『未来人の服装』
ほろ酔い状態にふとした思い付きあり。
勢いそのままにショート・ショート化してみた。
『未来人の服装』
コロナの収束は政府の想定どおりには進まず、自粛や規制を強制しようとも人類の完全なる勝利には未だ時間が必要なように思われた。
だがそうなるとより深刻な影響を受けるのは経済情勢であり、このままでは財政破綻は免れない。
こうしたトレードオフの状況下において、コペルニクス的転回的とさえ言えるひとつのアイデアが提示された。
「他人との完全なる断絶が不可能ならば、逆に接触しても良い環境を作ればいいのではないか?」
このアイデアを元に推し進められたのは他人との接触を考慮した、人々の変革である。
そしてこのアイデアがこれまでのものと大きく異なるのは、人々の意識を変革させようとしたのではなくまさに物理的な点にあったといえる。
科学者たちはコロナ対策として新たな服を作った。
服の材質には殺菌作用を持たせ、無論ウイルスに対抗するためには素材自体に付着しないことも必須であり特殊な人工繊維によって作られたその服にはたとえ飛沫して迫ろうともウイルスを引き離す作用が備えられた。
服は隙間なく全身に着込まれ、顔の部分だけが開けられるとそこには視界をクリアに保つため透明なフィルムが顔全体を覆うように宛がわれた。
そうして人々はこの服を着ることにより、ようやく感染の恐れをなくして自由に外へ出ることが可能となった。
経済活動は少しずつ回復し、環境産業も従来の賑わいを見せるほどに復興を見せた。
人類はコロナの収束を焦らず、じっくりとその脅威を減らしていく選択を選び、彼らはコロナとの一時的な共存を選んだのだった。
そしてこれが、「銀色の全身タイツを着た未来人」が蔓延った本当の理由である。
A=B?
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昨今見かけたこの記事ほんと好きw
あと「一匹の猫が実は複数の人に飼われている……」っていう設定の小説は確かに存在していて、
この本がまさにそれ。
あらすじとしては一人ぼっちになってしまった若輩者の小娘猫に、人生経験豊かな先輩猫が生きていくための知恵を、自らの行動を手本に見せながら説いていく話。
”子ども文学”とあるが大人が読んでも普通に面白いので猫好きにはお勧めの一冊なのはもちろんのこと、意外とメッセージ性もある内容なので老若男女にお勧めできる良書。
それこそ多くの大人に読んでほしいな、とそう思えるほどには。
ふとした日常の中で気づいた小さくて大きなこと
備忘録メモ的にも残そうと思う。
食パン二枚を食べる際にふと重さを量ってみた。
キッチンスケールにパンの一枚の乗せると47g。
もう一枚を載せると表示は91g。
ということは、当然あとに乗せたほうの食パンの重さは44gである。
当たり前すぎるのだが、そのときなんとなく一枚目に乗せた食パンをどかしてみた。
すると二枚目の食パンの重さとして表示されたのは43g!
