5月に読んだ本からおすすめ10冊を紹介。
5月に読み終えた本は33冊。
その中からおすすめの10冊を紹介!
第10位
『気づきの旅―現代人を幸せに導く、チベット仏教の教え』
構成として、予想外にも自伝的側面が濃い。
それでいながらも思った以上に得るものは多く感じた一冊。
あくせく働く現代人にとっては金言とも取れる戒めの言葉は数多く、心の平穏の大切さについて平易に語るのだけれどそこに説得力を感じるのは「さすが仏教!」と言ったところ。
そして一読すると確かにチベット仏教について多少なりとも学べ、「トンレン瞑想法」の作法などの解説もあって実用的。
けだし読んでいて特に感じたのは、著者における煩悩の多さ。
チベット仏教体験記では、「働き詰めであって真に大切なものを見失っていた!」なんて青汁の健康CMくらいにはベタなことを語っておきながら、
「じゃあ出世などを望まずに平穏に暮らすのかな?」
と思えば、ところがどっこいその真逆。
いくらブッタの智慧としての「ダルマ」を教授されたと自己申告をしても、自伝的場面で「作家になる夢が叶った!」となって足るを知るのかと思いきや、その後には「ハリウッド映画化や、大ヒットせずに大いに落ち込む…」なんて心境を吐露。
「これってはまるで仏教について理解していないのでは?」
という突っ込み待ちの展開にはもう笑う。
それでもチベット仏教の先生が語る「輪廻」についてなどは啓蒙深く、いい話だけに、著者の態度とのコントラストが目立つ。
だから穿って言えば「物質主義や欲望に塗れる事の害を悟ったように諭すが、実際に己の行動が伴っていないという、ユーモア本」であり、けれど普通に仏教に対する真摯な姿勢やその思想について改めて思わされることは多いので、普通に良い一冊ではあるかと思う。
第9位
『考える力が身につく ディープな倫理』
手軽に読める新書の一冊。
内容としては、センター試験や大学入試などに出された倫理の問題を示してその解説とともに「倫理とは?」と改めて考えさせる機会を提供。
その問題には、カントの定言やベンサムの功利主義についてなど。
あとはベンサムとエピクロスにおける、幸福に対しての捕らえ方の相違についてなどの問題もあって、「エピクロスの幸福主義?それって、僻んだストア派が流した風説だろ?」なんて思って読めば、「エピクロスにおける幸福の定義とは『精神的な平穏』にある」として復習にも勉強もなった一冊。
あと中国哲学についてもいくつか出題されていたのが印象的。
なかでも朱子による哲学などは、改めて読み解くと二項対立的であり相対主義的な俯瞰さを持っていてその慧眼さに驚かされた。
他にもレビィ・ストロースにおける『野生の思考』に関する問題も出たりと盛りだくさん。結構な幅広さの内容で、楽しみながら有名な思想に触れられるので、
「哲学って何?おいしいの?」
なんて人にもお勧めできる一冊。
もちろんヘーゲルも取り上げており、「カント批判の内容とは?」という往年の哲学ファンにも楽しめる問題はあるので、哲学好きにもお勧めできる。
人気者ニーチェの問題もあるので抜かりなし。
「力の意思」ってなんぞや?というのにも分かりやすい解説付き!
読めば「神は死んだ!」も自身の語彙に加わることは間違いないだろう。
哲学好きはもちろん、哲学に興味があるのなら手にとって損はない一冊。
第8位
『臨床とことば』
- 作者: 河合隼雄,鷲田清一
- 出版社/メーカー: TBSブリタニカ(阪急コミュニケーションズ)
- 発売日: 2003/02/01
- メディア: 単行本
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臨床心理学者として有名な河合隼雄氏と、臨床哲学者である鷲田清一氏の対談を収録した一冊。表題どおり「ことば」を主軸にして、臨床心理の現状についてを現場的知見から物語る。
興味深いのは河合隼雄先生がカウンセリングの極意をこれでもか!と惜しげもなく示してくれている点であり、現場で培われた知見はすなわち商売道具のようなもので、「それをこんな赤裸々に披露していいの?!」ってほどにはハッとする。
そこで語られた、ひとつのカウンセリングの極意としては、
”相手の言葉を聴くのと同時に相手の懐に入り、また相手にそれを悟らせて相手に自分を客観視させること”
とのことであり、この方法には感嘆とした。
つまり臨床心理士として患者を治療するということは、相手に対して自分自身を知覚させることであって、自分自身を客観視する機会を設けることにこそ、その真意があるということだ。こうした「自己」や「自我」を対比もしくは独立させての認識作法というのは哲学的であり、「自我」って造語を作ったのは河合隼雄先生か!?なんて思えたり思えなかったり。
他にも金言は多く、
「人は誰しもが興味・関心を持ってもらうことではじめて輝ける」
という言葉は真理にも感じた。
そして河合隼雄先生が行ったのは日本における臨床心理の開拓ばかりではなく、その功績は研究発表の場においての改善もあったのだと知る。以前はデータを主体にした客観的なものを研究発表の場で示すのが通例だったのを、河合隼雄先生は事例研究を徹底させて取り組むようにしていたのが改革的。そうした発表は普遍性こそなく、従来的に言えば「学術的ではない」とされるかもしれないが、あえてそこで生じる偶然性に注目して発表をする。
これまでの常識からすればそれは異端であるが、けれどその事例研究によって示される結果が実際には重要であるのは実用的であるからに他ならない。そして発表の際にも、そうした偶発的結果とも言える事例研究のほうが注目が集い、通常の発表なら席を立つ人も多いが事例研究の発表では誰もが興味を抱いて席を立たなかった、とする事実は面白い。
ピアスをつけるために穴を開ける行為や、暴走族の暴走行為などにおける自傷行為を「イニシエーション」、つまり大人になるための「通過儀礼」と考察する点などは、単に若気の至りとして片付けるのではなくそうした行為の真意を物語っており、その行為の意味に気づかされて大いに納得ができた。
このような自傷行為とは世界中で見られる行為でもあり、それは自分の体を自身で傷つけることによって、自分の体と知らしめる一種の行動形態なのだと解説によって知る。これらは、肉体としての一固体を確立するための行為だと解釈すればわかりやすい。
けれど「随分と唯物的ではあるなあ」とは思う。
あとは哲学家ミシェル・セールによる魂についての解釈は独特で面白く、氏曰く
「肌理の重なる場所にこそ魂は存在し、その都度に移動をしている」とのこと。
これに付属する意見としてセックスの存在意義についても本書では語っており、なるほどと納得できること請け合い。
第7位
『かくれた次元』
そのタイトルから数学的な本かと思いきや、読んでみると文化人類学的内容。
といっても、動物の行動を視察して、さらに人間理解を深めようとするので動物学的でもある。
そして読んでみて思ったこと。
「見る」と「考える」の関係性は”相関的”であるのだと思うけれど、実際には”因果的”であるのだと。これは「因果」といった言葉の本意的にもそう思う。
内容としては、パーソナルペースの重要性や、視覚のあり方についての考察など。ねずみであっても、限られたスペースでは限界値としての定数があるという実験結果は少し意外で、環境に強いねずみであっても過度な窮屈さは随分とストレスでありそれが生態的な反応を示すまでにいたるとの結果は、人間に当てはめて考えても有効そうではある。あとは国別における人柄の特徴についての考察は面白かった。
美術と空間についての考察も興味深く、「美術品はそのサイズも計算されており、大きさを含めての作品である」とする言葉は贋作や模造品殺しのことばではあった。
第6位
『アサッテの人』
『言語ツンデレ』
という前代未聞の意欲作!
