最近、
「話せばわかるっていうけど、うそだよね」
と言うのを聞いて思ったこと。
実際、この「話せばわかる」は本当じゃなくて、かといっても完全にうそでもないのでグレーゾーンだと思う。
けれどじゃあどうして
「話してわからないのか?」
という状態が生じるかと言えば、その原因は大きく分けて二つあるかと。
①会話が『言語行為』と化しているから。
②『力への意思』のため。
①の『言語行為』というのは、平易に言って「発話として言葉の意味内容を伝えようとしているのではなく、発話を別の形での行為として使用している」ということであって、わかりやすい例で言うと、苛々している母親がなかなかご飯を食べない子供に「早くご飯を食べなさい!」と怒って言うのはご飯を食べないことを怒っているのではなく、自分の苛立ちを子供に向けて発散している、ということ。
このように、本来の発話としての意味を役割とするのではなく、別にある主題を発話行為に宿してしまっていることを指す。
だからこの場合、「話してわかる」は成立せず、だって相手は話をしているのではなく、己の感情を相手にぶつけているだけなのだから!
②はニーチェによる有名な思想。というか、この発想があったからこそ、ニーチェは偉大とされているのではないか?というぐらいには思慮の深い捕え方。まさに人の意思のあり方についての核心を突いていて、これにまた有名な「永劫回帰」や「超人」などの言葉も関連してくる。
この「力への意思」に含まれる、複合的な意味を紐解いていけば、
「ああ、なるほどね、だからあの人はいくら話しても、わかろうとしないわけだ」
という事態も深く納得できるのだから、実に便利な思想でもある。
この『力への意思』とは、横暴にも簡潔に一言でまとめてしまえば、
「自己肯定への絶対的な意思」
みたいなもの。
だからこそ、相手の意見を聞き入れないのは「相対的な意見の対立」というよりは、「ゆるぎない信念を崩されるのを恐れるため」ということに他ならない。
まあだからといって「じゃあ、人の意見もそれぞれだから、それぞれでいいんじゃない?」と譲歩して終了してしまえば、それこそあの有名な言葉「神は死んだ!」を体感することになるのであって、忖度は決して進歩を生まないとするような弊害もある。
じゃあ、話してもわからない相手とはどうすればいいか?
極論を言ってしまえば、それこそロボトミーでもしなければ「瞬くに解決!」なんてことはないと思う。
それでも「話してわかろう」とする真摯な心があるならば、決定的な方法がひとつ。
それは「わかろうとする」気持ちを持ち続けることであって、このシンプルながらとても重要なことを見過ごしがちなのは、おそらく何かをあきらめてしまったことがあるからだと思う。
なるほど、確かに世の中は理不尽であり、むしろ叶わない願いのほうが圧倒的多数。
しかし、あきらめることができるとの同様に、あきらめないで思い続けることも可能なのだ。過去の偉人において「ほかの人と違い、秀でている部分は何か?」とすれば、その答えこそ、あきらめの悪さに他ならないと思う。良い意味での我の強さ。
無論、それだけの価値がある相手であると、自分で思える場合だけど。
身近な人と少しわかりあうためだけに、そんな悠長なことはできません!
なんて場合には、ここでちょっと変わった解決方法を提案。
それは”握手”。
哲学家のミシェル・セールは、こう述べている。
「肌の重なる場所にこそ魂は存在している」
たとえ嫌いな相手であっても、直に触れ合うことで、互いに生じる感情もある。
接触という行為もまた、相互理解に向けては単純ながらとても効果があり、そして有意義なことであるはずなのに、殊に見過ごされがち。
相手を無慈悲に批判できるのは、相手のぬくもりを直に感じないから。
そんな真理は、ネットが嫌と言うほどに証明してくれている。
だからこそ、相手を理解するにはまず相手を一人の生きた人間であることを、実感するべきだと思う。