知人に「好きな小説は?」と聞かれ、まず頭に思い浮かんだのがオーウェルの一九八四年。そこでこの小説について、改めてちょっと考えてみる。
この小説をはじめて読んだのはもう何年も前のこと。
最初に読んだときには衝撃を受けたね。
今にして思えば、言語に対して興味を抱けたのも、言語の本質とは?という疑問を持てたのも、この本がきっかけだったのかもしれない。
昨今読んだある本*1にはこのようなことが書いてあった。
「今後AIがより発展すれば人間の仕事がなくなる?いえいえそんなことはありません。何故ならAIは言葉を用いることが出来ても、言葉自体の意味を理解できないのですから!」
そのようなことを述べていたが、ひとつ疑問がある。
そもそも人間は、言葉の意味をしっかりと理解しているのだろうか?
たとえば、私たちは普段さまざまな電化製品に囲まれて生活している。
しかし、その内の何人が冷蔵庫や電子レンジの構造、原理を理解し説明できるだろうか。
おそらく大半の人が構造や原理を理解せずに使用しているはずだ。
使えるなら別にそれでいいじゃん。構造とか、原理とか知らなくても。
こうした物の最も身近なものこそ、”ことば”なのではないかと思うのだ。
ことば。ありがとう。こんにちは。さようなら。
私たちはこの言葉の意味を知っている。用いる場面を理解している。
だがこれらの言葉の意味の奥に潜む構造、原理を理解しているのかと問われれば、必ずしも「イエス」と答えられるわけではないだろう。
私たちは何故「こんにちは」を使用するのか?
何故「こんにちは」でなければならないのか?
比較的分析が容易に思われる「こんにちは」ですらその構造を明らかにするのが困難だとすれば、無数に存在する「ことば」の意義や定義はどのように定義し理解するのか。
と、そんなことを考える萌芽のきっかけを与えてくれたのが『一九八四年』ってわけ。
この本は言語の役割について、機能について、それを物語を通して教えてくれる。
もしこの本を読んでいなかったら、今の自分はここに居なかっただろう。
そういう意味では感謝の念しかないが、多少の狂気を抱いているのもまた確かである。