“第137回芥川賞 第50回群像新人文学賞 W受賞!“とのことで、多少注目しながら一読。読むと評判どおり言語学的な内容であって、なかなか面白い。
そして表題の「アサッテ」とは「明後日」のことかと思いきや、そうした思惟は外れて実際には「的外れな方向」とも呼べる、方向的なことを指していたのだと知る。
そして本書は小説ながらも、物語を語るというよりは随分と思弁的な内容で、一読してその文体は円状塔っぽいなとも思わせた。
あらすじとしてはごくシンプルで、叔父の失踪を探す上で残した日記を紐解き、そこから叔父の思想を語り述べていく。ただそれだけ。
それでも物語性としても面白みはあって、「ポンパ!」といきなり叫ぶようになった序盤における叔父の描写などは滑稽かつユーモラスさたっぷりで、テレビのコントにしてもうけは良さそうだ。
「そのことばにはどのような意味が!?」とするワクワク感、ミステリーとしての娯楽要素もあって目が離せず一気読み。ぐいぐいと引き込まれると、打って変わって中盤以降からは急に真剣味を帯び、そして…。
このあとは少しネタばれなので、できるだけ空白状態で読みたい!という人は読み飛ばして。言語学に興味ある方や、「え?この言葉って、どうしてこの言葉として通じるんだろ?」という疑問を抱いたり、「言葉はくそだけど、そのくそを示す言葉がない!」なんて構築理論批判派の人にもうってつけの一冊!言語SF的な内容の小説であっておすすめなので、ぜひ読んでみて!
内容に少し踏み込んでの感想について。
後半、吃音によって生じる世界との隔たりと、それを突如克服したことによる戸惑いと世界における構成の実態を垣間見る結果となった心境などはそれこそ二項対立的でもあり、またデコントラクション的な思想を汲むものであったからであると思うと少し前の世代における構築理論と脱構築の流行していた時の熱気を見ているようであって面白い。そして確かに言語学的な概念を主軸に置きつづけ、ラングとパロールについて改めて考えさせられるような内容ではあった。
すなわち「意味のない言葉をあえて発する」というのは、定められている意味からの脱却であり、それこそ言葉の本質の一部であると信じる叔父の気持ちはわからないでもないのはきっと「自分が言ったことを、相手が自分が言ったこと以外の意味として理解することにおける気持ち悪さと気味悪さ」や、単純に「ことばの窮屈さ」からきているのではと思う。
要するに純粋な言葉自体への愛着、それは吃音によって憎悪にも近いものを抱きながらも、急遽それを解かれたことによって請ずる疎外感。平易に言い換えれば
ゆえに終盤につれて最初の「ポンパ!」の意味もわかり、それが本当に真剣な所業であったということも。
晩年における叔父の狂気を「たまねぎを切って涙を流すのではなく、涙を流すためにたまねぎを切る」というたとえは実に秀逸で、命題論理のからすれば多少の誤謬があるかもしれないが、本能に訴えかけてくるような正確性!
つまり「ポンパ!」が生きる歪みを見つけるための鋳型を探していたのが、気づけば、鋳型に依存しはじめており逆転してしてしまったという顛末。また「チューリップ男」の項も随分と印象的で、隠された他人の性分を除き見たような感受性さえも与え、ここに関しては笑えることも示威深くさせられる教訓じみたものも感じられた。
面白い!!
第5位
『対称性から見た物質・素粒子・宇宙―鏡の不思議から超対称性理論へ』
対称性から見た物質・素粒子・宇宙―鏡の不思議から超対称性理論へ (ブルーバックス)
- 作者: 広瀬立成
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2006/02/21
- メディア: 新書
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多少難解ながらも、一読すれば世界にはびこる摩訶不思議な現象「対称性」、それが実際には如何に不思議でありそして重要な概念なのか?
話は鏡像における不思議さからからはじまり、最終的には超ひも理論にまで話は広がり、「対称性」が見せる世界、「対称性」が語る世界、それらは実に可能性に富むのだと驚嘆する。示される式の意味も分かると、もう世界の見え方がまた多少なりとも変わってくる一冊。
よくよく思うのだけど、数式や物理の、美しい方程式を見て、その式の意味を真摯に知ったとき、そこでハッとして見える景色は、登山における登頂での絶景にも勝るものであるといって過言でないと思うのだ。
第4位
『「場」とはなんだろう―なにもないのに波が伝わる不思議』
「場」とはなんだろう―なにもないのに波が伝わる不思議 (ブルーバックス)
- 作者: 竹内薫
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2000/11/20
- メディア: 新書
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内容として、古典物理的に言えば「エーテル」の存在について明らかにする内容で、はたして電磁波とはどのようなものか?。
そして、「何を媒介として伝播していくのか?」を懇切丁寧に解説してくれる一冊。
それでまずはマクスウェルによる、電気と磁気との関係性とそれらが作り出す「場」についてを説明。その伝播の様子を図なども用いて生き生きと示し、それによってだいぶイメージとしてつかみやすかい。
それからマクスウェルの立てた方程式について4つにわけ、ひとつずつを説明。
すると「えっ!この式って難解に思えてたけど、実際にはこんなシンプルで分かりやすいのか!」と目から鱗になること請け合いだ。
それによって電波のベクトルにおける拡散について、その際における磁気の場への影響についても理解しやすくなっており、そして方程式に登場した「カール」なる言葉が示す「回転」もことばの語源と一緒に解説するので覚えやすくもある。
重要な「双対性」との言葉も最初に登場させては、大きな複線として後半に生かすサスペンス仕様もあって娯楽性も兼ね備える。
そして中盤からはファインマン図を登場させて、ファインマンが提唱した量子と場のかかわりを解説。ここでもおおよそ数式を使用せず、言葉とイメージでその内容を解説するのだからすごいと同時に実に野心的。だがそれで実際に分かり易いのだからすごいと思う。
その後には重力「場」についての解説もあって、この流れとして当然のようにアインシュタインにも触れて大人気である相対性理論についての解説も。
最後にはひも理論までも触れ、素粒子ヒッグスについても語られ、意外と盛りだくさん。
