い一冊。
内容として、はっきりといえば「解釈学」について。
だからこそ、解釈とはどのようなものか?を平易ながらもその側面を知ることができた。ガーダマーによる解釈学についてや、ニーチェの作品について解釈学を通して眺めたりなどする内容。最後にはハイデガーの思想を包括しての、解釈としてある存在性とその可能性についてまでも解説。
ガーダマーの解釈学としての古典の読み方、つまりどのようにして読めばそのテキストを正確に理解、として捉えることができるのか?
その答えとしての、解釈論的循環は面白かったのでおすすめ。
それってどういうこと?
と問われてうまく説明できるか微妙だが、噛み砕いて説明すると、
文章や文節、単語におけるドグマ性を指摘していることであって、つまり文章それを正確に理解するためには文章中の単語を、単純に単語のみでなくその行間、背景までも読み取る必要があり、しかしそれには文章全体をまた理解しなければならず、つまりここで循環が生じてしまう。
ということ。
ここで大切なのはテクストの意味の取り方として、取る側は自身以上のものを察知できないということ。
その“客観性”もまた、“主観性”の枠を出ない客観性、であることも視野に入れなければならない。
だからこそ、そこに生じる齟齬や落差によって、文章の完全な理解は不可能とする。
しかしこのことは要するにいえば、対人関係、つまり他人の理解に対しても言えることであって、ある意味では当然のことだ。
あとはニーチェの著書「この人を見よ」が、二重の読み方があると知れる一冊でもあった。平易にいってそれが二項対立と両義性としての読み方。
あとは“自己”と“自我”の違いついて思索した、ハイデガーの思想についての解説なども知的好奇心をくすぐられる内容であっておすすめ。
そして本書における重要なキーワードは、
「地平の融合」。
ヘーゲルのアウフヘーベンへの関連性も思わせたこの概念、読めばその深遠なる意味もよくわかるかと。
あとページ数はあまりないので、意外と読みやすい一冊。
第9位
- 作者: テネシーウィリアムズ,Tennessee Williams,小田島雄志
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1988/03/30
- メディア: 文庫
- 購入: 3人 クリック: 15回
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以前に読んだテネシーウィリアムズ『ガラスの動物園』が面白く、その流れで購入した一冊。そして本作は栄えある受賞作という事で期待も高まりながら一読。
結果として、またも面白かった!
登場人物は程ほどに居ながらも全く混乱せず人物像が鮮明に沸き立ち、実に生き生きして感じとれた。本作のテーマとしての「粗暴なまでの“新しいアメリカ"の生」とは、なるほど本書を読めばよく分かり、それも現代人にも通じるものがあった。
最後のオチもなかなかで衝撃であって、そこにはトクヴィルがアメリカで見た光景を思わせ、利己私欲に赴く終わりのない遁走を見せていた。
また、言葉の表現が巧みで見事なアナロジーとアイロニーが入り混じってほろ苦い酒のような風情を醸している。
この作品は、自身を高く見積もり己を崇高しながらも現実像とのギャップに思い悩む姿を描いた内容。というのは普遍的かつ老若男女に当てはまる事象だろう。
思った以上に面白かった一冊。そして主人公の一人とも言える妹の夫スタンリーが良いキャラをしており、肉体労働者としての強固さを、暴力的にも魅力的に描き出している点など本当に上手い。生きる力の権化のようなその姿は、素晴らしくありそして著しい魅力に溢れていながら短気で損気な性格でそんな欠陥もより人間らしさを強調。
受賞作と言うのも納得の出来栄えだった。
第8位
『パパ・ユーアクレイジー』
不思議な小説。
と同時に、小説指南の小説でもある。
ただこの小説において稀であり心に響いた箇所があって、なので後日にこの本について取り上げようと思う。
登場するパン屋がとても印象的であり、パン好きにはその一部分のためだけにも読む価値のあった一冊。ハッと心が温まる文章とは、生きたパンのように、輝いて届いてくるものだ。
第7位
「リヴァイアサンって、こんなにもユートピア社会を描いていたのか!」
と驚いた*1。
本書は、ホッブズにおけるリヴァイアサンの概要を知らしめる内容であり、一読すれば「リヴァイアサンとはどのようなものか?」を知ることができる。