なんてことはない、事の顛末は実に些細でありおそらくは小数点以下同士の加算によって結果的に91gになったのであり、うちのデジタルスケールは小数点以下は表示されないため気づかなかっただけに過ぎない。
しかしこの気づきに含まれる一種の慧眼的示唆にも同時に気づき、思わずハッとした。
それが備忘録として書き残しておこうと思った理由であり、有意なる発見に繋がるための知見として役立つ事態であると感じたからである。
なるほど、短絡的に見れば「先入観を疑え!」とも取れるだろうが、ここで思うのはそれだけのとどまらず、こうした盲目的な事態に対する気づきこそ多種多様の事項に対してアナロジー化できるものだなと思えたからであり、少し哲学的に言えば「数学における完全性が現実の世界において完全に反映されていない理由」こそ、ここにあるのだなということにある。
砕いて分かりやすく言えば「人間がなぜ”絶対的”な理論的思考を取れないのか?それは人が1+1を2と理解しているばかりではなく、それを2以外の数字を答えとしての考えられることにある」といった具合であり、人の論理的思考に混じることで論理的思考を遮らんとするその変数的な存在そのものが「実は数字ではない」という風に、異なる次元(事象としたほうがいいかもしれないが)の可能性を臭わせることを『気づかせる』または『勘ぐらせる』というこのメタ的な気づきに対する気づきことが重要なのでは?と思ったわけだ。
概要をもっと砕いて分かり易く示せば「一人の人間と一人の人間を足したところで、その答えは”2”以外の可能性を持つ」といったこと。
総括すれば「隠れた数字によって大きく異なった結果を導き出す可能性がある!」と言うことよりかは寧ろ「隠れた数字それ自体を別の事象として捉え直すことの重要性」を訴えているように感じられたということだ。
乱文ながら備忘録としてのメモなので一応ここまでに。
2020年の冬アニメとして最高だった『ID: INVADED イド:インヴェイデッド』と、ふしぎな魅力を醸した『ネコぱら』の話
2020年冬アニメもこの時期となるとほぼ最終回を迎えた。
そのうちではそれなりの数を観ていたのだけど、ずば抜けて面白く、そして完成度が高かった作品が『ID: INVADED イド:インヴェイデッド』。
これはもうおそらく今年一の作品と言って過言ではなく、これを超える作品は出てこないであろうと断言して言えるほどには素晴らしい内容と出来栄えだった。
プロット、演出、BGM、効果音までも秀でており、まさに文句のつけようのない作品。
さらにSF要素も満載で個人的にはかなりツボな内容で、老若男女すべての人にお勧めできる作品ではないものの(「難しくてよく分からん」や「ややこしい」といった声などもいくらか聞いたため)、映画のインセプションやパプリカの世界観が好きな人、ミステリーもしくはSF好きであって考察好きと来ればまさにうってつけ!の作品ではあり、とにかく面白くてお勧めしたい。普段、アニメのDVDなどには興味がないけれどこれに関しては「欲しい…」なんてつい思ってしまえるほどの作品だった。
(あと観る際には出来るだけ作品情報を調べずに視聴することをお勧めする。ネタバレなしで見ることでより楽しめるのはもちろんのこと、初見でも分かりやすく丁寧に作られているのも本作品の特徴であり良さの一つ。しかし一回の視聴で全て理解するのは難しく、そこで解説を眺めてハッとすると言う楽しみ方が乙である)。
対して『ネコぱら』と言うアニメについてちょっと語る。
こちらアニメ作品はイドとは打って変わってその内容、あらすじは至極単純であり擬人化したように見える猫が人の姿として日常生活を謳歌、お店を手伝ったりなどしてその様子を描写!したに過ぎない内容であって、その内容とはあってないようなもの。
所謂、一種の「日常系アニメ」と言われる作品らしく、あまりなじみのないものだから「これほど中身のないアニメとは!」という一種の驚きと「意図がないのが意図?」なんて怪訝な思いも少なからず含有しながらも気付けばあれよあれよと言う間に全話を観てしまっていた。
そこで気付いたのはまさに「中身のないアニメの重要性」なんてことであり、それは実に単純なことで情緒的かつ夢想的なこと。
仕事を終えて、疲れて帰ってきて、さあアニメでも少し見ようかな。
そんな状況において未だ疲労に頭がぼぉーっとしている時分にネコぱらを観る。
するとかわいらしいキャラクターたちが無邪気に悪意もなくじゃれあい、楽しそうに過ごしている。そこでは喧嘩があろうが誰もが相手を思いやり、そして大切に思い、敬い相手のことを心から大事にしている悪意ゼロの空間。
そんな醜さの一切ない澄み切った世界などが現実には当然存在しない(けれどまあ、そうした汚さなや利己的、混沌さを含む世界を全否定するわけではないけれど)。
そんな折に垣間見せる「ネコぱら」の世界観とはつまり、桃源郷的でありまるで夢の中の世界であると言えるだろう。
そこでこのアニメをつい見てしまうという真理性に気付いてハッとした。
つまり疲れている時分においては、自分は起きながらにして夢を見たいのだ!