物理嫌いの人であっても、むしろ読めば「物理って面白い!」となれる一冊であって、老若男女にお勧めの一冊。新書で手軽なのも良い点だ。
第3位
『バグる脳 ---脳はけっこう頭が悪い』
表題から脳科学に特化した内容かと思いきや、実際には行動経済学的な面も強い。
つまり『ファスト&スロー』のように、ヒューリスティックや認知バイアスなどについて解説をする項が結構多くて面食らう。
それでも本書は「脳」をテーマにしているだけあり、その後には脳科学の観点から各種の事象を説明しているので、一気に面白くなる。
要は人が不条理な行動をとる際、「脳がどのようにして不可解なバイアスを起こしているか?」「脳内においてどのような状況を作り出してしまっているのか?」と内分泌的にも解説しており、相互作用によるものなのかと納得。
脳内において、事象を関連付けるために存在するニューロン連合における繋がりが「ノード」といわれるものであり、これが「注文時には真ん中の値段のものを注文してしまう」という行動経済学には有名な逸話の具体的な(ある意味では物理的ともいえるかも)説明となり、統計的結果ではなく生理現象として理解できる。
要は「a、bの場合からcが追加された場合、bとcに類似点がある場合には、そこでbとcの結合が太くなり、それによって二択となる(cはbより劣る)」ということである。
あとは終盤の
「どうして人の脳は宗教などの超越的存在を信じるのか?」
という考察がなかなか面白い。そこでの一説、
「宗教としての一つの共同体を作ることで信頼関係を築き、信頼社会を築くことで生活が成り立ちその固体が生き延びたため」
というものは安直ながらも説得力を強く感じた。
あとはプライミングの効果は絶大だなと改めて思ったり、「おそらく人間の脳がほかの動物と違うところは、超自然的存在を信じる傾向ではなく、むしろ超自然的存在を信じないようにする能力だ」という言葉は刺激的でありそして意味深である。
本書は脳のアーキテクチャーを解説することから始まり、太古からにおけるまさに「負の遺産」の正体を明るみに出す。
そこでは記憶の結合について、検索と算出が表裏であることなどを解説。つまりは「脳の連合アーキテクチャー」こそ重要な存在であり(この言い方は少々便宜過ぎるかも)、ニューロンのネットワーク化の結果による栄光と弊害に他ならないと語る。
脳は情報を、ニューロン同士のつながりのパターンで記憶する。この「つながりのパターン」というのがまた重要な概念であり、この「ひと括りにする」ことで、即効性がありまたこれらを可能にしているのがシナプス可塑性。
シナプス前ニューロンとシナプス後ニューロンが同期しているかどうかをシナプスが「知る」ことができるようにする賢いNMDA受容体。
神経ネットワークに貯蔵されている情報を効果的に利用する鍵はプライミング効果で、何かの概念を表すニューロンは、活性化するたびにパートナーたちに注意を呼びかけるメッセージを送る。
まとめを言ってしまえば、「脳の連合アーキテクチャーとプライミングは協力で素晴らしくはあるが、この二つが合わさって、フレーミング効果やアンカリング効果、マーケティングの影響、無関係な出来事に左右されるなどの、多くの脳のバグの原因となっている」。
最後にあった「文化こそがプログラマーなのだ」といった言葉は生得的なものの指し示す表現としては実に適切。これは名言だと思う。
第2位
『SF的な宇宙で安全に暮らすっていうこと』
面白くて熱中してしまい、最後まで小休憩もなく一気に読んだ一冊。
そうして読み終えた本書は題名どおりSFで、俗に言う「親殺しのパラドクス」をあらすじにした内容。特徴的なのはその文体で、翻訳者はなんと円城塔!
独特な文章はそれのみでも面白い。
展開と構成としては多少哲学的であり、自己の存在とその存在性への言及についてなどはパラドクス問題を抜きとしても、なかなか面白かった。
あとは「書かれているこの本の内容のままに進む」といった、実にメタ的な作品であるのも特徴的で、「メタ作品大好き!」って言う人には、直にお勧めできる小説であるのは間違いない。
このあとネタばれ感想。未読で読みたい方はご注意を。
最後、この作品の意図に気づいてハッとし驚愕。
本書は、主人公がこの本事態を読みながら書き進める、という、まさに二重メタ的な構成となっており、読者は登場人物である主人公と一緒にこの本を読んでいるという設定は特殊。でありながら独創的で面白く、またそれであるが故に、最後にも未だ「書き続けろ」として思い描く結末としての「救助をあきらめるな!」と記しているのであるとわかって、思わずゾワっとした。
あとは、そのタイムマシン理論の落ちとしては、「実は人間の存在自体がタイムマシン!」として、「人も実際はタイムマシンと同等のことをしているのであって、“いま”や“この瞬間”を今として感知して知覚しているシステムが発達した状態にいる存在に過ぎない!ゆえに、この未知の脳の部分を刺激することによって、“過去”と呼ばれるものも“今”として知覚できるようになる!」というアイデアはなかなか魅力的であるが、既知感あって「これは『遊歩する男』と同じでは?」との思いが浮かんだりもした。
だから実際、その点に関してはあまり目新しいアイデアにも感じず。それでも本書は風情豊かな描写がいい感じで、そして家族に対しての内に秘めたしたたかな敬愛さなど、その情景についての描写が感情の揺さぶり加減として実にスリリング。
そして個性的な搭載OSの擬人化具合もほどよく、この辺などは特に日本人読者には好まれそうには思えた。
このSF作品の「S」こそ実に「スペキュラティブ」さを示す「S」であり、実に思弁的作品。
最後のオチは「結局は予告どおり、未来の自分に撃たれる」というのは実に平易で、まさに決定論者的な展開。と思わせておきながら、そこでの「未来は決まっていようと、変えようとする意思だけは持つことができる!」という言葉が特徴的であり、そしてこの小説の仕掛けでもある!
そうしたことによって、この本が続く限り、その意思も継続するのだと。
これによって、謎めいていた序盤における未知の彼女や父親を見つけるといったことの意味がようやくわかり、最後に見事すぎる巨大びっくり箱を用意された印象。
最後のページに示したこのトリックには、サスペンス小説以上に驚かされた!
「記述が終わらなければ物語は終わらない」
これは実際、この小説に対するものだけではなく、読者自身に対するメッセージでもあり、まさに意思による可能性を示唆。故に本書は「人の可能性」を取り上げた作品であもあり、本書はすべての人に開かれるべきテーマを掲げているようであって、SFとしてもかなり良いオチであったと言わざるを得ない。なんとまあ、実践哲学的なオチ!