読めば“自然権”や“自然法”などについて容易にわかり、社会契約としてのシステムとそこにある思想について知れることは確かである。
するとこの思想自体、いかに時代を反映していたかもよくわかり、経験主義的な思想であるとは当人の歴史を解説することによって大いに納得。
同時に、ホッブズ独自の人間の見方も面白く、機械的論としての人間の見方は当時としてだいぶ前衛的であると思う。そして人間の自然状態を、つまりまったくの自由状態を決して善いようには捉えず、蛮族のごとく野蛮さを強調していたのも特徴的。
あとは宗教と政治の融合については読み応えあり、多少苦し紛れな点も否めないこともまた、時代背景を存分なほどにおわせた。
よくよく考えれば、「こうしたリヴァイアサンのシステム、概念が昨今の日本においても適応されている」と思うと、実に感慨深いものでもあった。
おおよその諸概念としての社会システムは、上下関係としての権威関係が流布しており、その効用によって循環に働いている。まさにリヴァイアサンは、日本という国のシステムの源流にも潜む怪物であるのだと気づかされる。
第6位
『トクヴィル 現代へのまなざし』
新書ながら充実した内容。
期待以上に内容が濃厚であり政治思想を学べる上でも面白かった。
そして一読すると「平等」といったものに対する概念の理解がより深まる。
興味深かったのは不平不満は平等となった状態からこそ生じるという事実。これまでの階層系では、差別があるもとのして当然の状況。すると不平等としての文句はそれ自体がナンセンスであり、重要なのは”そうした思念を抱かせない状況”にあるということである。つまり平等という概念はただ単純に善いものではなく、そこに孕んでいる危険因子の追求についての研究が重要なのである。
平等の不平等による害悪、またはそれによって中央政権によって生ずる具合の悪さ。
そこでは中間層の役割が重要にも関わらず、そうした組合が阻害しされまた機能を停止された状態における社会の不安定な状態について。人間の欲望として生ずるのは他者からの比較からとし、平等の中にある不平等こそ、それが「解消可能な事物」として捕らえられることによって生じるのだと論じる。これが不平等世界以前には存在し得なかった心象であり、このことこそが平等から生じる問題のひとつ。
「アメリカは物質的には恵まれているが、人々は陰鬱な表情をしていた」とトクヴィルがアメリカを視察した上で残したこの言葉は印象的で、その原因として挙げたのが「人間の無限の想像力による弊害性」。これこそ現代人も陥っている病であり、資本主義的な物質主義に対しての行動を「尽きることのない遁走」と述べ、その言葉は大いに説得力を纏っているよう感じた。
社会構築の仕組みとしての情動における重要性、そこを突く内容。
そして大衆娯楽に対する捕らえ方においては、現代においてもまったく同様なのでハッとさせられる。支配者構造としてそれがデモクラシーとして隠蔽されている限りは、それは圧制としてのシステムであることをやむをえない。すると本書を読んで気づくのは、そうした現状に甘んじる人々の姿であり、また遁走を続ける民衆。それにさえ気づかない者たちの絶望などである。
第5位
『文学部唯野教授』
読み終えた後、博識になったように思える一冊。
講義のシーンでは大いに勉強になった気になれ、本編ストーリーは爆笑必死。
正直、今まで読んだ筒井康隆作品の中では飛び抜けて面白かったので、多少驚いたほど。
第4位
『0(ゼロ)』
ぜんぜん知らない作品ながら、ふと呼んでみるととてつもなく面白い小説だった。
中編一つに短編二つの構成。
その中編が表題作『0(ゼロ)』であり、これを読みながらふと思ったのは「これがポスト純文学?」ということであってそれほどには幻想的。
でありながらも、感情と内情の表現の豊かさには引きこまれ、とても面白い上に斬新。この斬新さと理不尽さはある種カフカにおける『変身』を想起させたほど。
超名作アメコミ『ウォッチメン』に登場するドクターマンハッタン。
その彼が、肉体崩壊していく様においてのを心境を語るとすればこんな感じ?というのを思わせる作品であり一読する価値は大いにあり。
あと『シバタの主人』という短編もまた素晴らしい作品で、大変面白かった。
これは時間が切り取られることが発見された世界でのお話で、切り取られた時間の欠片が当時の情景を見せる、という設定のもとに繰り広げられる物語。