とすればなるほど、こうした「日常系」と呼ばれるアニメ作品が蔓延る理由も合点がつき、誰しもが完全平和な理想郷としての世界を夢見るのではなく、まさに夢を見るかのごとくしてその作品を見ているのだ。
起きながらにして夢を見る。
そんな矛盾的な状態を醸し、作り出すこの「日常系アニメ」というジャンルの特筆さと作品としての確固たるスタンスを、このアニメは教えてくれた気がする。
(と言っても別段「特別にお勧め!」というわけではないのであしからず。ネコぱらを観るなら先にイドを観ろ!ってぐらいにはイドを勧めておく)。*1
*1:おそらく「この二つの作品はわたしも観ていたよ」といった読者ならば、今回の記事の裏タイトルが『夢』であることには気付いていたと思う。
ちょっと不思議な夢
不思議な夢を見るとわりかし気にする性分で、夢占いで見た夢について調べたりするんだけど、今回の夢に関してはネットで調べても夢占いに載っていなかった。
というそんな夢。
どんな夢だったかというと、
『夢の中で夢を見る』というのはわりとあることと思うけれどそれと似ていてちょっと違った。
夢の中で夢を見てそれの夢占いを調べる夢。
そんな夢。
延々と循環する螺旋階段みたいな構成の夢で、おぼろげながらも覚えているのは夢の中で夢を見て、さらにバスに同伴している見ず知らずの友人から「こんな夢見てさー」と話しかけられてふんふんと頷き、「じゃあその夢を夢占いで調べてあげるよ!」とその友人の夢を夢占いで調べる夢。それで夢の中で夢占いの結果を見て「なるほど」と妙に納得しても居た夢。
なんとも複雑怪奇で、ここまでに何回「夢」と書いたかわからないほどではあって流石に「夢の中で夢占いをする夢が示す夢の意味とは」をググっても見つからず。
そのうち夢占いが本来の意味ではなく、『本物の夢かどうかを判断する占い』となってしまいそうな夢占いについての夢だった。
読書における『三重性』
昨今気付いたこととして、読書における三重性が挙げられる。
読み方としてたとえば小説の場合、綴られる視線に従い実直、素直に読むのが普通の読み方。
それに加え、メタ的な読み方。つまり作者の目線や構成に目を向けながら読む行為、これが読書における「二重性」。
ところが最近、これよりも上の読み方があることに、はっと気がついた。
それこそが読み方の「三重性」であり、従来の普遍的な読み方、メタ的な観点からの読みに加え、「現実世界と接合した」読み方、これが「三重」の読み方といえよう。
具体的にはどのようなことかといえば、いたってシンプルである。
つまりそれは生活実利に直接関与、加味し得る読み方であり、ある種虚構とフィクションの垣根を超越させた、ひとつの実践的・体験的読書のことである。
それはフィクションがもたらす影響力を現実世界へと呼び寄せ、添付する行為であり、読書によってもたらされる内面的革命を、外面へと突出させる行為である。
するとここにおいて読書という個人的な行為はその範疇を広げ、己へと穿たれた影響力は瞬く間に散布する。
散布したそれはその影響により世界の見方を変貌させ、変貌させた意識はすなわち自己へと還元される。
そのとき個人の意識へ浸透し表象する意識こそ、読書との共同作業によって培われた新たなる具現化した自己でありこれによってようやく読者はその世界構造がもたらした影響を好意的に知るのである。
と、哲学書風に述べればこんなふう。(多分
しかしまあ実際に言いたいこととは実にシンプルで、要は「本は読んで終わりではなく、本を読んで意識が変わったと思うのならば、それを行動に!」ってことだけ。
でもこれ、実にシンプルながら実行するのはとても難しい。
たとえば、心優しい青年の物語を読み終え心は穏やかに「ああ面白かった」と読了感も清々しく本をテーブルに静かにそっと、生き物を扱うごとく丁重に置き窓の外から肌をなでる微かな隙間風にさえ友愛の気持ちを抱いてさっそうと椅子から立ち上がれば、そのとき不注意にもテーブルに膝をぶつけ卓上のコップが床に落下し買ったばかりのカーペットを壮大に汚す。思わず「畜生っ!」と叫んでしまうのは人間の性で(別に実体験とかではないですけど)、先ほどの読書の余韻は何処へやら。
そんな風には当然、書物の中の世界と現実の世界とは一線を画しており与えられた影響が延々と響きそれが自己を改革するというのは難しい。
さらに歳を下手に食うと、妙に背負うものも大きく重くなって心も体も自由に身動き難しくもなる(これこそ実体験的ではある)。
