鬱々とした作品と創作意欲
暗い作品が好きだ。
元来、自分が根暗な性分のためでもあるだろう。
しかし本当のところを吐露すれば、暗く鬱蒼として生を否定するような作品を好むのは、結局のところそれが生という本質的なものを捉えようと足掻いているからではないかと思う。
生きていることに意味はない。
そんなことを見かける度に、果たしてそれは本当なのかと考える。
反駁したい衝動に駆られ、生の謳歌を唱えたくなることに、個人として制作意欲が沸き出てくるような気がするのだ。
創作というのは一種の抗いであり、同時に救いでもあるのではないかと思う。
もし本当に、生きていることに意味がないのだとすれば。
意味を見出だそうと躍起になるのは滑稽であり、だからこそ人生は悲劇であり喜劇なのかもしれない。
面白いね。
「みんな違って、みんないい」の矛盾
現代は多様性の時代であるとよく耳にする。
一人ひとりが違う人間なのだから、違って当たり前。
だから価値観を押し付けては駄目ですよ、と教育する。
異なる価値観を認め合いましょう、と説明する。
みんな違って、みんないい。
これに備わる矛盾が、現代社会を席巻している。
そんな気がしたので、これを書いてみた。
ところで皆さんは”麻布競馬場”という方をご存知だろうか?
私は最近この方の存在を知り、きっかけはアベプラだった。
”タワマン文学”というのは非常に興味深く思えた。
ただ一点、気になったのは特別さと承認欲求について。
タワマンに住みたい理由として、結局は自分が勝ち組であることを誇示したいから。
自分は特別な存在であると信じて疑わず、抱いた幻想が現実にならないことに対する失望と欺瞞。
そうした心の機微を捉えたことで共感を呼び、話題になったのだとは思う。
だが自分が本当に特別な存在であれば、そもそも共感を得られない。
何故なら”特別”とは他とは異なることを示すからで、”特別”でありながら”共感”を得ることというのは本来矛盾しているのではないか。
よって、著名人などの”特別”な存在が”共感”を得るのは、それは彼らに備わる”特別じゃない”部分によってであり、本当に特別な部分は共感されない。
他の人は持っていないものなのだから当然だ。
その上で、”タワマン文学”では成れなかった(成れたとしても)特別さを同じ特別として認識し、共感できている。
だからこそ言ってしまえば彼らが謳う”特別”は特別ではないのである。
それは社会的なものであり、イデオロギー的なもの。
そうした自覚を抱いているからこそ、刺さるんじゃないのかと思う。
面白いね。
ここでタイトルの件に戻るわけだけど、こうした論は現代の多様性に対しても言えるでは? と思う。
みんな違って、みんないい。
多様性の尊重は、個々人の特別さを厭わない。
その代わり、その人は共感を得られない。
それなのに、人々は共感を求めてしまう。
だからこそ齟齬が生まれる。トラブルが生じる。
人は共感を得るために妥協し、人に合わせる。
価値観の共有こそ、共感の根底にあるからだ。
みんな違って、みんないい。
だけどみんなと本当に違えば、共感を得られないよ。
こうしたことに気付いておくことは大切なんじゃないかと、多様性についての考え方ばかりが先行する世に対してちょっと思ったり。
■
最近、勤務先で知り合った人にすごくよくしてもらっている。
この前などはコートを頂いたほど。
それはすごく感謝していて、非常にありがたい。
だから出勤するとき自前のコートじゃなくて、頂いたコートを着ていかないと悪いような気がしてしまう。
けど元からあった自分のコートにも愛着があるわけで。
どっちを着ていこうかと迷う最中に思ったのは、もしかして自分も同じことをしていたかもしれない、ということだった。
友人知人へとたまに本や映画をあげたりしているんだけど、あげた手前、本だったらやはりそれを読んでほしいし映画だったら観てほしい。
でもそれはある意味、否定だったのかもしれない。
自分の何かを押し付けるというのは、相手の個性を否定することでもある。
貰ったコートを気にすることで自分のコートを蔑ろにしそうになったとき、そんなことを思い感じられた。
それでも頂いたコートは厚手で暖かいので着るけどね!
