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-中途半端なサウスポーによる日々読んだ本の記録 + 雑記 + パンについて-

ヒトはどうして老いるのか―老化・寿命の科学

 

ヒトはどうして老いるのか―老化・寿命の科学 (ちくま新書)

ヒトはどうして老いるのか―老化・寿命の科学 (ちくま新書)

 

 生命の誕生に「死」が必要だったのです。

 

ヒトが老いる原因を科学的、哲学的にも説明する内容。

 

現在、老いる原因とされる説は大きく分けて3つあり、そのどれもが興味深い。

一つ目は「プログラム説」 

二つ目は「エラー蓄積説」

三つ目は「体細胞廃棄説」

 

それぞれを簡単に説明すると、

 

「プログラム説」‥老化はある特定の老化遺伝子によりプログラミングされている

「エラー蓄積説」‥老化は細胞の中のDNAやたんぱく質に異常が蓄積することによる

「体細胞廃棄説」‥老化は単細胞の修復と生殖に費やすエネルギーの分配比によってきまる

 

となる。

詳細は本書にて分かり易く述べられており、あまり知識がなくとも理解できるようにしてくれている。

これら3つの説全てにおいて、重要となるのは細胞の修復。

詳しくはネタばれになるので割愛。

しかしこういった分かり易く、読み易い点が新書の強みであると思う。

 

また、少食が健康寿命を延ばすことはよく知られているが、その理由が「少食にする事により、ミトコンドリアが排出する活性酸素が減るため」というのはあまり知られていないのでは?

 

そして”どの生物も生きている間に消費するエネルギー値は同じ”とするデータは興味深く、これも過多な運動が返って健康に悪いされる理由を明確に表している気がした。

 

最近では長寿と親密な関係があるとして、よくテレビなどでも紹介されているテロメアについての記述もある。

そのテロメア、テロメラーゼと言う物質が密に関係している事は、はたして知られているのだろうか?

そしてこのテロメア、癌を解決するためのキーになるかもしれないとのこと。

癌細胞が他の細胞と違い、分裂を繰り返し死滅しないのは、このテロメアに異常があるため。

つまり癌は不老不死の細胞に変貌していると言うことだ。癌細胞が自らのテロメアを操作することによってらしいが、ここだけみるとなんだかロマンのある話だ。

 この事実、裏を返せば、テロメアを癌細胞のように自在に操作する事が出来れば、他の善良な細胞の寿命も延ばせるのでは?と思えてしまうから。

想像を膨らませると、癌細胞のこのテロメア操作、他の健全な細胞に応用できれば、老化を遅らせ長生きできるようになるのではないか。

 

ワクワクしてしまう。

 

まるで戦争から画期的な発明が生まれるように、悪いとされるものから画期的なものは生み出されるのかもしれない。

戦争にしろ癌にしろ死を司るものなので、そこから”生み出す”という表現は、少々皮肉めいた物を感じるのは確かなのだけど。

それでも今後の研究如何によっては、死を呼び込むとされている癌が、長寿の要因になりうるような気はする。

 

本書では”寿命”と”長寿”という概念の違いについても、丁寧な説明がなされている。

 ”寿命”は細胞にプログラミングされた不変的なものに対し、”長寿”は外部的影響が強く不変的なものではない。

よって自身の行動次第によって”長寿”は可能にできる。

まるで決定論と非決定論とが生物の「生」には混在しているようで面白い。

つまり神はサイコロを一応ふるわけだ。

ただし、その出たさいころの目を見てどうするかはあなた次第だけれど。 

 

 

 

アポトーシスとアポビオーシス、その二つに分かているのが印象的。

アポトーシスは細胞による自己死、異常をきたしたり古くなることにより、恒常性を維持する上で害となると判断したうえでの自己死。

つまりは利他的な働きであり、戦国時代による切腹のようなもの。

ただし、このアポトーシスが見られるのは、再生・代用が利く再生系細胞に限った事。

 

それに対し、アポビオーシスは、非再生系の細胞に見られる自己死のことを指す。

一度生まれたら替えがなく、心筋や神経がなどの細胞がこれに当たる。

そしてこの非再生系細胞こそが、ヒトの場合、寿命と大いに関係があるとされているとのこと。

再生系細胞よりも重要視されているのは、簡潔に述べるとやはり替えがないという点かららしい

 

 

有性生殖の利点は、遺伝子の組み合わせを変えることにより,変わりゆく環境に適応できる個体を生めることと、蓄積する変異をキャンセルすることができる可能性があることです。

 始めに記した

 

 生命の誕生に「死」が必要だったのです。

 

の答えがここにある。 

危険な遺伝子を確実に回避する尤も安全な方策が、危険とされる遺伝子そのものを消去してしまうというやり方。

そこに「死」がある。

新たな「生」のためには「死」が必需と言うのは、またも皮肉めいた物を感じられずにはいられない。

所詮「死」なしでは「生」を定義できないのは、この要因もあるのかもしれない。