第1位
『「おいしさ」の錯覚 最新科学でわかった、美味の真実』
食に興味があり「おいしい!」が好きな人にはぜひとも読んでもらいたい一冊。
内容としては
「味を感じるのは舌だけでなく嗅覚や聴覚なども重要に関連しており、さらに周りの雰囲気など多種多様の影響を受けるもの」として、それら影響の実態を解説。
要するに、人間はものを食べて「美味しいな!」と感ずることは、創造しているよりよっぽど五感を使用している結果なのだなと痛感する。
すると「著者は、味覚に関しての還元主義者かな?」
なんて思う人もいるかもしれないが、実際に味覚とは各器官から精神的な面からの影響も多いと解説し、実施には全体論的な帰結にたどり着いているので安心してほしい。
そして言ってしまえば「味とフレーバーは違う」との指摘が序盤にあり、そこで早々にも「ええ!そのなの?」と驚かされた。
聴覚も実際にはとても重要で、
「ポテトチップスを食べているときに、“パリパリ”とする音を聞かせることで、よりおいしさを増して感じさせる」
という実験を呈して著者はかの有名なイグノーベルを受賞しているとのこと!
あとは個人的にも特に驚いたのは、
「ホットケーキミックスに、卵を入れる手間を追加したら売れ始めた!」
というマーケティングにおいて古典的に有名なこの話が、「実は嘘!」と本書が解き明かしていたことだ。
他にもスプーンやフォークの重さが味の良し悪しに深く影響することや、丸い皿や丸い料理などはその”丸さ”を誇示することによって甘みを強く感じさせる作用がある等、味に関する面白い知見がたっぷり。
堅苦しく言って、本書は食に関して新たな立場“ガストロフィジクス”を提唱し、その立場として“食”に対する美味しさにおける、新たな境地を示してくれる。
「普段の食生活に少し飽きてきたから、何か良いスパイスはないかな…」
なんてとき、味覚以外のスパイスがきっと見つかる一冊。
そして、普段の食事が今以上に満足できるよう、手助けになってくれるであろう一冊。
ポピュラーサイエンス本として読み易い内容なので、老若男女にお勧めの一冊!
「美味しい」とは、実に奥深い!
「話せばわかる」は本当か?
最近、
「話せばわかるっていうけど、うそだよね」
と言うのを聞いて思ったこと。
実際、この「話せばわかる」は本当じゃなくて、かといっても完全にうそでもないのでグレーゾーンだと思う。
けれどじゃあどうして
「話してわからないのか?」
という状態が生じるかと言えば、その原因は大きく分けて二つあるかと。
①会話が『言語行為』と化しているから。
②『力への意思』のため。
①の『言語行為』というのは、平易に言って「発話として言葉の意味内容を伝えようとしているのではなく、発話を別の形での行為として使用している」ということであって、わかりやすい例で言うと、苛々している母親がなかなかご飯を食べない子供に「早くご飯を食べなさい!」と怒って言うのはご飯を食べないことを怒っているのではなく、自分の苛立ちを子供に向けて発散している、ということ。
このように、本来の発話としての意味を役割とするのではなく、別にある主題を発話行為に宿してしまっていることを指す。
だからこの場合、「話してわかる」は成立せず、だって相手は話をしているのではなく、己の感情を相手にぶつけているだけなのだから!
②はニーチェによる有名な思想。というか、この発想があったからこそ、ニーチェは偉大とされているのではないか?というぐらいには思慮の深い捕え方。まさに人の意思のあり方についての核心を突いていて、これにまた有名な「永劫回帰」や「超人」などの言葉も関連してくる。
この「力への意思」に含まれる、複合的な意味を紐解いていけば、
「ああ、なるほどね、だからあの人はいくら話しても、わかろうとしないわけだ」
という事態も深く納得できるのだから、実に便利な思想でもある。
この『力への意思』とは、横暴にも簡潔に一言でまとめてしまえば、
「自己肯定への絶対的な意思」
みたいなもの。
だからこそ、相手の意見を聞き入れないのは「相対的な意見の対立」というよりは、「ゆるぎない信念を崩されるのを恐れるため」ということに他ならない。
まあだからといって「じゃあ、人の意見もそれぞれだから、それぞれでいいんじゃない?」と譲歩して終了してしまえば、それこそあの有名な言葉「神は死んだ!」を体感することになるのであって、忖度は決して進歩を生まないとするような弊害もある。
じゃあ、話してもわからない相手とはどうすればいいか?
極論を言ってしまえば、それこそロボトミーでもしなければ「瞬くに解決!」なんてことはないと思う。
それでも「話してわかろう」とする真摯な心があるならば、決定的な方法がひとつ。
それは「わかろうとする」気持ちを持ち続けることであって、このシンプルながらとても重要なことを見過ごしがちなのは、おそらく何かをあきらめてしまったことがあるからだと思う。
なるほど、確かに世の中は理不尽であり、むしろ叶わない願いのほうが圧倒的多数。
しかし、あきらめることができるとの同様に、あきらめないで思い続けることも可能なのだ。過去の偉人において「ほかの人と違い、秀でている部分は何か?」とすれば、その答えこそ、あきらめの悪さに他ならないと思う。良い意味での我の強さ。
無論、それだけの価値がある相手であると、自分で思える場合だけど。
身近な人と少しわかりあうためだけに、そんな悠長なことはできません!
なんて場合には、ここでちょっと変わった解決方法を提案。
それは”握手”。
哲学家のミシェル・セールは、こう述べている。
「肌の重なる場所にこそ魂は存在している」
たとえ嫌いな相手であっても、直に触れ合うことで、互いに生じる感情もある。
接触という行為もまた、相互理解に向けては単純ながらとても効果があり、そして有意義なことであるはずなのに、殊に見過ごされがち。
相手を無慈悲に批判できるのは、相手のぬくもりを直に感じないから。
そんな真理は、ネットが嫌と言うほどに証明してくれている。
だからこそ、相手を理解するにはまず相手を一人の生きた人間であることを、実感するべきだと思う。
セブンイレブンのカレーパンとコロッケパン
セブンイレブンでパン100円セールをやっていたので、普段あまり買うことがないのだけれど今回ためしにと買ってみた。
それで買ったのは二つ。
『コクと旨みソースのコロッケパン』
『がっつりカレーパン』
まずは『がっつりカレーパン』から試食。
重量は一個124g。
今回はそのままで食べることに。
すると生地の厚さが意外と目立つ食感。
カレーは中に多めに入っていて、その味自体としてはマイルド。
生地は揚げてるはずなのに案外モチモチしていてそのままでも美味しい。
カレーの量が多いことで厚めの生地にも味負けしてなく、全体として生地のカレーとのバランスが良い。なので生地と一緒に最後までカレーをしっかり味わえた。
あと思ったのは、カレーの味はほんのりスパイシーで油脂感が強いって事と、なによりドーナツ生地の美味しさが意外だったということ。
次に『コクと旨みソースのコロッケパン』。
一個の重量は158g。
パンのサイズにしっかり見合うほどにコロッケは大きめ。
食べてみると、パンはしっとり。
コロッケ自体はソースの味を含めて甘い味。
まったく持って普通の味のコロッケであって
「特徴のなさが反って特徴では?」と安易ながらに思えたほど。
例えるならのり弁の少し豪華版の、コロッケのり弁についてくるようなコロッケの味で、換言すれば業務用冷凍コロッケそのものの味。
ただ味はいたって普通であっても大きさはある。
だから食べ応えは案外あって、朝食はこれ一個でおそらく十分なほど。
そういった意味ではコスパいいかも。
ただ全体的に大味。
大きいのが良いだけの至って普通のコロッケパン。
その普遍性と食べ応えが人気の理由かと。
蛇足。
コロッケパンを食べて最初に感想をまとめるとき、ふと誤字ってしまい
①「大きいのが良いだけの至って普通のコロッケパン。」
と書こうとしたところ、
②「大きいのが良いだけね至って普通のコロッケパン。」
と間違える。
しかしそこでは、むしろ間違えた文章のほうが「面白いな」とふと気づく。
最初に書こうとした①では、感想として無機質だが、誤って書いた文章の②では、
「だけの」が「だけね」と口語風になったことで、そこに人格が宿り、
姐さん的キャラによる、辛辣な意見を呈している情景がありありと浮かんできたからだ。
そんな一文字違いで、これほどにも文章によって感じるもの、見えてくるものが違うとは、まことにいとをかし。
モンハンの売り上げはやはりすごい!