体調不良
昨日はもうなかなかに調子が悪くて、月曜の深夜からトイレと「ズッ友だょ……!」状態。仕事は当然休んで一日中寝ていようかと思えば友人のトイレ君に何度も呼び起こされ、なんとか少し眠って回復。僅かな食欲に希望を見出すものの食べるものがないので近所に出かけて朦朧としながら買い物をして帰って、その後の記憶は曖昧で、ただ夜はぐっすり眠れた。
というか今年一番によく眠れたのではというほどには快眠でき、さらにはバック・トゥ・ザ・フューチャーの現代リメイクのような新作を観るといった素晴らしい内容の夢のおかげで目覚めも良かった。
おかげで今日は仕事復帰を果たし、未だ万全ではないような気がしつつもだいぶ復調。
どっと新年早々の仕事の疲れが漏れ出たのかも。
2022年に読んで面白かった本・おすすめの本
あっという間にもう九日。
せっかくの祝日なこともあり、今のうちに去年を振り返ろうとこの記事を書くことに。
改めて去年読んだ本を確認してみたところ、数は多くない。
しかし読んで良かったなと思える本は結構あった印象も。
ということで、簡単な感想とともに何冊かおすすめの本を紹介します!
チャック・パラニューク? となる人には『ファイト・クラブ』の原作者と言えばいいかもしれない。
著者の本を読んだのはこれが初めてで、事前情報もなく一読した。
正直、度肝を抜かれた。
破天荒な展開はもとより、印象的なのは何よりその文章。
散文というよりかは韻文のようにして構築された文章の数々。
反復法によって生み出される独自のリズム性は顕著で、脳裏に刷り込もうとするかのように、ぬるぬると脳髄へと文章が、言葉に潜む意味が流れ込んでくるかのような感覚。
小説における映像性。
言葉における空間的な広がり。
それは意味に対する挑戦のようにも感じられた。
非常に稀有な小説で(というかそれはチャック・パラニュークの小説すべてに言えるだろう)、衝撃を受けた作品であることは間違いない。
前々から興味のあった本。
図書館にあったため借りて一読。
面白い。
内容としてはタイトルどおり。
クソどうでもいい仕事のことを「ブルシットジョブ」と呼び、要は”あってもなくてもいい”仕事の紹介所ならぬ紹介書。
「別になくても変わらないんじゃないか?」という仕事を当事者の声から明らかにしていく本で、現代の社会構造に疑問を投げかける。。
社会的貢献を何一つせずに高給を貰い、しかしそうした現状に満足してしまっている者たちも居る。そんな中にも「自分の存在意義って何なのか?」と思い悩む人々は居て、本書はそんな彼らの心の叫びの大集合。
中抜き産業盛んな日本も人のことは言えないね!
伊藤計劃氏の作品としては、これまで『虐殺器官』『ハーモニー』と既に読んでいて、言語的かつ重厚なSFを書く人だなと畏敬の念さえ抱いていた。
早くに亡くなられたのは本当に残念で、私もその才能を惜しむ人達の声に含まれる一人です。
そんな折、彼のエッセイ集的な本書自体は前から手元にありながら積んでいて、去年ようやく一読。内容は、主に映画についての感想など。
その感想が実に面白い。
的を射ているのはもとより穿った意見がいくつも散見され、どれもが的確というよりかは彼の思想の混じった的確さ、という表現が適切だと思う。
癖のある解釈は独自性があって、濃い。
とにかく濃いと言えるし、その濃さこそが唯一無二と呼べるもの。
うーん、おもしれぇ……! と思わず唸ってしまう批評の数々で、『バットマン・ビギンズ』に対する評論なんかは実に見事で、バットマンに対し「お前ゴッザムシティに住んでねえじゃん」は的確過ぎて思わず爆笑した。
スゴ本。
本書が突出している点は、消費社会の構造、その細部にまで潜り込んでいること。
たとえば成金がブランド品を見につける理由について。
理由は「そのブランドが純粋に好きだから」ではなく、ブランド品を身に纏うことで、己の富を誇示することに本質的な目的がある。
なんて言説はもはや一般常識であると思う。
しかし本書はその奥へと更に迫り、解説する。
では、この社会はそもそもどうして富を誇示することに意味を持たせられるのか?と。
ポイントは『消費社会』。
ここで敢えて『資本主義社会』にしなかったことの意味を、読めば納得できるだろう。
個人的に目から鱗だったのは、消費メディア論。
この部分について、端的に解説しよう。
たとえば過激な投稿を繰り返すツイッター民が居るとしよう。
以前であれば彼のこうした行為に対する解釈は、”承認欲求ゆえの行為” ただそれだけで、それ以上の意味はない。そう思っていた。
しかし実際には違い、そこにあるのは日常の差異化だと本書は主張する。