また、この作品内で語られた「比喩を用いず語る」ことについて語られた内容がとても興味深く、言語としての本質にも触れているようであってユーモラスかつ啓蒙的。
「比喩を使わず語る事にこそ語れることがある」として語るのだから面白い。
あと一読して感じたのは「文章がなんとなく円城塔に似ている」ということであって、ラジカルながらも滑稽さを存分に醸し独特のユーモアを備え、淡々とした語り口調など類似点は案外多いように思われた。
第3位
『アリバイ・アイク』
アメリカのユーモア文学を集めたアンソロジーを読んだときに知った作家。
それが本書のリング・ラードナーであり、その短編集がこれ。
アンソロジーでも読んだ短編『アリバイ・アイク』とは、何に対してもつい言い訳をしてしまう男の話。これが実に面白く、機知とユーモアにあふれきった作品で、読んでいて爆笑もするわちょっと感動もするわで読んでいるほうもまたてんやわんや。
「こんなすごいはなし書けるのなんてすげえな…」
と素直に嘆息してしまったのだけれど、それで収録されているほかの短編も読んでみたわけだ。
するとなんと、どれもとてつもなく面白いではないか!とまた驚愕。
いかにもアメリカらしい言葉つかいでのやりとりが最高で、遠まわしな表現にこめられた機知なやりとりは日本語で言うこところの「粋」。
もうこれはアメリカンなジョークやユーモア好きには大変おすすめ。
人生において如何にユーモアが大切か?それを示してくれる教典的な短編の数々。
至極である。
第2位
『戦争における「人殺し」の心理学』
- 作者: デーヴグロスマン,Dave Grossman,安原和見
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2004/05/01
- メディア: 文庫
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リアルとリアリティは違う。
創作のものにたいして言われるこの言葉。
本書を読むとその意味がスッと肌身に溶け込んでくるように理解ができる。
内容として一読すれば人殺しとは容易なものでないとよくわかるだろう。
それこそ「経済学的な合理性を現実の人間は否定する」ように。
人間が人間を殺す行為。殺人とは如何なることか?
本書はこうした根源的な疑問にスポットライトを浴びせ、深入りして追求されずにいた
この疑問に光を当てる。
端的に言ってしまえば、本書を読む前と読み終えた後では、娯楽作品一般に対しての見る目が一変してしまう。
つまり、
「リアルとリアリティは違う」。
創作のものにたいして言われるこの言葉。
その真意が明確にわかるようになるのだ。
なってしまう、と表現するほうが正しくも思え、過度な幻想は瞬く間に消滅する。
しかしそれこそが現実であり、「人を殺すとはどういう意味なのか?」と深く考えさせられる内容。
本書を読めば、交戦中における銃の命中率の悪さに驚くだろう。
そして条件付けによる訓練が、どのような意味を持っているのかも。
読めばなるほどと、「目標をセンターに入れて…」と訓練していたエヴァにおけるシンジ君の行動の合理性についても納得すること請け合いである。
あと多少驚いたのは、洋画の戦争映画などでよくあるユーモアたっぷりのブラックジョークの会話、もしくは日本の作品で言えばブラックラグーンなどにおけるウィットで皮肉を利かせた会話。それら言葉使いについての真意について。
こうしたアメリカン的なノリによるユーモラスな会話は正直大好きであって、しかし本書を読んでそうしたブラックジョークに満ちた会話とは錯乱状態を示すものでもあり、それが“ガンザー症候群”と呼ばれる一種の精神疾患と知りこれには驚いた。
まさか精神疾患の一部とは露知らず。
第1位
『キッチン・コンフィデンシャル』
- 作者: アンソニーボーデイン,Anthony Bourdain,野中邦子
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2001/10/01
- メディア: 新書
- 購入: 1人 クリック: 3回
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NYシェフが、己の体験談を語る自伝的な内容の本。
そのあらすじはヤクにはまりこみ休憩中にふかす著者をはじめ、罵詈雑言が銃弾のごとく飛び交う厨房でのやり取りや、周囲に取り巻くあまたのクソッたれを紹介していく。
その内容が最高にクレイジーで面白い!