「好きなゲームメーカーは?」
と問われれば、
答えとしては「セガ」「SNK」「カプコン」「バンナム」「5pb.Games」「フロム」…と軒並み続いていくのだが、そんな中でも早くに挙げられるであろうカプコンはアーケードゲームをはじめ幼少期から慣れ親しんだメーカーであり、尊敬と畏敬の念を抱かざるを得ない偉大なゲーム会社。そんな折に嬉しいニュースを目にしたのだけど、それがこちら。
カプコンさん、史上最高益になってしまう : VIPワイドガイド
なんでも、昨今に発売されたPS4モンハンの売り上げがカプコン至上、過去最高を記録したらしい。
その本数なんと790万本!
なんという売り上げ本数!
そして売り上げを単純計算してみると、新品の定価をおおよそで7千円と仮定してみても…
単純な売り上げ金額だけで言って、550億円!!
( д) ゚ ゚
セガならすぐにでも新ハード作りに着手するところだ!
言語へのツンデレをみせる前衛的作品『アサッテの人』
4月に読んだ本からおすすめ10冊を紹介。
4月に読み終えた本は32冊。
その中からおすすめの10冊を紹介!
第10位
『宇宙兵志願』
自費出版したところ、瞬く間に大ヒットしたという作品。それで注目して一読。
すると確かに面白い。
設定はありきたりで、単なる傭兵もの。そして主人公の一人称の視点で語られる文体。
SFとしての設定はスッと入り込んできて、一般受けするほどには読み易い。
あとは描写が巧みで、映画を観ているような臨場感がある。
激しい戦闘、危機迫る情景もあるかと思えば、恋愛要素も練りこまれており、まさに王道な娯楽作品テイストは満載。
だからこそ売れたというのも納得の小説。エンタメ小説として普及点以上であると思うけれど、しかしその分内容がライト過ぎてメッセージ性は薄め。それでも、アメリカンな機智の効いた会話劇などは好きだった。
第9位
うつ病にしろ心臓病にしろ、語られている内容は平易。
しかしその分わかりやすく、注目すべきトピックスが思いのほか多かった。
文明から離れた生活をしている一部の原住民では鬱が少ないという観測結果は予測できたが、注目すべき点はセロトニンの不足のみが欝になるわけではないと述べていることや、あとは編桃体の役割に大きく注目していたこと。また、脳の断面図を載せており、これによって編桃体がどのような形で(確かにアーモンドに似ていた) 、どの位置にあるのか、非常にわかりやすくて良い。そしてこの編桃体こそが欝症状の生成と大きく関わりを持つとの見解を示し、海馬も関連して強烈なストレスを受けた記憶ほどよく残すメカニズムを説明する。これが欝の原因の一因として解説し、しかしこうしたメカニズムこそ生存のために残された本能的機能。しかし生存に有利へと働くための機能が、昨今においては病の源であるという事実からは、糖尿病と同じく現代社会へとの適応による不具合であると思わせた。
心臓病についてでは、二足歩行になったことで人は心疾患を患うようになったとまず説き、ミイラの遺体を調べたところミイラになっている当人も生前は心臓病を患っていたことが判明したとのことで驚いた。
つまり心臓病は、短絡的にいって現代病的な見方をされることがあるものの、実際には太古からある、ありふれた病気であったのだと。
他にも、「人間はcgという酵素がなくなっていることにより、脳が今ほど発達したのではないか?」という仮説などは特に面白く、思いのほか新しい知見があった。
そして部族が鬱にならない大きな理由として「平等社会」を挙げており、収穫した獲物を平等に分け合うことなどを特徴的と述べる。だが過度な平等社会の良さを主張する姿勢には、暗に「共産主義」を推奨しているようであって少し笑った。
第8位
『青の数学』
数学をテーマにした小説、ということで気になり購入。
主人公が真摯に数学と向き合おうとする辺りは何処か、『三月のライオン』との類似性を思わせた。「数学とは何か?」と思弁的に己へと問いかけ続ける姿勢などは特に顕著で、「どうして数学をするのか?」との答えは、完全な形では示さずとも、その示さないところにこそ答えがあるように思えてくる。
そのような方程式では解けぬ答えを、本書の一読後には何かと思わせる。
数学が好き、数学に興味がある、という人にはおすすめの小説。読んで損はない。
第7位
『成功はゴミ箱の中に レイ・クロック自伝』
成功はゴミ箱の中に レイ・クロック自伝―世界一、億万長者を生んだ男 マクドナルド創業者 (PRESIDENT BOOKS)
- 作者: レイ・A.クロック,ロバートアンダーソン,野地秩嘉,孫正義,柳井正,Ray Albert Kroc,Robert Anderson,野崎稚恵
- 出版社/メーカー: プレジデント社
- 発売日: 2007/01/01
- メディア: 単行本
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52歳から新事業に挑戦!