過激な投稿することで自らの立場を危ないものにし、危険な状況は非日常を意味し、そうすることで何事も起こらない退屈な日常、それ自体を尊いものにするための行為。
本書によれば、このような解釈もできるのだ。
これは自分にとって新たな視点で、物の見方をまた一つ広げてくれたことには間違いない。
最後、本書内で見つけた名言を紹介。
「真に豊かな社会とは、蓄えのない社会である」
去年は言ってしまえばパラニュークと宮台氏にハマった一年で、この両名には実に傾倒した。
だからこそ、あの事件は実に痛ましく、一報を聞いたときには胸が締め付けられる思いだった。無事で本当に何よりだといえる。
というわけで去年はパラニュークと宮台氏の本を数冊、手に取り読んだわけだけど…
互いに共通する点があるとすれば、どの本も素晴らしかったということだ。
その中でも本書を挙げたのは得るものが大きかったためであり、初学者向けの内容でもあったためでもある。
本書は日本の社会情勢をサブカルチャーを通じて解説し、相互浸透的な側面(サブカルチャーだけに)があることを統計的な手法も用いて丁寧に示す。
そこから見えるのは日本文化の推移、というばかりでなく日本倫理の推移もまた伺うことができ、道徳形成に日本のサブカルチャーがどれほどの影響を与えてきたのかが見えてくる。それ故、大変勉強になった一冊。
個人的はエンタメの勉強としての意義が大きく、クリエイター必読の一冊といっても過言ではない。
本書を読めば「あの作品がヒットしてあの作品がヒットしないのはなぜか?」なんていう疑問は瞬く間に氷解するだろう。
オリバー・サックスといえば『妻を帽子と間違えた男』で有名な脳科学者。
そんな彼による一冊で、内容としては言語学寄り。
本書も一読することでまた認識を大きく覆された一冊で、得るものは大きかった。
というのも本書を読むまでは正直”手話”といったものに興味、関心が薄く、『聲の形』
でその存在を大きく意識したもののその後は特に何もなし。
そんな折、本書に出会って大きく影響を受けた。
まず言っておくことがある。
実に不遜で誠に申し訳ないことだが、私は本書を読むまで手話を発話という形の言語より下に見ていました。本当にすみません。
しかし本書を読むことで、その認識が実に安易で脳たりんな考えであったことを思い知らされた。
手話とは四次元的な言葉である。
本書において、手話はこのように紹介される。
それは手話が空間を用いるからであり、同時に速度も関係するからだ。
簡単な例を示そう。
たとえば口で「早くこっちにきてー」という場合。
この時「早くこっちにきてー」という言葉自体を早口で言おうと、ゆっくり喋って言おうとも言葉の意味自体に変化は生じない。
しかし手話の場合は異なる。
示す手の動き、その動きが早いか遅いかによってなんと意味が変化するのだ!
手話のことを空間的、四次元と表現するのはこのような理由がある。
空間的、時間的側面を持つ言語は現存するものでは手話だけなのでないだろうか?
そういった意味では手話の可能性は著しく、発話の上位互換になり得るポテンシャルがあるのでは? と思わず感じてしまったほどだ。
そして手話が視覚的な言語であり、イメージ的な言語であることも非常に重要な点である。そもそも、思考する際に言語は必要か?(ここでいう言語とは我々が一般的に用いる言葉としての言語である)
この興味深い問いに対するアインシュタインの答えが本書にあり、最後にこれを示す。
「言葉、つまり書かれたり話されたりしたものとしての言語は、私の思考装置では何の役割も果たしていないと思われる。心のなかにあって、思考の要素として役に立っていると思われるのは、ある種の記号や、視覚的で力強いタイプの……明確だったり不明確だったりするイメージなのである。習慣的な言葉をはじめとする記号が、細心の注意を払って探求されなければならなくなるのは、ようやく第二段階に入ってからのことなのだ」
あけましておめでとうございます
本年もよろしくお願いいたします。
新年の挨拶はここまでとして、後は書きたいことを書こうかと。
去年も友人知人と度々哲学のような話をしたんだけど、たまに「人生の意味とは?」といったテーマになることがある。
友人の場合は盛り上がったりするんだけど、知人の場合は隠れて辟易することもしばしば。
そんな折、最近この質問に対してはこんな言葉を想起した。
「アートとは何か?」
これに関する答えは実に千差万別で、何故ならアートに答えはないから。
アートとは前提に縛られず、意味として広がりを持つものである。
そんなことを主張する論文もあるそうで、だから「アートとは何か?」と尋ねられれば最終的にはこう答えることになる。
「アートは、アートでしょ」
この現象には実は名称がある!