ここまで面白いとはまったく予想外。
ニューヨークのシェフというだけで、想像する日本のコックとはこうもその世界が違うとは!と脅かされること間違いない。
なかでもパン職人についての話はパン好きとしてはやはり注目で、酵母の事を「ビッチ」と呼ぶのには爆笑。そこで紹介されていた天才ヤク中パン職人アダムのパンをぜひとも食べてみたくなったほどだ。
とにかく面白く、とてつもなく興味深い。
語彙の少なき賞賛こそ、右脳的感嘆を示す賞賛!!
飲食、料理業界に多少なりとも興味があるようならば、必読の書!
読めば己の世界観を広げてくれる一冊だ。
あとは最後にあった「料理人を目指す人への心得」などは印象的。
これなどは調理の仕事を目指す人にとって必ず役に立つであろう金言が述べられ、このためだけの購入しても損はないとさえいえる。
かといって別に飲食業界を志す人でなくとも十二分に楽しめる一冊で、クレイジーでいかれたシェフどもの実情を知りたいのならば迷わず手にすることをお勧めする。
あとこの2月中には今更ながらも又吉直樹氏の『火花』を読んだ。
その感想としては、オチが好き。
ポプテピピック9話目のボブネミミッミにみられる心理的絶望について。
ポプテピピック9話目のボブネミミックは2つともたいそう面白かった。
そんな折、気になったのがこちらのほう。
この作品では、
ピピ美が「面白いことを言う」と宣言。
その「面白いこと」を言う前に、
「面白い!」とポプ子が言って激しくドラムを叩くという展開。
ここにみられる心理的絶望とは?
まずひとつ考えられるのは、心理学における「同一化」である。
これはどのようなものか。
簡単に説明すると、下記のようなことを指す。
精神分析の用語。区別のある自分と他人を混同すること。
話を戻そう。
そして端的に言えば、ポプ子という金髪っ子のほうは、ピピ美と呼ばれている黒髪のほうに依存しており彼女に全幅の信頼を寄せている。
そのような関係性を築いており、詳しくはこちらを見てもらえばよりわかりやすい。
大人気打ち切りマンガ『ポプテピピック』 ポプ子とピピ美のキュートさを見直したい - ねとらぼ
ここで最初の、ボブネミミック動画の話に戻ろう。
そこでも述べたように、この作品ではまずピピ美が「面白いことを言う」と宣言。
注目する点はここにある!
ポプ子はピピ美へ「同一化」している結果、彼女が言う「面白いことを言う」とする宣言それ自体がすでに面白いのだ。
こう述べたほうがより正確かもしれない。
つまり、ピピ美が「面白い」と思い言おうとすること自体、ピピ美と同一化している時点においてそれはピピ美と同じ感覚を持っていることになり、彼女が「面白い」と思い発する言葉は彼女と同様に「面白い」と必然的に感じるのだ。
だからこそポプ子にとってその発言は「すでに面白いことを言った」事と同意義であり、それにより彼女はピピ美が「面白いことを言った」事を肯定しようと、自分の感情をドラムに宿し激しくたたく。それは同一化を示す暗喩的なサインであり、同時にそれこそが「同一化」することへの儀式なのである。
しかし問題はその後。
ピピ美がこのように言うからである。
「まだ面白いこと言ってない…」
と。
この発言により、ポプ子はピピ美が「面白いことを言った」事を肯定しようとしていた自分を否定されてしまう。
その瞬間、ポプ子はピピ美へ依存し同一化していた自身のアイデンティティが、突然にも強制的に乖離させられてしまったのだ!
結果、ポプ子は激しいショック状態となり衝動的にスティックを折ってしまう。
そして思わず涙してしまうのだ。
この作品で示されているのは、ポプ子によるピピ美への「同一化」による錯覚と、それが崩されたことによる激しい絶望なのである。
伝説巨人イデオンは日本人の教養!