そうしたバイタリティの凄まじさを感じさせる一冊。
昨今の企業家によくある成功与太話、的な趣を感じないでもなかったがそれでも身に染み込む言葉は数多く、挑戦することと失敗する事の重要性についての金言は多い。
ユニクロの柳氏による解説も印象的で、アウトサイダーの真髄しての思いを大いに語る。いつでもチャレンジ精神を持ち続けること、立ち止まらず、現状維持に満足しない事。よく言われる言葉ではあるが、レイ・クロックこそまさにそれを実践した人生といえ、その手本を示すような自伝だった。
マクドナルド好きも必読の一冊で、フィレオフィッシュの開発秘話が語られていたり、バンズに対するこだわりも多少語れていているのでパン好きにも楽しめる内容。
また、こうしたマックの進出が如何に他の企業も巻き込み企業を、国を成長させたかもわかる内容であって、マクドナルドとはまさに、ひとつの文化体系の形成を促した社会学的な側面もあるのだなと勉強にもなる一冊。
第6位
『ゾウがすすり泣くとき---動物たちの豊かな感情世界』
ゾウがすすり泣くとき---動物たちの豊かな感情世界 (河出文庫)
- 作者: S・マッカーシー,ジェフリー・M・マッソン,小梨直
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2010/04/02
- メディア: 文庫
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表題から伝わるニュアンスどおり、本書は読むと人間以外の動物でも如何に感情豊かであるのか?がよく伝わってくる。
なかでも「像も涙を流す」とした事実には驚かされた。
そして本書では、アカデミックな記述では動物のこうした感情的な行動や表情を「感情」として示すことをなぜ咎められているのか?という事態について辛辣に解説しており、一種の批判本的な側面も持つ。
それでも印象としては、一読すると読む前と比べ動物がより鮮やかとなって感じられるようになる内容なのは確かで、たとえそれが人間原理的な思惟であるとしても。
そして手話を活用できるオラウータンや自ら曲芸の努力に勤しむイルカなどはもとより、なにより驚いたのは像の感受性の豊かさと人間らしさである。像が絵を描くということは知っていたが、人情的とも言える利他性を持ち、さらに歌やメロディを好みある研究隊の一行が夜にギターを弾いていると寄ってきた、とする事実は印象的。
さらに本書の終盤、動物は芸術姓を持つか?とした章の内容は興味深かった。そこでは少なからず、昨今の行動主義者が唱えるような、単に生存競争のための行動だけとは示しきれないような、独自の行動が示されそれこそ人間的に言って「芸術的行為」に他ならないエピソードが彩り豊かに語られていた。故に煎じ詰めれば言葉遊び的なことになりそうだが、本書を読むと「少なからず動物にも感情はある」とそのように思えるようになってくるは確かだ。
本書は「動物に感情はない」とする傾向を否定する内容で、しかしそれは「人間原理的な、ヒューリスティック的な考えを否定」する従来の動物学を単純に否定するのではなく、そうした従来の動物学的な見方こそ、実は「人間原理的な、ヒューリスティックな考え」であるとことを示しているよう感じた。つまりそれは、より俯瞰した視点からの見方であり、そして人間であるからにはそうした人間の考察こそ真でも偽にもなり得ないことを主張しているのだと思う。
「動物と人間は違う」とは従来の、いわゆる西洋文化的な、動物を人間以下と捉える見方に賛同するのではなく、あくまで価値観や器官を通して知覚するものが違うということを示す。
だがそれでも、本書では実に人間らしい。それこそディズニーなどに出てくる動物のような、人間らしい動物のしぐさや行動が示され、水に落ちたサルを他のサルが反射的に救いに行くエピソードや、沼地にはまったサイを像が危険を呈しながらも助けに行く話など、どれも共感できそして感動的とさえ言える。
あとは西洋における動物実験の残酷さと畜生さもわかる内容。ゆえに、動物に対しての残忍な態度に対する摘発的な内容にも思えた。
第5位
『動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか』
平易ながらも生命についての論述は面白さを存分に伝えてくれた。
なかでも「歳をとるとどうして時間が過ぎるのを早く感じるのか?」との疑問に対しての答えは、従来よくある「歳の数としての分母が増えるため」ではなく、しっかりと生物化学としての答えが示されており勉強になった。
「人間の体内時計は、体内たんぱく質の分解と合成に連動しており、それが体内時計の秒針となっている。すると加齢によるたんぱく質新陳代謝は鈍くなり、つまりそれによって体内時計の進みは遅くなる」。
これによると、実際には体内としては時間を遅く感じているというのが事実であり、実際の秒針に新陳代謝が追いついていないため時間にずれを感じるのだという。この説明で思わず納得。加齢と時間経過に対する感覚のずれに対しての具体的理解を得られた。ほかにも、海外における研究機関における日本との違いについて述べたり、あとはES細胞の解説もあって、その細胞の発見経由や優位性、可塑性などについても知ることができる。
ほかには、胎児が生物学的にはには”体内”にいるわけではないとわかったり、細菌が発見された経由やウイルスの驚異的なサイズについての解説もある。
そして表題でもある『動的均衡』ということについても解説しておりそこで「生命とは川の流れのように流動的なもの」であると知らしめる。
還元主義に対して懐疑的であるのも特徴的であり、本書は実に平坦に書かれており基礎的で生物学に対する初歩的な内容。でありながらも、基本的なことも表現豊かな言葉を用いられて丹念に語られると、また違う側面が見えてくるようであって楽しめた。
第4位
『幸せはいつもちょっと先にある―期待と妄想の心理学』
- 作者: ダニエルギルバート,Daniel Gilbert,熊谷淳子
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2007/02
- メディア: 単行本
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「幸福とは?」といったことを科学的にも様々なデータを通して解説する内容。
そこでは人間の記憶のあいまいさを語り、「幸福」とは記憶にも大きく関与し、そして本書の一番の特色として「人間は動物の中で唯一○○」と断言するのは心理学者として尤も恐れる事だと断りを入れながら、それでも著者は「人間は動物の中で唯一、想像する動物である」とはじめに言い切る。そこで本書は、人間の想像性についてスポットを当て、ヒトが未来を想像することの意味と、その利便性も欺瞞も多いに語る。すると検証結果などから、人間が未来に描く想像は如何にバイアスがかかっているのかを知ることができる。示す内容は確かに多く思い当たる節があり、衝撃的やショックなことほど心的免疫が働き、それにより反って好印象な思い出になるという仕組みは誰しもが実感することではないだろうか?