それが「アートートロジー」。
個人的には、聞いてなるほどと深く納得。
意味は言葉通り。
「アートはアートである」ということだ。*1
でだ。
このアートについての話から、最初の疑問に対する新たな回答を得たってわけ。
「人生の意味とは?」
これは「アートとは何か?」と実際にはほぼ同等の質問なのかもしれない。
人生にも明確な意味や定義なんかは、ない。
だから
「人生の意味とは?」
と聞かれ、万人が納得できる答えを求めれば「人生とは人生である」になるだろう。
去年のうちはこうした疑問に対して「人生とはマクガフィンでは?」と答えるようにしていた(ここでいう「マクガフィン」とは「人生の意味とは?」に対する答えであり、「人生の意味とは?」の追求それ自体を意味づける存在になるのではないかと言う意味であって細かい説明を省いて言えば「それは動機であり、それ自体には意味がない」ということ)のだけど、今回帰省し、実家で文藝界のアート特集を読み直したことで気付けたわけだ。
なので「人生の意味とは?」という問いが「アートとは何か?」と同様の形式に成らざるを得ないのであれば――
”人生” とは ”アート” なのかもしれない。
あと年末観たアニメでは『アキバ冥途戦争』が非常に素晴らしかったため、時間があれば感想をまとめるつもり。
この作品はシナリオが特に秀逸で、この時期のほかのアニメに比べて頭ひとつ抜きん出てた印象(と言っても秋アニメそこまで観てないけど)。
*1:この言葉にはウィトゲンシュタインが怒りそうではある
M-1のはなし
今回、久々に最初から最後までM-1をしっかり観たけど、想像以上に面白かった。
ウエストランド優勝にも納得の面白さで、彼らの漫才にはゲラゲラ笑ってしまった。
そこで思ったのは、やはりウエストランドの毒舌漫才について。
審査員も言及していたように、”現在では「誰も傷つかないお笑い」が主流となりつつある中においてのこの毒舌さこそが快い”というのは尤もで、昨今は誰も傷つけないことこそが最重要とする風潮が強過ぎるように感じられることもしばしば。
誰も傷つけないことが大切なんだから差別なんていうのはもってのほか!
なんていう考えはまさにお笑いと相反する思想ではあって、何故ならお笑いというのは差を笑うものであり、ズレを滑稽にとられることにあるのだから。
今回、ウエストランドは漫才の中で「ユーチューバーはまともじゃない」やら「いずれ警察に捕まる」といったことを発言しては正直ゲラゲラ笑ったんだけど、しかし重要なのはこうした毒舌漫才における構図であり、構造だ。
今回のウエストランド優勝によって毒舌漫才、いや毒舌系のお笑いが最注目されることになるだろうけれど、毒舌としてのお笑いとは単に悪口ではないということを理解しておくことは非常に重要なんじゃないかと個人的には思うのだ。
ウエストランドが毒舌を吐く相手はあいくまで”ユーチューバー”という括りであり、個人ではない。これは意識しておくべきポイントで、毒を吐く相手を”カテゴライズ化された不特定多数”にしていることは留意しておくべきことである。
”カテゴライズ化された不特定多数”に毒を吐くことによって、ダメージを負う相手を減らそうという配慮はもとより、それによって逆に毒を吐いた本人のことを過激な差別主義者的として戯画化するという構造がここに現れる。
つまり毒を吐いた内容ばかりか、毒を吐く張本人そのものも実際には笑いの対象であり、ここに漫才としての面白さが成立する。
だから”毒舌がウケる”といった風潮が世に広まったとして、それを単に”悪口を言う”ことと混同してしまわないようにしてほしい。
他に、お笑いとして扱ってよい対象の差について(太った女性を貶すのはNGで、奇矯なおっさんならOKなど)なんかは語るべき点が意外と多いように感じられながらも、それを綴ると長くなりそうなので省略。
ただ今回のウエストランドが示したのは、単なるM-1優勝だけではない。
昨今の表現規制に対する鬱憤の吐露であり、差別と区別の違いを知らぬ不特定多数への挑戦状であって、笑いとは何か? 人間の社会性とは何か? についてなんかを改めて考えさせる、ひとつのきっかけにも成り得るんじゃないかな? と思ったりしたわけだ。