西洋人がシェイクスピアを教養として嗜むように、
日本人も伝説巨人イデオンを教養として嗜むべきだ!
abemaTVにて放送していたイデオン。
この日で最終回を向かえ、無事に39話全てを視聴。
それを達成できたのは24時間の見逃し配信があったからで、abemaTVに感謝。
伝説巨人イデオンといえば「庵野監督に多大な影響を!」といったことや、「スパロボで無双!」といったぐらいの知識であり、しかもスパロボをやったのでさえだいぶ昔の事なので漠然とした事しか覚えておらず。
そんな折にテレビ放送の全話を視聴。
感想としては…
すげえ面白かった!!
「何処か面白かった?」
と問われれば、それはもう、おおよそすべて!!
宇宙船の艦内という限られたスペースにも拘らず繰り広げられる群像劇はどろどろしており人間の闇の部分を露呈し 、昼ドラも真っ青な憎悪に醜態。嫉妬も猜疑心も醸して人間としての明るさがない。
ロボットアニメとしては、かの有名な”全方位ミサイル”に感激しては「おおー!」と思わず嘆息。
そしてすげえと思うのは、どの話も展開は急激であって海外ドラマの如く意表を突いてくるところ。まるで投手が90kmのスローボールと160kmの剛速球を交互に投げてくるような緩急の激しさがあって一瞬たりとも目が離せない。
それにも慣れてくれば今度、虚を衝くように160kmの剛速球を連続してガンガン投げてくるような急展開さもあり、こちらはポカーンと圧倒させられる。
はっきりいおう。
このアニメは、多くの人の人生を変えてきた。
数多の人間の思想に影響を与えた。
「イデ」という「イデア」は、もうそこかしこに実際、充満しているのだ。
その哲学的側面からして、この作品の批評にはおおよそラディカルな意見が綴られておおり、
「このシーンでは○○…」「こうしたメッセージ性が…」
というものが多々。
考察としては面白くてもその魅力自体を伝えるには物足りない。
人は最低限の言葉で、最大限の情報を欲しがるからだ。
この記事としては本来、ラディカルな意見と語彙足らずを思わせる感想を比較した場合において、言葉足らずの謳い文句優先の感想がなぜ大多数の支援を得るのか?なぜに魅力的か?を右脳と左脳との役割の違いを通してここに示そうと思っていたけれど、それでは同じ穴の狢と気づいてもうすべて省略。
ジャンクフードは食いつきよくて、その他の問題は各々で対処すればいい。
だからこそ、もう声高々にこう言うのみだ。
「イデオンはくそったれに面白いから、見なきゃ人生の半分は損しているぞ!!」
朝マックのマックグリドル ソーセージは面白い。
ものすごく久々に、もう記憶の片隅に置き捨て埃をかぶって久しいぐらい食べていない、マクドナルドのマックグリドル ソーセージを食べてきた。
するとこれがまあ、嘆息垂れずに漏れる感想一言目。
「あ、面白い味」
何ともまあ面白い味にホットケーキ風のバンズにパテという面白い組み合わせ。
するとこれが一種の起爆剤。
思い出の種となって芽吹きもしくはセーブポイントのとしての役割を果たしては「続きから」のメニューを表示、以前に行ったカナダの思い出をプレステの如くNOW LOADING。
カナダの朝食として何度か食べたメニュー。
それがワンプレートの食事で、そこには平たく厚み少々のホットケーキが2枚・3枚、その上にベーコンやらスクランブルエッグが乗ってケチャップ。さらにメープルシロップをその上から全体に!
そうして完成のワンプレート、これが実に美味かったのだ!