でもまあ多分、人は人を、自分を変えたいと思うからこそ読書するのであり(それは人格や性格に基づくのみならず「より知識をつけた自分になりたい!」とする知的好奇心を充足させる意味合いの読書も含め)、だからこそ現実の周りや、今の自分の意識や立場を加味しつつ読書することも大切なのかなと。
梃子でも意識を変えない!という人はつまり、自分の意識を変える勇気がないというよりも、変えるきっかけがないだけであると思う。
だが本を読むという行為には、それだけのきっかけとなる力がある。
本を読むというのは、まさに”今の自分”を読む行為なのだから。
「仕事をサボる」ことでクビになることの合理性について
少し前に知り合いから聞いた話が印象的かつ思うところがあったのでここに綴ろうかと思い立ち、その話というのはあるお店をやっているオーナーさんの話。
曰く、以前に雇っていたバイトの子を解雇したというのだけど、その理由としては実に単純。解雇の理由は、その子が仕事をサボっていたため。
どういったことなのかを身バレを避けるため多少抽象的に書くと、大まかな概要としてはこのようになる。
1.バイトの子が仕事をする場所は、管理者であるオーナーさんからして確認できる(監視カメラのようなものと考えてもらってよい)。
2.なのでバイトの子がちゃんとやっているかサボっているかは一目瞭然。
3.そして仕事をちゃんとやっているかを確認していることはバイトの子にも伝えている。
重要なのは3で、つまりバイトの子はサボっているのがばれることを知っている。
そしてこの話に興味を引かれたのはこの点で、つまりバイトの子がクビになったのは「サボっているのは確認できるんだよ」といわれて尚、その子はサボる行為を止めなかったことにある。
一見してそれは至極当然の結果で何らおかしな点はないように思われようとも、ここでひとつ考えてみてほしいのは、果たしてそのバイトの子の行為(サボること)は合理的であったか?ということだ。
えっ?合理的っていうか、単に怠惰なだけでは?もしくは、サボっているのがばれているにもかかわらずサボるという単なるマヌケだろ。
なんていう答えはもちろん、可能性としては高い*1。
けれどそこでふと、「いや、そうした行為って単なるマヌケの所存ではなく、実際にはより狡猾さ溢れる行為なのでは?」等と思い当たる節があったためにこれを書いているのでありそれが表題の件。
「仕事をサボる」ことでクビになることの合理性について。
それのどこが合理的なんだ?とした場合、仮にもこれが「合理的」であるとするならば。
無論、それは「クビ」になることが「合理的」な状況を考えれば良い。
「それってどんな状況?」かといえば、クイズにするにはあまりに稚拙なほど答えは簡単で、つまり「仕事を辞めたいとき」に他ならない。
そう、ここもまた重要かつ面白い点。
要するに、そのバイトの子は実際には「辞めたいな」と思っていた場合に関して言えば、”仕事をサボってクビになる”という結果は実は合理的なのだ。
するとここでさらに面白いのが、ここにゲーム理論的思考を組み入れるとよりバイトっ子のサボり行為は合理的かつ「なるほど!」とその狡猾さに感嘆すること請け合いである。
「つまりどういうことだってばよ?」との疑問に対して一言で返すのであれば、
「バイトの子はどっちに転んでも良い状況を作り出していた」
ということ。
このような状況を想像してみてほしい。
仮説の前提として「仕事を辞めたい」。
だからこそサボる。
するとその子はクビを望んでいるのであり、だからこそサボることがたとえばれていようとも恐れない。むしろ進んでサボることさえやぶさかではなく、サボることで生じるその先を見据えての行為とすれば。
さっき、”ゲーム理論的に”といったのはこの点である。
そして「バイトの子はどっちに転んでも良い状況を作り出していた」というのは、
サボることによって二つのパターンが生じ、そのどちらに転んでもバイトの子にとっては好意的な状況になる、ということである。
つまりは、まず一つ目のパターンとして
1.仕事を辞めたいからサボる(楽をする)。
2.サボっているのをオーナーが見つけ、クビにする。
3.仕事を辞めたかったのでバイトの子にとってはちょうどよく、よってこの結果は好意的であり合理的。
二つ目の可能性としてのパターンとしては、
1.仕事を辞めたいからサボる(楽をする)。
1は一緒なのだが2から少し違う。
何故ならサボっている姿を見られてもすぐには、もしくは必ずしも即刻クビになるとは限らないため。その場合、たとえば「ほかに人が居ないから仕方なく雇い続ける」等、諸事情が加われば即刻の解雇もない場合もあるといえるからだ。
じゃあその場合、バイトの子は「辞めたい」わけだから、むしろ状況としてはよくないのでは?