だからこそ中途半端よりは強烈な失敗体験のほうが後々には「幸せ」に感じるという説も経験則的に納得でき、それこそ「やった後悔より、やらなかった後悔のほうが大きい」という、よく言われるこの疑問の答えを呈しており、思わずハッとする。
その答えとしては流れどおりに示せば当然、「やらなかったことの後悔のほうが大きい」であり、換言すれば「やって失敗したとしても、そのほうが「幸せ」に感じる」ということである。何故なら、たとえ失敗しても免疫バイアスが働き失敗自体をポジティブに考え「あの失敗があったからこそ学べた」と糧にするからだ。
だがやらなかった場合、その『学べた』という事自体の内容を想像できないため、想像力の欠如が免疫効果を抑制してしまうから。この理論を読み、なるほどと合点し、この「やった後悔より、やらなかった後悔のほうが大きいか?」問題におけるひとつの決定的な答えを知れた気がした。
そして、脳の部位と未来予測に関する記述も興味深く、ロボトミー手術のときによく見られた事態というが、その手術の際に摘出した脳の一部が原因で未来についての想像を張り巡らせなくなったという患者の実際。
そこから人が希望的観測を抱く理由や、想像を生きる糧とする理由の推論が可能に。すると「幸せ」といった概念に対する相対主義的見かたも、実際にはそれ自体もまた希望的観測である可能性に換言されるのだと。そして「未来の予測は今現在の自分の心境や立場、状態に大きく左右される」という現象は、「そんなの当然だろ」と軽視されて見過ごされがちだが、こうした意識の持ち方こそ実際には「幸福とは?」を考える上ではとてつもなく重要なことのだと知らしめる。
あとは人が物質的豊かさに「幸せ」を求めることで社会が潤い回っているのだと簡潔に示し、なるほど表向きには幸福についてあれこれと人は語るのだが、実際にそうなれば人はその「幸せ」状態になると停滞してしまう。すると社会の発展は望めず、社会的イデオロギーとしての「幸せ」こそが、今の社会を成立させているとは資本主義の特徴ながらも皮肉的。
人は誰しも自分を特別であると思うように、自分の脳の欺瞞には気づかないもしくは気づき難い。本書はそんな状態から多少なりとも脱却するすべを教えてくれる良書。
そして「脳は記憶を料理する」という表現は、実に言い得て妙だなと思えた。
第3位
『恋する原発』
くそ小説。(賞賛の言葉)
なんとまあとんでもない作品。
PTAが読んだら卒倒しそうな作品であるのは間違いなく、あらすじの
大震災チャリティーAVを作ろうと奮闘する男たちの愛と冒険と魂の物語。
これだけでも、インパクトは十二分。
さらに内容としては、まさにそのあらすじそのままなのだからすごい。
ただ序盤はそうした下品さに怪訝な思いこそ多少抱いたが、中盤にたどり着くころには少しずつ魅了され始めて、半分過ぎに至る頃には所々で爆笑。
ここまで単純に、笑える小説とは実に久しい!
外で読んだ一冊だが、それでも思わず笑声が漏れそうになったほど。
ある場面における「これを流せば世界中で戦争がなくなると思う…」は至極名言であると同時に、妙に納得させられた。
終盤には、災害とその後の世界についてのまじめな考察があるのも特徴的で、評論としての内容。ここでは震災に対して真摯に向き合い、人間が科学を振りかざすのではなく、科学に振り回されている現状を指摘。
しかし本書の醍醐味はやはりコメディさであって、そのむちゃくちゃ具合。
ただこの作品の評価すべき点はこうしたお下品さのみではなく、”言葉としての表現”、表現の自由に対しても大いに挑戦状を叩きつけているところにある。
「天皇」の名前が出てきたときには思わずどきりとしてしまったし、こうした震災をねたにする時点で、一部の人から非難の声すら上がりそうな中、言葉の表現についての追求とする姿勢は賛同すべきものがあった。
原発事故へのチャリティとして、あえてAVを作る。これだけでも人によっては不謹慎な内容に思えるであろうが、しかしこういった事だからこそ、これをテーマにしたのだなと読み終える時には実感できた。そんな作品。
第2位
レヴィナスによる解釈やその思考についてを、万人に向けできるだけわかりやすく教えてくれる一冊。
人どなりと「自己」の存在性と孤立性とその発生についての解釈は独特であり、その思惟の独自性には思わず興味を惹かれた。自我を「家」にたとえ、他我によってのみ生ずるとする考え方は脱構築的であり二項対立的だ。
あと本書は読むことで、「”師”を持つということとは、どういったことなのか?」を学ぶことができる。それは単に、教えを請うための存在を見つけることでなければ、従事するべき尊敬する年配者を発掘することでもない。
口述による教えによる重要性と、そこでのノイズすらも重要視する思考のあり方は、こうしたデジタルにおける情報が蔓延している昨今においてはまさに謀反するような考え方であり目から鱗。少なからず刺激的に思えた。
そして面白いのは、本書の感想を書き示すこの行為こそが、本書を通じて「理解の本質ではない」ことを学んだことに対する齟齬であるということであり、よって本書こそは感想をまとめることがある種の意味においては不可能ということになる。そうした知的体型の流動性、いわゆる「均衡生命」的な示威さや情報性、思考法についてを教えられた。そしてレヴィナスの思考こそ「開示性」を示したものだと理解でき、故にこれでレヴィナスについて語れるわけでもある!こうした懐の広さこそ、レヴィナス哲学の一番の特徴では?とつい思う。
本書はそうした知的体系の勉強にもなるし、思弁のあり方としての可能性を広げてくれるようであって素直に面白い。とにかく、思考の幅を広げる上でも役に立つのでレヴィナスに興味がある人もない人も、一読することをお勧め。
第1位
『予想どおりに不合理』
予想どおりに不合理: 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
- 作者: ダンアリエリー,Dan Ariely,熊谷淳子
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2013/08/23
- メディア: 文庫
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安心と信頼のハヤカワノンフィクション文庫。
本書も例外なく面白く、内容としては人間の根源的なヒューリスティックな面を暴きだそうとするもの。
なので当初、「これって『ファスト&スロー』の類似本?」と思うが、読み進めると枝分かれ。こちらは語り部がよりユーモアにあふれ、巧みなアナロジー、実験結果などを示すことによってより平易な解説を可能に。
そこで見えてくるのは、人間の不合理な行動の数々。なかでも「ゼロコストのコスト」のについては大変興味深く、「ゼロ円」が持つ魔力については考えさせられる。
基本的には行動経済学の一冊。
行動経済学というだけあり従来の経済学における合理性のみを取捨選択するのではなく、社会的と市場的に考えることが重要といったことを取り上げる。そこでは金銭によって生ずる義務感と疎外感についてを述べ、「聖誕祭に金を払えば白い目で見られて翌年は一人で冷凍食品を食べることになるだろう」というたとえ話には笑った。
この例に見られるように、人は時によっては無償のほうが自らやる気を出して働く、というのは興味深くそして共感のできること。そして各々の倫理観に関する実験も相当に興味深いものであり、実験の結果として十戒を想起させるだけでも、そうしない場合よりも実験において不正率が下がった!という実験結果は本当に多くの示唆を示しているように思えた。端的にいってしまえば、これこそ神や宗教のある理由を端的にも解明しているのだから。
本書はタイトルどおり人間の不合理さを解説。
しかし気づいていないからこそ不合理であり、その不合理を気づかないことに対する不合理さについても考えさせられる。なので読了するころには、より鮮明な視界を持つことができるようになるであろう一冊。
人間理解はまず己の理解から。
単純に読み物としても面白いので、たいへんおすすめ。
悪徳へのルサンチマン
このスレを読んで気づいたこと。
内容としては、平易に言って「うそつきに対する痛烈な批判」。
しかしここでふと疑問に思ったのは、どうしてこうも「そのうそつきに対して痛烈な批判的態度をとるのか?」ということ。
そんなことは自明で、「うそつきことは悪だから。そしてこの場合、うそをついて周りの人を傷つけて、信用を裏切っている」。
という主張があるかもしれない。
確かにその主張は尤もとで、しかしここで一歩立ち止まり、考えてみてほしい。
ではどうして、我々はうそつきを批判するのか?