ベーコンの脂身と甘味は見事に調和しており、今にして思えばこれは肉じゃがにおける肉の脂身と甘味での味、もしくはすき焼きの割り下を想起させ、要は肉の脂身と甘味は日本人好みの味付けでもあったのだ。
ただ向こうはメープルシロップと直接的な甘味であるので甘みの主張は強く、
けれどそれが実際にはとても美味しくて本当に絶品。
今にして思えば「メープルシロップ事体の質が良かったのかな?」なんて風にも思えつつ思い出補正もあるのだろうと思う。
肉とメープルによっての甘く肉々しい淫靡な風味。
主食とおやつが入り混じったような背徳的美味。
そんな記憶を思わず蘇らせたマックグリドルソーセージ。
今年のうちにはあと数回、きっとまた食べるだろう。
ポプテピピック1話目のAC部作品による形而上性について。
昨今、大人気のアニメ『ポプテピピック』。
つい最近、6話目も公開されており、今にして最も勢いのあるアニメ作品とも言えるかもしれない。
しかし個人的には、回を重ねるごとに微妙になっている気が…。
それでも1話目での衝撃は凄まじく、初めてアボカドマヨを食べたぐらいの驚きはあった。
今にして思えば、そうした感情の揺さぶりとしての要因は、
・予想外の声による驚きとそのマッチ具合。
・数々のパロディネタと全体に蔓延る皮肉感。
など。
なかでも特に衝撃だったのは、
・AC部の『ドブネミミッミ』
これが特に大きな要因。
その作画のインパクトはもとより、
一話目の作品ひとつが妙に記憶に残り、しこりのようになって存在し続けた妙な違和感。
それはなんだろうかと思う中、最近ふと気づいた。
とりあえず、その問題の作品を見てもらいたい。
内容として、ピピ美が「たくあん」にされるという、なんとも理不尽なオチ。
しかし、このオチの一番の問題は
「たくあんにされる」
ということではなく、
「たくあんにされた後にも意識を持ち、自己を失っていない」
という点にある。
これはつまり、
肉体を失ってもなお、
”ピピ美”
としての存在をなお継続している事象を示しているからであり、平易に換言していえば「自己の永続性を示している」に他ならないからだ!
この作品を見て得た妙な違和感こそまさにこれで、
不死の存在を否定するようなメッセージ性。
それは肉体を超越した存在を描くことにより、「不死と永遠の価値観の逆転」である。
この価値観の逆転に関しては、偉人ピタゴラスによる思想「感覚的世界と超越的世界との間の価値の逆転」を思わせ、つまり「不死」以上、死なないということ以上に「時間を超越したものに価値を置く」ことに対して価値を置き始めたプラトンやクセノポンの思想と類似する。
まさか昨今のアニメを見ていて、「ソクラテスの死」が哲学史に対してもたらしたもの*1と、同様のものを感じ得ようとは。
イギリスの作家、ノーマン・エンジェルはこう述べている。
「単純で重要な問題ほど問われることは少ない」
『ポプテピピック』というアニメは確かにクソアニメかもしれない。
しかし、人の根本的な疑問に意識を向けるよう、きっかけを与えてくれるクソアニメでもある。
不死性による尊さへの否定。
それはある種における不死性としての神の定義を否定するわけであり、クソアニメだけあってかみをよごすわけだ。
なんて突飛なことを考えてみたり。
『チョコレートドーナツ』という差別映画が教えてくれること。
2月11日の日曜日、アベマTVにて『チョコレートドーナツ』という洋画を放送していたので視聴。
これが奥深くて、なかなか良い映画だった。
テーマとしては実にシンプルで、1970年代におけるアメリカでの
「同性愛者差別」を示す内容。
ヒューマンドラマ映画であり、あらすじをみれば概要はおおよそつかめるかと。
そこであらすじを下に引用。
1979年、カリフォルニア。
シンガーを夢見ながらもショーダンサーで日銭を稼ぐルディ。
正義を信じながらも、ゲイであることを隠して生きる弁護士のポール。
母の愛情を受けずに育ったダウン症の少年・マルコ。
世界の片隅で3人は出会った。
そして、ルディとポールは愛し合い、マルコとともに幸せな家庭を築き始める。
ポールがルディのために購入した録音機でデモテープを作り、ナイトクラブへ送るルディ。
学校の手続きをし、初めて友達とともに学ぶマルコ。夢は叶うかに見えた。