そうであろうけれど、ここが”どっちに転んでも良い状況”といったのは、この場合としての2番目には
2.サボっているのをオーナーが見つけるも、クビにはしない。
となり、
すれば3としては自ずと
3.仕事を辞めたかったのに辞められず。
となる。
ここだけで区切ってしまえばもはやその戦略(サボり)は失敗だったのでは?そう思
えようとも、この3には続きが加えられる。
3.仕事を辞めたかったのに辞められず。よって仕事は継続となったがサボり続けられるため、楽して稼ぐことができる。
そう、ここが面白い点で、よっぽど切羽詰って「即座に仕事を辞めたい!」という状況以外においては、パターン2の場合においては「楽して稼ぐ」ことが可能。だってサボっていてもクビにならないのだから。
要約してまとめると、
「仕事を辞めたい」と思うバイトの子がとる戦略としての「サボり」
そこで生じる2パターン。
1=仕事をクビになる。
2=仕事をクビにならない。
1の場合、目的達成のためプラスである。
2の場合、直接的な目的を達成できないながらも「サボり」が許させる状況を作り出すことに成功→「サボり」が行えることで、戦略をとる前に比べると事態は好転。だっていくらでも仕事において楽できるのだから。
こうして二つのパターンを明確に見ればわかるように、バイトの子は「サボり」戦略をとることによって、いわばどっちに転んでも以前の状況に比べ、「好転した状況を作り出すことができた」といえるのだ。
するとある種一般的な見方としての「あのバイト、サボっていればわかるよと忠告しても尚サボるとか、あいつは馬鹿か!?」と思われようが、それは前提として「働いているものは、当然クビには成りたくない」という思い込みがあるからであって、発想を逆転させて「実はクビになりたい」という前提の存在を考えれば、バイト君のこうした不届き者の行為も実際には実に「合理的」であったのだと。
オーナーさんからサボりバイトの話を聞いたときに思ったことがこれで、無論これは単なる想定であり想像。実際にはそこまでバイトが考えて居ないということも大いにありうる事ではある。
ながらも、実際にこのような狡猾かつしたたかな考え方を持っていたのだとすれば。
末恐ろしい、というよりかはむしろその合理的知能とゲーム理論の応用さに感服せずには居られない。
まあでもこの理論というか発想自体、根本にある仮説は「仕事を辞めたい」気持ちであって、換言してしまえば「仕事を辞めるつもりで居るなら、多少怒られても気にしないし思い切って何でもできる」という強気の姿勢があるのは間違いない。
でも正直に言えば、別段「仕事を辞めたい」と直接的には思わずとも、そうした覚悟を持って思い切って仕事をすること事態に関しては、むしろ皆が普遍的にも積極的にも思ってもいい事なんじゃないのかな?とは思ったりする。
ミスを恐れて保守的に働くよりかは大胆に。
後悔は先に立たずとも、その後の役には立つだろうから。
*1:むしろこれを「合理的」な推論とさえ言えそうではある