倫理的な理由、道徳的な問題、その他にも数多の意見はあると思う。
そんな中での確実なことのひとつとして挙げられるのは、
「うそをつかれることで、それを信じた自分が損をする」
ということがあるように思える。
『囚人のジレンマゲーム』的に考えれば、自分が他人にうそをつき、他人からうそをつかれない、というする状態がいちばんに利益を得られるかもしれない。
しかしこの戦略がうまくいかないのは自明で、簡易にいって持続性がないからだ。相手がうそをつかれることを学んだ場合、次に相手はこちらを信用しなくなる。
だがそうして疑心暗鬼の状態が蔓延れば、生活する上でいろいろと厄介になってしまい、わかりやすく言えば”お金”だって信用の上に成り立っているからである。
よって『囚人のジレンマゲーム』のような、いわゆる「騙すか騙されるかゲーム」を行った場合、おおよそ結果として「相手がうそをつけばこちらもうそをつく、相手がうそをつかなければ、こちらもうそをつかない」とした報復態度に帰着する。
といっても現実社会でうそつきが蔓延らないのは単に、こうした相手からのうそを恐れるからではなく、寧ろ、うそをつきそれが露呈することによっての社会的地位の損失を恐れるからという理由のほうが大きいように感じる。
では仮に、「社会的地位のない人間ならば、社会的地位のある人間よりもうそつきか?」とした場合、結果的には真になることのほうが多いと思う。
もちろんこれは推測で、直感的なもの。ヒューリスティックであることも否定は仕切れない。けれど私たちは、こういった直感的なものを信じる傾向にある。おおよその人が、路地裏にいるやさぐれたホームレスより、新人議員のほうがうそつきであるとは思わないだろう*1。
つまり通常、人は何かしらの社会的地位がある場合において、うそを忌避する。
よって人は、忌避する「うそ」それを発する人間を非難する。
「うそ」はいけないものであるから。
そう考えたとき、ふっと浮かんだひとつの考え。
それが表題のこと。
要するに、人がうそを忌避するような強固な姿勢こそ、実は『悪徳へのルサンチマン』なんじゃないのか?ということだ。
『ルサンチマン』、ニーチェが作り出したこの用語の基本的な意味としては、
恨み(の念)。強者に対し仕返しを欲して鬱結(うっけつ)した、弱者の心。
基本的には、社会的立場における弱者が、社会的立場の強者にむけて抱く感情とされている。
「では、悪徳へのルサンチマンとは逆では?」
と疑問にとらわれようが、それこそまったくの真逆。
つまり、「うそをつけない社会において、うそをつくという本来は許されない行為をとる者こそ”悪徳的社会立場の強者”であり、うそをつきたくても状況が許されない”悪徳的社会立場の弱者”が、その鬱憤をぶつけるというかたちで、うそつきを非難しているのではないか?」ということである。
本来、我々はよりうそつきであり、うそをつきたい衝動に駆られる。しかしそうした衝動を咎めるのは社会的地位であったり、論理的な思惟によるものに他ならない。
だがそうした概念は社会的・人為的に作られたものであり、自ら課しているルールを破る者がいれば、それを排除することこそが、ルールを保つためのルールになる*2。
話を戻す。
クロちゃんのうそをつく行為が、こうも批判にさらされる理由。
つまりそれは、「俺はうそをついていないのに、こいつは好き勝手にうそをついている!だから屑だ!」として、自己の叶わない行為(うそをつくこと)を鬱結した念としてぶつけているのではないのか。
人は幼いころから「うそをついては駄目だ」と教えられる。
それは社会に適応して生きるためのルールだからであり、同時に、人が社会的生物としての役割があるからである。
社会的地位が高い者への妬みが生ずるのは、社会的地位が高いことによって得られるものを欲するからであり、だからこそ、うそをつくことで得られるものを欲することも当然存在する事象。しかしうそにまとわりつくリスクは「ルールを破る」ことであり、それは社会的地位の高いものが持つ「信用」を失う行為へと直結する。
だが成功したうそは逆に「信用」を向上させる。
そのうそがうそであるとバレない限りは。
この、「ルールを破る=信用の高い地位にある」という本来ならば≠になるはずの状態の存在性を、何よりも否定するのではないか。それは「信用の高い位置にある」ということへの信用の存在を崩壊させるからに他ならず、「ルールを破る」というのは換言すれば「ズルをする」ということに他ならない。ある一定の人々が、まったく苦もせず条件もなしに、給料を与えられているとすれば憤りを感じるだろう。それは働くことの苦労を知っているからであり、それさえも給料の一部と認識しているからだ。
「ズルをする」のを忌避するのは、その行為が反社会的だからであり、だがこの「ズルをする」の一部事象が社会的に容認されれば、それは「ズルをする」ではなくなる。
すると誰もが、その「元ズルをする」行為に対して鬱結した念を向けることはない。
なぜなら、それは既に誰でも容易に行えることになったことで「社会的価値」が損失し、そこにぶつける鬱結した念が存在しないのは、ぶつけるべくして存在した「高低差」がなくなっているからである。
つまり『ルサンチマン』なる概念は、たとえそれが一般的な論理においての悪徳であろうと、それが結果的に高低差を生み出す行為もしくは得ようとしても得られない(この場合、行動として)事象に対して生ずる情動なのでは?と思うのだ。
だからこそクロちゃんは批判されるべき存在であり、批判されなくては、強固に築かれたルールの一端が崩壊する危険性がある。
そのように考えれば、うそつきが激しく非難されるのも納得であるが、それは同時に、築かれたルールを再認識するだけのことにも他ならない。
ホッブスは自然権の存在を訴え、それは人としての凶暴性について目を向けていたからでもあった。しかし昨今においては流石に、ヒト本来の性分として「ルールが存在しなければ激しく凶暴かつ利己的に尽くす」と考える者は少ないだろう。
それでいながらも、「うそをついてはいけない」というものは倫理的なルールとして強固にそして妄信的にも信じられ続けている。それは相手を裏切らないためでもあり、相手からも裏切られないための、よりよい相互関係を求めてのルール。
しかし、そこで「うそをついている」者を批判する行為は、正確には「うそをついていること」を批判しているのではなく、「ルールを破っている」ことを批判していることを自覚するべきであり、「ルールを破っている」ことを単純に批判することは、「ルールを破りたいけれど破れない」ことに対する鬱結の念である可能性を考えなければならない。
なぜなら、それこそ「悪徳への憧れ」から「悪徳の実行」への萌芽させる因子になり得るからであり、故に重要なのは、それが「悪徳」と定めるルールの本意を理解しようとする事だ。
さもなくば、「うそつき」を「うそをついているから」という理由のみで批判し続ける限りは、同じ穴の狢ということになるのだろうから。