しかし、幸福な時間は長くは続かなかった。
ゲイであるがゆえに法と好奇の目にさらされ、ルディとポールはマルコと引き離されてしまう……。
血はつながらなくても、法が許さなくても、奇跡的に出会い深い愛情で結ばれる3人。見返りを求めず、ただ愛する人を守るために奮闘する彼らの姿に我々は本物の愛を目撃する。
はっきりいってしまえば、あらすじそのままの映画。
だがこの映画が特筆的なのはそのメッセージ性。
要は「差別はよくない!」とする全うなものなのだけれど、
重要なのは本映画を視聴して、
「同性愛者差別をはじめ、差別はよくない!」
ということだけに済ませないところにあると思う。
つまり、この映画がもっとも訴えたいこととは、
「差別がよくない」
ということではなく、
「時代という背景に潜む、”差別”という存在に気づく」
ということだ。
この映画では、1970年代のアメリカにおいて同性愛者とは社会不適業者のレッテルを無条件に突きつけられ、社会としての存在が、彼らをそう認識付けていた。
「酷いなあそれは」
で済ませられない実情がそこにはあり、つまりこうした「時代によって定められた先入観的イデオロギー」というは、実際いつの時代においても存在しているのだ。
今の時代にしてみれば、同性愛者も立派な人権が認められており、過去のそうした差別は野蛮な所業に思えるだろう。
しかし、果たしてでは現代が、「同様な差別を行っていない」と言い切れるだろうか?
答えはノーであり、分かりやすい例で述べれば「NHK放送受信による強制徴収」など。
別に見れなくてもなんら不便ない人もいれば、NHKの番組が大好きな人がいるだろう。問題なのは、これが「強制」という点であり、民主主義国家として民主主義としての意味を功利主義としての全体幸福を主張するのであれば、それは「自由」を容認すべきであって、強制である時点で「それって民主主義国家としてどうなのよ?」となるはずである。けれどこれなどは同様の声もいくつかはあって、分かりやすい例。
だからこそのこの場合は将来的に「強制徴収」ではなくなっている可能性は高いと思う。すると、そうした未来からして今の時代を振り返れば、「あの時代はよくああした強制徴収に文句をもっと言わなかったな」と、この映画を見て感じることと同様のことを言うだろう。
他の例としてもいくつかあると思うが、さっと思いついたのは
「新卒が就職には有利」
ということ。
「なにそれ?常識じゃん」
と思うのも当然で、確かに新卒とする若い時期にとれば、その分仕事への順応も早いであろうし伸びしろも好ましいかもしれない。
だがこうした概念もまた一種の差別である。
なぜなら、”新卒=就職しやすい”の構図があまりに確立されていると、
新卒者は自分が何の仕事をしたいか定まらぬままに流れで仕事を決めてしまうパターンが予想され、そして逆に新卒で仕事が決まらなかった場合、その後には新卒者と比べて不利な状況におかれることにより、ようやく自分がやりたい仕事を見つけたとしても、そこで新卒者と争う場合には、自身が新卒ではない事実が大きな足かせになってしまうことが考えられる。
ここから言えるのは、
「新卒者は就職をすべし」
という一見当たり前すぎる帰結なのだが、そこが大きな危険なのだ。
つまり、
「新卒者は就職をすべし」
を常識と捕らえることはすなわち、「新卒者は就職をするべきである!」と、その存在をひとつの概念に縛り付けており、これもまた差別に他ならないのだから。
社会的立場、権利を主張する場面において
「それって当然じゃん」
「それって当たり前じゃん」
こうした意見を思わず口にしてしまいたくなる事象、状況の場合。
果たしてそれが本当に「当然や、当たり前」のことであることなのか?
1970年代のアメリカでは、
「それって当然じゃん」
「それって当たり前じゃん」
として、同性愛者を差別していたのだから。
はたして現在、2010年代は未来から見て、
「1970年代のアメリカと同じことをしてたんじゃん」
とは言われない、と言い切れるだろうか?
一番に恐ろしいことは
「当たり前」
とする言葉で済ましてしまい、思考停止することに他ならない。
映画『チョコレートドーナツ』は、
そうした概念がもたらす危険性を如実に描いた傑作であると思う。